27. 紫の未亡人(1)
そして祝宴の翌日。
この国でも最早トレードマークのようになっている赤いドレスを纏い、ベルフェリートから同行してきた侍女に髪と化粧をセットさせて外出の準備を整えていた私を何者かが呼びに来る。
それが果たして何者であるかは言うまでもないだろう、カトリーヌ女史の使いの侍女だった。
昨日パーティーの中で約束した通り、私を王都の中に建っているセルージュ家の屋敷に招待してくれるらしい。
既にいつでも客室から外に出られる状態である私は案内されるままに王宮に乗りつけたセルージュ家の馬車の元へと辿り着き、カルロを伴って共に車内へと乗り込む。
斯くして街へと繰り出した私とカルロだけれど、私が改造して日用しているものとは違いサスペンション機構が組み込まれていない馬車は揺れがひどい。
それも平坦に整備された我が祖国の街道の上ではない、山地に位置しているが故に起伏が激しいフェーレンダールの王都なのである。
乗っている私達にはベルフェリートではまず味わうことのないような大きな縦揺れが襲来しており、ヴァトラの背に乗り慣れていることもあって揺れには強いと自負している私でさえ車酔いを覚えそうになっていた。
口には出さないけれどカルロの顔色も気のせいではなく青褪めている、果たしてフェーレンダール人はこの揺れが平気だとでもいうのだろうか。
だとすれば山岳戦で我が国に勝ち目は無いだろうななどと考えつつ半ば苦行のような道程を乗り越えると、かなり長く感じられた時間の果てにようやく私達は目的地たるセルージュ家の屋敷に到着する。
馬車から降りた私は、招いてくれたカトリーヌ女史と会う前に深呼吸をして少しでも顔色を普段通りに近付けておく。
早くも疲労困憊という体だったけれど、あからさまにそんな様子を彼女に見せるのも失礼だろうと思ったからだ。
とはいえこちらは招待されている側なのだからあまり相手を待たせる訳にもいかない、少しの間息を整えた私達は開け放たれている門を潜って敷地内へと足を踏み入れる。
果たして顔色は元に戻っているだろうか、どこかに鏡があればよいのだけれど。
そんなことを考えながら屋敷の入口を潜ると、すぐ正面には幅の広い階段がそびえていた。
さすがフェーレンダールでも有数の大貴族と言うべきか、内装も一目見てすぐ分かるくらいに豪奢である。
レイアウトは大きく異なっているものの、在りし日のロートリベスタ家の屋敷もこれくらい優美かつ派手に飾り立てられていたのを思い出す。
今私が領内に建てさせている館は、可能な限り二百年前のそれを再現するように設計したものだ。
再建は順調に進んでいるだろうか……と遠いアネットの元に思いを馳せつつ階段を見上げると、その目線の先である二階には私達を見下ろしている紫のドレスの女性の姿。
それが誰であるかは言うまでもないだろう、先代のセルージュ侯爵の未亡人であるカトリーヌ・ミュトラール女史である。
こちらの姿を視認すると、彼女はゆっくりと階段を下りて私達の方へと歩み寄ってくる。
いかにも貴族の女性らしい、ゆったりとした優美な身のこなし。
その振る舞いは非の打ち所の無い程に気品に満ち溢れていた。
「むきゅ」
「まあまあ。会いたかったわ、サフィーナさん。ふふ、早く今日にならないかとずっと待ち遠しく思っていたのよ」
十分に彼我の距離が近付くと、穏やかで慈愛に満ちた笑みを浮かべた彼女の腕がこちらに伸びる。
次の瞬間、私の身体はカトリーヌ女史によって抱き締められていた。
自分でも忘れがちだけれど私の年齢はまだ十三歳であり、この肢体も未だ成長しきっていない。
即ち大人の女性である彼女との間にはそれなりの身長差があることを意味しており、そのために私の頭はカトリーヌ女史の豊かな胸に埋もれるような形になる。
果たしてそれを自覚しているのかいないのか、彼女は私の頭の後ろに腕を回して抱き締める力をより強めた。
必然的に、ドレス越しに私の顔面へと伝わってくる弾力と圧迫感。
カトリーヌ女史の胸があまりに豊かであるが故の息苦しさに、思わず変な声を上げた私はじたばたと手足を振り回す。
「あら、ごめんなさい。貴女に会えたのが嬉しかったものだから、つい。許して頂戴ね」
「え、ええ、構いませんわ。カトリーヌさんがそれだけ親しく思ってくださっているのですもの」
「ありがとう。それよりも、サフィーナさんのためにとっておきの茶葉と茶菓子を用意したのよ。さあ、いらして」
それにより私の顔が胸に埋もれていることに気付いたのか私を解放してくれた彼女は、満面に笑みを浮かべたまま急かすように私を奥に先導する。
余程私とのお茶を楽しみにしてくれていたのだろうか。
少し息を整えてからその後ろに続いて階段を上り、しばらく高価な調度品や絵画の類いが惜しげもなく並べられた廊下を歩いていくとやがて彼女はある部屋の前で立ち止まる。
この屋敷を訪れるのはこれが初めてであるけれど、恐らくここがカトリーヌ女史の居室であるということなのだろう。
特別な場合を除いて、貴人は自分の手で扉を開けたりはしない。
侍女に扉を開けさせると、彼女はどうぞと言って私達を室内へと招く。
すると視界に映った部屋の中は華やかさこそ無いけれど、落ち着いた上品さに満ち溢れていた。
家具のデザインやカーテンの色など、全体が見事に調和が取れていて実にカトリーヌ女史らしい部屋であるというか。
当然ながら部屋の内装には主の趣味や個性が表れる、彼女が過ごしていて最も落ち着くのがこの内装なのだと考えれば実にしっくりときた。
ともあれ侍女に頭を下げられながら続いて入室した私は、やはり侍女が引いてくれた椅子に腰を掛ける。
続いてカトリーヌ女史も席につくと、必然的に私達はテーブルを挟んで向かい合う形となった。
こうして向かい合うのはこれが初めてではない、否が応にも私は前回対峙した時のことを思い出す。
恐らくは彼女の側も同様だろう、けれども決定的に異なっているのは場の空気であり互いの表情。
命を狙う側と狙われる側だったあの時とは違い、殺伐さなど微塵も無い穏やかな時間の流れ。
カトリーヌ女史は別人のように優しい微笑みを浮かべていたし、それに対して私も微笑みを返す。
その笑みは皮肉でも何でもなく、れっきとした親愛の笑みだった。
「そういえば、今日はこの前の可愛らしい侍女さんはいないの?」
「ええ。故あって、彼には一足先に我らが偉大なるベルフェリート王国へと帰国してもらっておりますの」
「残念ね。せっかくだからあの子も歓待しようと思ったのだけれど」
前回対面した際に、自身の命を救った張本人であるクララについて尋ねてくる彼女。
自害を阻止してくれた恩義故かカトリーヌ女史は彼のことももてなすつもりだったようだけれど、残念ながらクララのことは既にベルフェリートへと帰している。
それ故にこの場に同席させることは出来ないと告げると、彼女は残念そうな表情を浮かべさせる。
「そちらの子も座りなさいな。侍従だったかしら、サフィーナさんの側仕えなのでしょう?」
「侍従は側仕えというよりも公的な護衛としての役割が強いですね。ともあれ、お気遣いありがとうございます」
「私ごときが恐縮です」
侍従という文化はベルフェリート特有のものであり、フェーレンダールには存在していない。
そのことはカトリーヌ女史の身の回りにそれらしい人物がいないことからも分かるけれど、それ故に曖昧にしか侍従という制度について理解していないらしい彼女に対して私はより適切な解説を行う。
とはいえ、これとて侍従の役目を正確に言い表せているとは言い難かった。
時に武力を持たない非力な主の代わりに護衛や戦いを、時には退屈しのぎの話し相手を、時には誰にも話せない機密事項についての相談を、時には最も近い異性として恋愛対象にも。
主にとって侍従というのは様々な役割を併せ持った存在であり、一言で表現するのは到底不可能に近いのである。
いずれにせよ、単なる側仕えではないことは確かだった。
その誤解を解くと、私は礼法に則って後ろに控えていたカルロの同席を認めてくれたカトリーヌ女史に感謝を述べる。
カルロも感謝の言葉を述べると、少しぎこちない動きで侍女が引いた私の隣の椅子へと腰を下ろす。
恐縮しているというよりは、相手が相手であるために緊張していると言った方が適切なのではないだろうか。
私からすれば私とカトリーヌ女史との間にわだかまりのようなものは一切無いのだけれど、カルロにとっては目の前にいるのは主を危うく暗殺しかけた人物なのである。
なまじ生真面目なカルロであるだけに、警戒心を覚えて緊張するのも無理はないだろう。
「警戒せずともよいわ。私とサフィーナさんとは仲良しなのだもの」
「ふふ、そうですね。だから安心しなさい、カルロ」
自らへと向けられた警戒心を感じ取ったらしいカトリーヌ女史が苦笑しながら言うと、私もそれに同調する。
私と彼女とでは母娘程に年齢が離れているけれど、だからといって仲良くなれない訳ではない。
全ての問題が片付いた今、最早互いを隔てるような障害は何一つとして存在していなかった。
そして、私の言葉を耳にしてカルロがふっと肩の力を抜いたのが分かる。
私達のやり取りをよそに、無表情の侍女が三人の前にそれぞれ紅茶と茶菓子を配っていく。
そのてきぱきとした仕草は、さすが侯爵家だけあって侍女への教育がよく施されているようだった。
「そちらの子はカルロというのね。貴方の剣技大会での活躍、私も見ていたわ。『月の愛し子』さんも随分な強さだったけれど、貴方も大したものね」
「お褒めの言葉をいただき光栄です、侯爵夫人」
「そうでしょう? カルロは私の自慢の侍従ですから」
見事にカルロが平民部門で優勝を果たした先日の剣技大会だけれど、どうやらカトリーヌ女史も(恐らくは大会の再開後からだろうが)観戦していたらしい。
その結果への賞賛の言葉を謙遜しながら受け取るカルロに対して、私は自分のことのように誇らしく胸を張る。
元より主と侍従は一心同体のようなもの、そうであるからには侍従の功績は主のものと言っても過言ではなかった。
そもそも私とて栄養学の知識を元に食事面などでサポートしていたのであるし、カルロが出した成果を私が誇っても何も不自然ではなかった。
「サフィーナさんが我が国で『血塗れ女侯』と呼ばれるようになった戦いでも、貴女の傍にこの子がいたのかしら」
「ええ、もちろんです。彼が傍らで護ってくれたから、私は何も恐れずに敵へと突撃出来たのですから」
「まさに一心同体なのね。そのように心を許せる相手がいるのは羨ましいわ。夫が身罷って以来、私は恨みと憎しみに身を任せてきたもの」
「同情申し上げますわ」
身内で憎み合ってきたカトリーヌ女史には、誰も心を許すことの出来る存在がいない。
誰がどちら側なのかさえ釈然としないのだから当然だろう。
死因は事件性の無い病死だそうだけれど、夫である先代侯爵が死んで以来彼女はずっと孤独に実の息子を憎む日々を過ごしてきたのだ。
そのことを鑑みれば、私はカトリーヌ女史の境遇に同情の念を抱かずにはいられなかった。
「ふふ、お互い同情が必要な程弱くはないでしょう。そういえば、サフィーナさんが陛下の求婚を切り返した手腕は見事だったわね」
けれども、私の同情を軽く笑って流す彼女。
確かに、その言葉通りお互い弱さとは無縁である。
私は幼少の砌からずっと大切な人全てをこの手で護れるくらい強くあろうと心掛けてきたし、カトリーヌ女史も非常に頭の回転が早く精神的にも気丈な人物だ。
彼女の言う通り、私達の関係に同情など野暮なものなのだろう。
「あら、私はただ夢を見たに過ぎませんわ。全ては神のご意志です」
「一泡吹かされた陛下はそれでは納得しないでしょうけれど、そういうことにしておきましょうか。神でさえ政治のためとあらば平然と利用する、『太陽の聖女』さんは軍事だけでなく政治にもよく通じていることが分かったのは収穫だったわ」
「私は貴族ですからね。神が正しきを証明してくださるのです」
いつぞや馬車の中でカトリーヌ女史に語ったのと同じ言葉を、私は再び繰り返す。
私は神官ではなければ平民でもない、貴族なのである。
政争のためとあらば信仰すら平然と利用してみせてこその貴族という人種であり、私もエルリックの謀りと対峙するに当たってそのように振る舞ったに過ぎなかった。
「軍事、政治共に一流。後は内政でどれだけの成果を出せるか、フェーレンダールから貴女の手腕を眺めさせてもらうわね」
「ええ、ご期待くださいませ。きっと退屈はさせませんわ」
たとえ戦争と政争が大の得意でも、内政が壊滅的に苦手ならば領民の暮らしはおろかまともに軍勢を整えることさえも出来ないだろう。
そして、自前の軍事力が無ければ政争などまともに出来はしない。
その意味において、内政は貴族として全ての基盤であると言うことが出来る。
領地を貰ってすぐに正使としてフェーレンダールに来たために未だ世間的には未知数である私の内政の手腕をカトリーヌ女史はお手並み拝見させてもらうと言うけれど、明晰な頭脳を持った彼女をがっかりさせない自信が私にはあった。
――何しろ日本でOLをしていた頃の知識を流用出来るという大きなアドバンテージがあるとはいえ、軍事、政争、内政という貴族の三大役割の中で最も私が得意としているのが内政なのだから。
その自信を滲ませるように、私はカトリーヌ女史に向けていた微笑みを更に深めさせた。




