30. 折衝
カトリーヌ女史に招待され、レナータ嬢と話して癒やされた翌日。
着慣れた真紅のドレスの代わりにロートリベスタ家の礼装を着込んだ私は、いつものように髪を結い上げて化粧をするとエルリックとの折衝のために迎賓室へと向かっていた。
折衝とは言っても、実務レベルでのそれは役人達同士による駆け引きで既にあらかた済んでいる。
正使たる私と国王たるエルリックがするのは、半ば形式的な合意形成だった。
とはいえ、彼と顔を合わせるのは剣技大会の決勝で私が未来予知をでっち上げて向こうをやり込めて以来である。
あの時敗北を認めながらも舌打ちをしていたエルリックの機嫌がもし悪ければ、必要以上に話し合いが長引くかもしれない。
逆に、私がクララに煽らせた反国王派貴族達への対処で私達との相手どころではなくすぐに終わるかもしれない。
その辺りに関しては未来予知の能力など持っていない私には分かるはずもないし、出たとこ勝負といったところだろうか。
壁には見事な絵画が扉を通り過ぎるごとに飾られ、あちこちに彫刻などの美術品が置かれた廊下はさながら美術館のようなものである。
もしリヒャルトが見れば大喜びするだろう異国の芸術を鑑賞しつつ歩を進めた私とカルロは、この王宮の侍女に先導されてエルリックより先に迎賓室へと入った。
こちらの方が身分が低いのである、相手より先に現場へと入っておくのは当然のことだろう。
外交に使われるだけあって、家具の一つ一つに至るまでが見事な内装の部屋だ。
私が椅子に腰を下ろしカルロがいつものようにすぐ背後に控えると、やはり侍女によってすぐさま紅茶とお茶菓子が饗される。
お茶請けとして出てきたのは、恐らく冷製だろう小さめの南瓜パイ。
フェーレンダールは南瓜の生産と消費が盛んだと聞いていたけれど、中にはこうしたスイーツも考案されているらしい。
アネットへのお土産が一つ増えたなと思いつつ、私はエルリックが来るだろう予定の時間を陛下からいただいた時計を眺めながら待つ。
日本の諺で時は金なりと言うけれど、金を時間で買うことは出来ても時間を金で買うことは出来ないのだから両者は等価ではない。
エルリックはまだだろうかと少し心が急くのを感じつつ、私はフェーレンダール側との合意内容ということで役人達が持ってきた書類の束に改めて目を通しながら彼の到着を待つことにする。
既に書かれている内容には昨夜目を通しているが、改めて記されている数字を頭の中で計算していく。
おおよそ目くじらを立てる必要のある部分がないような無難な内容である、この内容ならばどちらの国も損はしないし帰国して陛下に報告しても納得していただけるのではないだろうか。
「陛下におかれましては今日もご機嫌麗しく。ご尊顔を拝見出来まして光栄ですわ」
すると、エルリックが室内に入ってきたので私は立ち上がって彼に向けて礼をする。
彼が来たのは、ぴったりと事前に決められていた時間の通りだった。
「ロートリベスタ卿、お前の目にはそう見えるか?」
私の形式的な挨拶に対して、不機嫌そうな表情と口調で尋ねてくるエルリック。
確かに、彼の言う通りその様子からは到底機嫌が良さそうであるようには見えないけれど。
「この場に国書を持ってくるつもりだったのだがな。誰かのせいで到底困難になったのだ」
「陛下も大変でございますね。心中お察し致しますわ」
そう言って私のことを左右で色の違う瞳で軽く睨んでくるエルリック。
どうにか形勢逆転に成功した私だったが、そのおかげで彼は国書を書くことを断念したらしい。
最初にいきなり外堀を埋められたことを考えればそこから巻き返せたのは何とも喜ばしいことだけれど、その手段として私がフェーレンダール国内の反国王派貴族を煽動したことを見抜かれているらしい。
或いは、私にとっては非常に好都合なことにラファエルがエルリックと一緒に来ていないのもラファエルが国内対策で手一杯だからなのかもしれなかった。
まあ証拠がある訳ではない(クララが証拠を残すようなミスをするはずがない)ので、いくら疑われたところで別に構わないのだけれど。
それに、これで私を危険人物と看做して諦めてくれるのならこちらとしても都合がいい。
同情するような声と表情を浮かべさせた私は、わざと大げさな身のこなしで白々しい言葉を返す。
きっと、エルリックは挑発されていると感じて苛立ちを覚えていることだろう。
「ふん、私を怒らせようとでもいうのだろう。その手には乗るものか」
「そのような。僭越ながら、陛下とはよき関係を築ければと思っておりますわ」
元はといえばOLだったこの身、交渉事には通じている。
相手が苛立っていれば冷静でいる時と比べてずっと付け入りやすくなるのは確かであり、これから行うことになる交渉を少しでもこちらにとって有利なものにしようとしていたのだった。
だが、向こうとて自国の貴族達を相手に百戦錬磨の国王である。
鼻で笑われた辺りこちらの小細工など見抜かれているらしい、早くも駆け引きは始まっていた。
「まあいい。始めるぞ、ロートリベスタ卿」
「はい、陛下。まずは合意内容のご確認をお願い致します」
私の言葉が建前上のものだと分かっているのだろう。
エルリックがさしたる反応も示さずに私の対面の席につくと、彼は折衝を始めるという。
手続き上はここで決まった結果を私がベルフェリートに持って帰り陛下が書類にサインして初めて発効なのだけれど、私が正使として陛下から全権委任されている以上実質的にはこれからの折衝で全てが決まることになる。
私が目を通していた書類にあったようにあらかたのことは役人達同士によって既に決まっているのだけれど、それをそのまま承認するだけというのも芸が無い。
どうせならそこにプラスアルファで一つか二つこちらに有利な条項を勝ち取ってこその正使であり、エルリックとの直接交渉ではないか。
他者との取引において利益を求めることは私の原点と言っても過言ではない。
向こうも同じことを考えているかもしれないけれど、必ずやこちらに有利な形での決着を導いてみせよう。
そう心に誓った私は、テーブルを挟んでエルリックと対峙したのだった。
これから行われるのは、剣によらず言葉による一騎討ちだ。
しばらく言葉を戦わせて、激しく己の利益を求め合った私とエルリック。
互いに自国を背負っているのだから当然だけれど、どうにか私はベルフェリート側に有利な譲歩を幾つか勝ち取ることに成功していた。
思わず溜め息を吐きたくなるような疲労感。
カルロと第三騎士団長の打ち合いにも匹敵するような激烈なやり取りは、私の精神に多大な疲弊を与えていた。
部屋に戻ってレナータ嬢と話して癒やされたいところだけれど、そうもいかない。
「こんなものか……これでいいな? これ以上の譲歩は出来んぞ」
「はい。良き交渉が出来まして満足ですわ」
交渉事には引き際も重要である。
あまりに多くを求めて欲張り過ぎると、かえって話自体がご破算になって損をしたりするのだ。
相手に幾つか譲歩させたのだから、ここで引いておくのが賢いやり方だった。
そして私達は、互いに合意文書にサインをしていく。
書かれている内容に間違いが無いか確認し合ってから私はベルフェリート語でサフィーナ・オーロヴィアと、彼はフェーレンダール語でエルリック・フェンドロードと。
「それにしても、ロートリベスタ卿のフェーレンダール語は随分と古風なのだな」
「我が偉大なるベルフェリート王国にあるフェーレンダール語の古い書物を読んで学習しましたので。そのためではないでしょうか」
自分の名前をペンで書き記しながら、ふとエルリックがそんなことを言い出す。
一応最近の小説を何冊か読んで語彙のアップデートはしているとはいえ、私のフェーレンダール語のベースになっているのは二百年前のそれである。
二百年の時間というのは言葉が通じなくなる程長くはないものの、それでも単語の多くが古語になるくらいには長かった。
そんな私の話すフェーレンダール語を聞いて、この国のネイティヴの人々が古めかしいと感じるのはごく自然なことだろう。
丁寧な言葉遣いと古風な言葉遣いとは大して違わないものであるから、然程違和感が目立たなかったというだけで。
「書物だけでその水準で話せるようになるとは、卿の頭脳はやはり並外れているな。王妃にお前、宰相にラファエル。もしお前達二人が我が手元にいれば、私は足を引っ張る貴族どもの力を一掃出来る」
私への未練を口にするエルリック。
確かに王妃と宰相という最側近と言ってもよい地位を私とラファエルで独占させれば、彼は王として思う存分力を振るうことが出来るようになるだろう。
事実、仮に私がラファエルと二人で協力してエルリックを支えたとすればフェーレンダール国内の貴族の力をことごとく削ぎ落として主君を自由に振る舞わせる自信があった。
前世の私はそれをたった一人で行おうとしていたのである、それと比べればラファエルという有能な協力者がいることの何と心強いことか。
だが、それはあくまでも仮定の話。
現実の私はベルフェリート王国に生まれた誇り高き貴族であり、そしてレオーネ陛下に仕える忠実なる臣下である。
忠臣は二君に仕えずという言葉があるけれど、いくらエルリックが私を欲しがろうとも陛下以外の主君に仕える気は私には無かった。
「王妃にはベルフェリート人である私などより良き人材をお探しなさいませ。きっと見つかると存じますわ。案外身近におられるかもしれません」
頭がいいという意味ではマリア嬢を推挙してもよかったけれど、本人の意志も確認していないのに勝手に名前を出すのも可哀想だろう。
王妃候補になれるとは言っても単なる王妃ではない、エルリックの王妃は彼を支え激しい政争のプレイヤーの一人になるという重要な責務を負わなければならないのだから。
或いは私が専門的に教育して鍛えれば話は別だけれど、いくら賢いとは言っても政治や政争に関してきちんと学んだ訳ではないだろう今のマリア嬢には荷が重いと言わざるを得なかった。
――或いはもう一人、エルリックの王妃となるに絶好の人材が一人いるのだけれど。
恐らく彼は気付いていてその道から目を逸らしているのだろうから、少し匂わすだけに留めておく。
「それなら分かっている。お前に釣り合う程ではないがな。……ちっ、今回は私の負けということにしておいてやろう。だが、お前に渡した藍晶石の意味は忘れるなよ」
そう言って、ベルフェリート側が受け取るべき調印文書の控えを渡してくるエルリック。
斯くして、互いに胃が痛くなってくるような激しい折衝は終わりを告げたのだった。
さあ、後はこの国で親しくなった人々に別れを告げて我が愛しき祖国ベルフェリートに帰るだけだ。




