6. 嘉辰令月(2)
それから十分ほどが過ぎただろうか。
かなりの数があった円卓もほぼ全てが生徒達の姿で埋まり、教職員を務める貴族達も彼ら用の席に既に腰を降ろしている。
時計を見てももう定刻になりかけているので、始まるのは間近だというところだ。
ほとんどが中、下級貴族の生まれである新入生の大半にとっては、このような公式のパーティーに出席するのは初めてである。
それ故一部のものを除き新入生は皆緊張でそわそわとした様子であり、既に経験をある程度積んでいるため落ち着いている上級生とは容易に見分けがついた。
通達があったとはいえやはり気が引けているのだろう。
新入生らしき姿が見受けられるのは建物の中央から後方にかけてであり、上座に当たる前方にいるのは上級生ばかりだ。
そして、やはりというべきか最前列の中央左側、王子のいる円卓と対になった円卓には誰もおらず空席となっていた。
そこだけぽっかりと空隙となっている。
やがてどこからか優雅な宮廷音楽の調べが奏でられ始め、その美しい旋律が会場中に響いていく。
音の重厚さからして、オーケストラ編成だろうか。
これまた、やはり私が前世で耳にしていたものとは曲調が大きく異なっている。
二百年も過ぎていれば、文化や人々の嗜好は大きく変化するということなのだろうか。
それにしても、この弦楽器の音色を聞いていると前世のことを思い出す。
当時の流行は今演奏されているものとは全く違った曲調だったが、音楽を聴くのが好きだったので息抜きの際には雇ったお抱えの楽団によく演奏させて耳にしていた。
地球にいた頃にヴァイオリンの演奏は身につけていたので、少し勝手は違ったがそれを生かして時折自分で演奏したりもしたものだ。
とても懐かしい。
二人きりになった時に私が地球の曲を演奏すると、フォルクス陛下はとても喜んでくださった。
今どうなのかは知らないが当時はまだ地球とは違い和声の整理がされていなかったので、地球の曲の響きが陛下にはとても風変わりに聞こえていたらしい。
まあ、雅楽とクラシックでは同じ楽器で演奏しても全く曲調や雰囲気が異なっているのと同じようなものだ。
そういえば、この世界にはそれぞれヴァイオリンやギターに似た楽器はあってもピアノに似たものは無いのだよな。
ピアノの設計や調律くらいは自分で出来るので、いずれ国情が落ち着いて余暇が生まれたら設計図を書いて職人に作らせようと思っていたのだが、残念ながらその前に私は命を落とすことになってしまった。
昔の記憶を思い返しながらも演奏に聴き入っていると、やがてそれはクライマックスへと向かい徐々に盛り上がっていき、そして余韻を残しつつも演奏を終える。
それと同時に上がっていく舞台の幕。
舞台の奥には予想した通りオーケストラが並んでおり、その手前には一人の男が立っている。
だが、まだ幕が完全に上がりきる前に後ろの方からざわめきが聞こえた。
何だろうと思い、周囲の他の生徒達と同じように振り返る私。
するともう開始時刻を迎えるということで閉じられていた外開きの扉が外側から開かれ、そこから十数人の従者を引き連れたファルトルウが姿を現した。
彼は従者達を壁際で待たせると、会場全体からの注目を気にする様子さえ見せずに中央を歩き進む。
そのまましばらくその小柄な姿を眺めていると、ふと彼と目が合った気がした。
嫌な予感がした私は慌てて視線を外し、その場から数歩下がって周囲の生徒の身体に身を隠す。
しかし、得てしてこういった類の予感は当たるものらしい。
通路側の位置に立っていた私は、とてとてと歩いてきた彼にドレスの裾をつままれて軽く引っ張られてしまう。
別にこのつまみ方では下着を周囲に見られたりはしないし、つまむ力も引っ張る力もそれ自体は弱いのでドレスが破れたり装飾が取れてしまうようなことはないため特に具体的な支障は無いといえば無いのだが、かといってこうも衆人環視の中で彼を無視してしまう訳にもいかない。
「あ、あの、ヴェルトリージュ様……?」
ユーフェルのことは同じ下級貴族であるため名前で呼んでいるが、この少年は私の実家よりも遥かに格上、公爵家に匹敵する高位である辺境伯家の子息であるため礼法に従えば家名で呼びかけることになる。
王族と貴族の間ほどではないとはいえ、貴族間にもやはり爵位によってある程度の格差はあるのだ。
ましてこの国の場合、爵位と権威が先にあるのではなく軍事力や領地の広さに爵位が後からついてくるようなシステムだ。
爵位の差は、それほど厳密ではないとはいえある程度実力の差をも表しているといえる。
王家とてどうやら件のクーデター以降はベルファンシア公爵家に実権を握られているらしい(公爵家に憚っているのか、どんな本を読んでも現況についてはっきりとは書かれていないためこれは私の推測だ)が、直轄領はかなり広大であるし、騎士団も軍としての規模はこの国最大だろう。
王として一国に君臨するだけの力は備えているのだ。
もっとも、当時も王都には騎士団がいたにもかかわらずクーデターがあれほどあっさりと成功した理由は未だに分からないが。
奇襲で私の屋敷だけを狙ったのならともかく、その後市街地を占領し王宮をも襲撃してこの国の実権を奪ったからには、それを止めるためにどこかのタイミングで騎士団が動いていないのはどう考えてもおかしいのだ。
具体的にどれくらいの兵数だったのかは知らないが、それなりに人数が多ければ間違いなく私も気付けていた。
であるからには比較的小勢だっただろうことは確かなのだが、そんな数で精鋭であった騎士団と市街戦を演じて勝利を得られるはずもない。
騎士団が動いたならばクーデターが成功するはずはないので、動かなかったことは確実なのだ。
私は状況を把握する間もなくいきなり襲われて捕らえられ殺されたので、一体当時何が起こっていたのかは自分でもよく把握出来ていなかったりする。
耳に入ってくる少ない情報量の中でどうにか把握出来たのは、クーデターを主導していたのが当時のベルファンシア公爵であることくらいだった。
恐らく全て処分されていて存在しないだろう(私ならばそうする)が、当時の状況について中立的な視点から記録した文書があるのなら私のために死んだ者達のためにも一度読んでおきかった。
私が死に様を知っているのは、巻き添えになったそれなりに多い犠牲者達の中で共に捕らえられたたった一人だけなのだ。
可能な限り皆の最期を知っておく義務が私にはある。
……まあ、思い出すのも不快であるし、そのことは今はいい。
前世と前々世で様々なタイプの人間を見てきたが、正直なところ無口で無表情なこの子のことはよく分からなかった。
彼は私の言葉には答えず、くいくいとドレスを引っ張ってくる。
これは、ついてこいということだろうか。
一体何をする気なのかは全く読めないが、私だけ巻き込まれてしまうというのもあまり嬉しくはない。
振り返ってユーフェルに一度目配せをしてから、仕方なく私よりも少し背の低いこの少年の後に続いた。
「サ、サフィーナ嬢!?」
目配せを受けた彼は、そう驚いたような叫びを上げて私の後に続いてくる。
そうとはとても思えないくらいの迫真ぶりだが、タイミングからして恐らく演技だろう。
これならば、共に来ても不自然ではない。
それにしても、咄嗟に振ったにもかかわらずきちんと普段とは違う貴族らしい口調で呼びかけてきた彼は、やはり見た目とは違い実はなかなかの人物らしい。
演技とはいえいきなり自分に振られればこの年代の者ならばつい普段通りの呼び方をしてしまってもおかしくないはずだ。
いや、そもそも普段あのような良くも悪くも馴れ馴れしい態度を取ってくる子供などほとんどいないと言ってしまえばそれまでなのだが。
これだけの人数が集まっているだけあって、会場は相当に広い。
こうして考え事をしていても、一向に立ち止まることはなく先へと進み続けていた。
裏を返せばそんな私達三人を膨大な数の瞳が見つめているということである。
私自身、日本人であった頃の場慣れと前世で上級貴族として過ごした経験が無ければ今頃気が引けてしまっていたかもしれない。
少なくとも、高校生の頃の私ならとうに涙目になっているだろう。
その点、全く視線を気にした様子を見せないファルトルウとユーフェルはどちらもそれぞれ子供離れしていると言ってよかった。
実家の庭で会った際の王子も十二歳であったにもかかわらずそうとは思えないほど大人びていたし、ファルトルウに関しては辺境伯の子息という育った環境のせいだと言えるが、今の私と同じような下級貴族であるはずのユーフェルは一体何なのだろう。
ふと、ドレスの裾を掴んだ少年の歩が緩む。
思索をしていてぼんやりとさせていた視界をはっきりとさせると、そこには誰も回りに立っていない円卓があった。
わざわざ確かめるまでもない、王子のいる円卓と対になった、最前列の中央左側の円卓だ。
……そうだ、この子の存在を忘れていた。
学生の中で、王子とある程度とはいえ対等の立場に立てるのは唯一彼だけだろう。
それでも対となるここには立たずに一つ後ろの円卓の周りに立つことを選ぶ貴族も多いだろうが、教室での様子を見る限り何やら王子に対抗意識があるらしい少年ならば積極的にこの席を選んでも不思議ではない。
数時間前にはユーフェルのフォローもあって教室を半ば強引に脱出した私だが、或いはあの後二人の間で何かがあったのかもしれない。
問題は、何故か私が巻き込まれていることだ。
いずれにせよ、その辺りは私にはどうしようもない。
無表情のまま円卓の前に立ち止まった少年に続き、ひとまずその隣に身を落ち着ける。
じっとこちらを見つめている彼の表情は、やはり私には読めなかった。
そうして、それまで空席だった円卓に立つことになった私達三人。
生徒達が揃い会場内が人で満たされたのを見て、舞台の上に立っている男が話し始める。
魔法も、電子機器も無いこの世界だ。
声を増幅することが出来ないので、これほど広い会場に一人の話し声を隅々まで届かせるのはとても難しいだろう。
とはいえ、通っているのが貴族の子息達ばかりであるため、幕が上がった途端に皆押し黙り、会場が静寂に包まれたため後ろまで決して大きくはない男の声がきちんと届いているようだった。
指示されずとも自主的に皆が黙る辺りは、やはり貴族としての育ちのよさ故だろうな。
壇上で話している男がきっと校長だろう。
六十代くらいの老人だろうと勝手に予想していたのでそれよりは若かったが、しかし四十代後半であろうかというくらいの歳ではある。
両親がまだ三十過ぎであることを考えると、私から見れば大体祖父母に当たるくらいの世代だ。
大半が中下級貴族だと思われる他の教職員とは異なり、学園の責任者である校長は役割と服装からして恐らくは上級貴族だと思われた。
しかし、貴族としての体面のため静かにはしていても、真面目に男の話を聞いている生徒の数はそう多くはないようだ。
どこの世界でも、校長のスピーチが長いことは変わらないらしい。
皆退屈そうにしているか、もしくは私達の方に注目しているか、或いは実家では決して食べられなかっただろう豪華な料理の数々に目を奪われている。
そうした内心をそのまま表に出してしまっている辺り、皆貴族としてはまだまだひよっこだろう。
一人前の貴族には、内心でどう思っていようとそれを決して表に出さず他人に窺い知らせないだけの演技力が求められる。
腹の内を読ませないことは貴族として最も大事なことの一つだ。
まあ正直な話私も今の状況が気になって校長の話どころではないのだが、それでも顔と身体は舞台の方へと向けて話を聞いている風は装っていた。
目線だけをそれとなく動かせば、隣にはファルトルウ、そして通路を挟んだ対面には第一王子。
二人とも校長の話を聞くそぶりさえ見せずにじっと見つめ合っているため、私としては気まずくて仕方がない。
何しろ、傍らの少年が何を考えているのか分からないのはともかくとしても、王子がこちらを強く見つめてきている理由も分からないので対処のしようが無いのだ。
本当に私が逃げ去った後で二人で大喧嘩でもしたのだろうか。
であるならば、思い描いている私の目的のためにも二人を仲直りさせることにしばらく腐心しなければならないかもしれない。
ともかく、何をするにせよ長々と校長が話している中では出来ることが特に無い。
このまま気まずさを味わい続けるのも嬉しくないので、理由は全く違うが周囲の生徒達と同じように早く終われと内心で催促する私。
しばらくそのままで待っていると、やっとスピーチを終えた校長がグラスを手に取る。
それに合わせて、配りに来たメイド達が手にした盆の上からグラスを受け取っていく生徒達。
私も近くに来たメイドから受け取ったが、中に注がれていたのは白ワインだった。
人間がいるのだから平行進化が起きていて当然かもしれないが、この世界の生態系や植生は地球とほとんど同じなのだ。
葡萄の木も存在しており、地球と同じようにワインの原料として栽培され利用されている。
かといって日本とは違い飲酒可能年齢などは特に定められていないので、私達でも普通に飲むことが出来た。
というよりも、パーティーが重要である貴族が酒が苦手では話にならないため、むしろ今くらいの年代から飲ませておいて少しでも慣れさせておこうということなのだろう。
元日本人としてはまだ十代前半から半ばの子供に酒を飲ませるのはどうかと思わなくもないが、地球でも十四歳から飲酒が可能な地域はあるし、これも文化の違いなのだから仕方がない。
ものにはよるが酒も決して安くはないため、この中にはまだ飲んだことの無い生徒も多いはずだ。
私は日本人だった頃も前世もウォッカをストレートで飲むのが好きだったのだが、この世界のウォッカは実家でも買えるような安物だと濾過が中途半端で味が悪いため、転生してからはまだ一度も酒を口にしていなかった。
最初からウォッカが好きだった訳でもないのだが、仕事上の付き合いで酒を飲む際に妙なカクテルを出して私を酔わせて有利な契約を結ぼうとする輩がそれなりにいたため、度が強い酒に慣れるためにプライベートできつめのウォッカをストレートで飲んでみたところ癖になってしまったのだ。
以来、付き合いの場でもウォッカを飲むようになるとその手の企みをする輩はいなくなっていった。
安酒の品質が悪いのは別にウォッカに限らず、ワインでもブランデーでも何でもそうだ。
なので転生してから口にするのは初めてであり、私の体感でおよそ十数年ぶりに飲むことになる酒がかなり楽しみだったりする。
そしてグラスを手にした校長の腕が掲げられ、パーティーの始まりが宣言された。
礼法には酔いで自分を失わないようにせよとはあるが、量を飲むなという教えは無い。
きちんと自分を保てるのであれば、いくら飲んでも構わないのだ。
実際に武勇自慢の貴族であれば一人で厨房に空き瓶の山を作ることも儘あるし、前世の私も酒豪として名を馳せていた。
宴の余興として、豪勇で名高かった熊のような体躯の貴族に飲み比べを挑まれたことがあったのを思い出す。
私は掲げた手を降ろしきらずにグラスに口をつけ、そのまま一気に飲み干した。
瓶を見てみなければ銘柄までは分からないが、王立であるこの学園の主催のパーティーで饗される酒ともなれば、間違いなく最高級のものだ。
その味わいは伊達ではなく、口の中に広がった葡萄の香りがとても芳醇で美味しかった。
まるで葡萄ジュースにも紛うほどに甘味が強く飲みやすいデザートワインは、まだ十代半ばである生徒達にはぴったりだろう。
「もう一杯お願い出来るかしら」
私は近くを歩いていたメイドに声を掛け、空のグラスを預けると新しいグラスを受け取る。
会場を見回してみると、同じように早くも二杯目を受け取って飲んでいる生徒達の姿が多く見られた。
今まで飲んだことがない生徒が多かっただろうし、経験のある生徒も安酒との味の違いに驚きつつも夢中になっているのだろう。
酒に対する苦手意識を作らせないという意味で、学園側は甘く飲みやすいこのワインを出したのだと思われた。
一体、この中の何人が飲み過ぎで酔い潰れるだろうか。
酔いで自分を失う生徒が出ることは、恐らく学園側も想定しているはずだ。
まだ未熟であると見做されている今ならば、そうした失態をしても許される。
失敗をしつつ、自分に合った酒の量を確かめていけばいいのだ。
「そこの君、僕にももう一杯頼む」
傍らでは、ユーフェルも二杯目を手にしている。
さすがに積極的にこの場に割り込むほどの勇気は無いのだろう、彼は適当に周囲の生徒達と会話を交わしながらこちらをちらちらと窺っていた。
眺めていないで助けてくれと思わなくもないが、王族と辺境伯を相手に下手なことをしてしまうとどうなるか分からない。
彼がいつものテンションでこちらに話しかけてこないのも無理はないだろうし、責めることは出来なかった。
ヨーロッパではワインは水感覚で飲まれていたりもしたが、こちらでの白ワインは扱いがそれに近い。
風味を楽しんでじっくりと飲むのは赤ワインであり、白ワインはドリンク感覚で飲むのが普通だ。
というよりも、こちらの世界の白ワインは基本的に全てデザートワインなのだ。
理由について書かれた書物を読んだことが無いので、何故かは私には分からないが。
周囲を見ると新入生だけでなく上級生達も目を輝かせて盛んに飲んでおり、新たなグラスを運んでくるメイド達はとても忙しそうだった。
私は手にしたグラスを傾げて空にすると、また新しいグラスを受け取る。
すると、横合いから空いている左腕をくいくいと引っ張られる。
一体誰かは言うまでもない、ファルトルウだ。
彼はワイングラスを片手に、私の方を上目遣いで見上げていた。
中、下級貴族の生まれであるほとんどの生徒とは違い、辺境伯家に生まれ育った彼は酒も飲み慣れているのだろう。
もっと小さな子供のようだと錯覚さえ覚える容姿や仕草とは裏腹に、次々と飲み干しもう七、八杯は胃に収めているがその顔色にはほんのりと朱が差している程度だ。
「如何なさいましたか、ヴェルトリージュ様」
私より遥かに格上の貴族であるし、そもそもこうしたパーティーは社交の場なのだから黙殺してしまう訳にはいかない。
傍らの無口で無表情な少年に話し掛ける。
「……ルウ」
しかし彼は私の言葉には直接答えず、ぽつりとそう一言だけ口にする。
今宵は舞踏会ではないためオーケストラの演奏はあれ以降特には無く、会場に響いているのは膨大な数の人間が会話を交わす音だけである。
そう大きくない少年の呟きは、しかしそれらに掻き消されることなく私の耳へと届いた。
かといって、聞き取れることと理解出来ることはまた全く別の問題だ。
「……ええと、申し訳ありません、ヴェルトリージュ様。もう少し」
「……ルウ」
尋ね返そうとした私だが、彼は私の腕にぎゅっと抱きつくような形になると言葉を遮って再びそう呟いた。
これはつまり、私にそう呼べということだろうか。
「そうお呼びすればよろしいのですか?」
念のためにそう確かめてみると、彼は無言のままこくりと頷く。
相変わらずこの子の思考回路はよく分からないが、呼べと言われたからには仕方がない。
別に親しければ愛称で呼ぶことは何も問題が無いのでそれ自体は構わないのだが、とはいえ内心が全く読めず真意が分からないので弱小貴族の身としてはなかなか怖いものがある。
貴族の世界はただ華やかなだけではなく、当然ながらそこにはしがらみや闇もある。
何も考えずに他人と親しくなってしまうと、知らぬ間に悪事の片棒を担がされ気付いた時には逃げられなくなっていたり、最悪の場合には相手に無実の罪を被せられて領地を奪われることさえもあり得るのが貴族社会というものだ。
いささか極端な話ではあるが、反乱を企んでいるという証拠をでっち上げた上でいきなり相手を斬り殺せば、その用意した証拠に矛盾が無いと認められれば相手の領地がそのまま自分のものとして褒美に受け取れたりもする。
そんな目に遭うのを避けるために貴族達は皆本心を建前で覆い隠し、また他の貴族との関係にも細心の注意を払う訳だ。
これが例えば嫡子ではない令嬢ならば気楽に他の貴族との関係を楽しむことも許されるし、中には毎日のように誰かしらと浮名を流す奔放な女性もいたりするものだが、生憎と前世でも現世でも私は嫡子である。
領地と家に対する責任がある以上、身の処し方には努々気をつけていなければならない。
この子とは今日知り合ったばかりであるし爵位の差が大きいのでとりあえず距離を取ってしばらく様子を窺いたいところなのだが、何しろ相手は上位貴族の息子である、なかなか逆らい辛い。
ここが異世界ではなく日本で組織が王国ではなく企業だったならば、きっとパワハラとして扱われることだろう。
強い力を持った上級貴族に睨まれては、しがない下級貴族の身では何かと支障が出かねない。
そのため、高位の貴族の機嫌を取りつつも安易に近付き過ぎないよう程よい距離感を保つという難しい舵取りが求められることになる。
地球でも異世界でも、およそ下っ端の悲哀は変わらないのだ。
「ルウ様」
とりあえず、言われた通り愛称を呼ぶ。
学園の同級生ともなれば、別に愛称で呼び合うこと自体は不自然でも何でもないので別に構わないのだが、あまり振り回される形になるのはよくない。
幸いにも、多少何か問題が起きてしまっても学生扱いである今ならば余程の大事でない限りはまだ子供だからということで咎められずに済むだろう。
学生でいられるうちにこの子の人間性を見極めておかなければまずいかもしれない。
そんな彼は、私の問い掛けに無言でこくりと頷いた。
身体つきが小柄なせいか、そういった仕草がとても可愛らしかったりする。
もしかすると呼び捨てにしろとでも言われるかとも思っていたので、外に出さないようにしつつとりあえず心中で安堵の息を吐く。
さすがに、いくら本人に言われたとしても辺境伯の嫡子を呼び捨てにするような勇気は無い。
彼は手にしていたグラスの中のワインを一気に飲み干すと、一度私の腕から離れて歩いているメイドから新たなグラスを受け取る。
そして、再びこちらに戻ってきてまた私の腕を掴む。
頬はわずかに紅潮しているが、歩調は全く乱れていない。
育ちのためかもう飲み慣れているようであるし、この分ならば別に心配はしなくても大丈夫だろう。
今しがた少年が左腕から手を離して服の裾をつまみ直してくれたおかげで、比較的自由に身体を動かせるようになる。
私は、とりあえず空腹を満たすために卓上に並べられた料理に手を付けることにした。
軽く辺りを見回し、グラスを乗せた盆を持っていないメイドを見つけ呼び止める。
「ねえ、料理をお願い」
「承知致しました。何か苦手なものはおありですか?」
「いいえ、大丈夫よ」
そう会話を交わすと、運んでいた小さ目の皿を卓上に一度置くメイド。
実に様々な料理が所狭しと並べられているが、この中であれば特に苦手なものは無い。
私の答えを聞いた彼女はそのうちの一枚を手にすると、大皿の上に並べられた料理を少しずつ順々に取っていく。
パーティーの参加者はあくまでも主催者側にもてなされる立場であるので、失礼に当たるため自分で料理を取ってはならないのだ。
何か口にしようと思えば、貴族達の邪魔にならないよう気をつけつつ会場を歩き回っている主催者側のメイド達に声を掛けて小皿に取ってもらわなければならない。
食べ放題であり好きな料理を好きなだけ食べられるところなどは一見地球のバイキングのようだが、その実はとても貴族らしいシステムなのだ。
「お待たせ致しました」
「ありがとう」
取り終えた皿を受け取ると、メイドに礼を言う私。
彼女はこちらにフォークを手渡すと、丁寧に頭を下げて人混みへと消えていく。
他の場所でも同じように給仕に務めるのだろう。
さすがは王立学園というべきか、そのお辞儀の姿勢はとても美しかった。
私は視線を皿に移すとひとまず食べやすいよう取る際にメイドによって一口サイズに切られているステーキにフォークを突き刺し、口に運ぶ。
途端に口の中に広がる肉汁と、肉の風味。
素材の良さはもちろん、料理人の腕もかなりいいのだろう。
西方で肥育された牛の肉を香辛料のみで焼いたものだろうそれは、思わず唸ってしまうほどの味だった。
そこかしこでも、このようなものを初めて食べた新入生達がこぞって目を見開いているのが見える。
そんな姿を見て苦笑いのような表情を浮かべている上級生も、きっと自分達が新入生だった頃には同じように驚いたのだろう。
昼食を取っておらず空腹だったこともあり、私は皿の上の料理を平らげることに専念する。
どれも美味しく、皿はあっという間に空になった。
日々の食事についての説明もあったのだが、朝と昼は個々の生徒の注文に応じて厨房で作られた料理を個室に届けるシステムであり、夕食に関しては学年別に用意された食堂が解放されるらしい。
学年別なのは、恐らくこれだけの人数を毎日一堂に集めるのは手間が掛かりすぎるためだろう。
厨房への注文に関しては、余程マイナーな郷土料理の類でなければ基本的に何でも大丈夫なのだそうだ。
つまり、この学園にいる間は生徒達は毎日この高級な料理を口にすることが出来るということである。
こういった部分もまた、地味ではあるが王家の威光を誇示するのに役立っているのだろうな。
そんなこんなで、近くの生徒達と軽く会話を交わしつつ料理を食べたりワインを飲んだりしていると、向かいの円卓から王子がこちらへと歩いてくる。
今宵は立食会であり、席次も全く決まっていないため会場を歩き回ることには特に問題が無い。
事実、この頃になると生徒達も当初の位置から移動して様々な相手と会話を交わしたりしているのだが、昼間もよく分からないやり取りをしていたこの二人が集まるとまた面倒なことになりそうで少しうんざりする。
私も他の生徒達のように移動して人混みの中に逃げてしまえればいいのだが、残念ながらルウにドレスの裾をつままれたままなのでそれも叶わない。
雰囲気を察したのか、周囲の生徒達は少し距離を開けてこちらを注視している。
別に目立つ目立たないはどうでもいいのだが、二人のやり取りに私を巻き込むのは頼むから勘弁してほしいのだけどな。
弱小貴族である私はどちらの気も立てないように対応しなければならないので、無駄に疲れてしまう。
王子は私の近くに来ると、そのまま声を掛けてきた。
「サフィーナ、もう王都には慣れたか?」
「はい。とても壮大で、見ているだけで圧倒されてしまいましたわ」
「それはよかった。ところで、先程街中でならず者に絡まれたと聞いたが、怪我は無いか?」
先ほどのことを尋ねてくる王子。
立派な事件であるし死体を街中に放置しておく訳にもいかないので、帰り際に警備のために学園に駐屯している騎士にあらましを報告しておいたのだが、恐らく彼らから聞いたのだろう。
明日、騎士団の責任者による取り調べが行われることになっている。
こちらに非は全く無いし、当事者である私とセリーヌだけでなくユーフェルの証言もある。
単に事実確認だけをして、それで終わりだろう。
「……それ、ほんと?」
口を開きかけようとしたタイミングで、王子の言葉を聞いたルウが私の右腕にしがみついて尋ねてくる。
「え、ええ、大丈夫でしたけれど……」
ひとまず二人に対してそう返しておく。
どうやら心配してくれているらしいが、実際何事も無かったのだから引きずったりはしていない。
前世では何度も戦場に出ているし、最期には処刑され殺されている。
そんな経験をしているので、今更あれくらいのことでは恐怖など感じなかった。
「サフィーナが無事でよかった」
「そうだな、初めに報告を受けた時には肝が冷えた。……離れろ、ルウ」
「やだ」
王子の言葉を拒否し、なおぎゅっと力を強めてくるルウ。
どうしてこの二人はこうも仲が悪いのだろう。
いや、もしかしたらこれが彼らなりのやり取りなのかもしれないが、それにしてもどちらも有力者である二人が険悪であるように見られるのはあまりいいことではない。
挟まれるような形になっている私も気まずいので、とりあえず場を繕わなければ。
私は近くを歩いていたメイドを呼び止める。
「こちらのお二方にグラスを差し上げて。……殿下、ルウ様、先刻教室でも申しましたが、この国の将来を担うお二方が喧嘩などなさってはなりませんわ。ましては今宵は祝宴。皆様の祝いの場を壊してしまうおつもりですか?」
「すまん」
「……ごめんなさい」
私が語気を強めると、二人は反省の言葉を口にする。
会場にいる生徒達の中で、この二人だけが位がずっと高いのだ。
講師陣まで含めても、上級貴族であるのはせいぜい校長くらいだろう。
つまりは躊躇無く彼らを止められる者はこの場にはおらず、仮に本気で喧嘩でも始めれば祝賀の雰囲気は簡単に崩れ去ってしまう。
二人ともそれを自覚しているのだろう、あっさりと睨み合うのをやめてくれた。
「私こそ、この身には過ぎたることを申してしまい申し訳ありません。せっかくの宴席ですし、共に杯を交わしましょう」
二人ともそれなりに量を飲んでいるにもかかわらず特に酔った様子は無く、どうやら酒には強いらしい。
であるからには、一緒に酒を飲めば少しは打ち解けて仲良くなるだろう。
私もまだまだ飲み足りない気分であるし、この二人には仲良くしておいてもらった方が都合がいい。
そんな思惑を秘めつつ、私はさりげなく二人の仲を縮めさせるためにパーティーが終わるまで共に酒を飲み交わしたのだった。




