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13. 侯爵家の秘密(7)

 とりあえず、クララに現時点で必要なことは命じた。

 これで、私の推論が正しいかどうかは確かめられるだろう。

 けれども、それだけでは意味がない。

 言葉だけで分かり合えるのならばそもそもここまで関係がこじれていないだろうし、嫌でも認めざるを得ないような証拠を用意して双方を納得させなければ、事態の収拾は不可能だと思われるのだ。

 ここが地球であれば簡単に証明出来て決着がつく話でも、残念ながら主に技術水準の問題でこの世界ではそうではない。

 クララの帰りを待ちながら、私はどのようにすべきか、確証が得られた後のことに思いを馳せていた。


「ただいま、お嬢様」

「待っていたわ。首尾はどうだったの?」

「うん。少し驚いたけど、お嬢様の言った通りだったよ。セルージュ家の家令が証言してくれた」


 やはりそうだったか。

 セルージュ家の家令だという人物も、きっと家族間での争いが続いている現状を憂慮しているのだろう。

 事態を収めようとしていることを告げれば、恐らくは協力してくれるはずだけれど、それだけではまだ足りない。


「ありがとう。では、カトリーヌさんのところに行くわよ。馬車の用意をして頂戴」


 考えが正しかったことを確かめられた私は、そのまま馬車の用意を命じた。

 とりあえず、事情を考えれば話をつけるとすれば彼女から先にするべきだろう。


「危険だ、相手はお嬢様に毒を盛った人なんだよ」

「貴方達が護ってくれるのだから、大丈夫よ。それに、だからこそ今のうちに会って話さなければならないの」


 答えを思いつく前までは何を考えているか分からず警戒していたカトリーヌ女史は、それが分かった今では違う意味で何をするか分からない人物であるという印象を抱いている。

 なりふり構わないというか、手段を選ばないというか、私を毒殺しようとするという無謀をしてみせたこととてそうであるし、だからこそ先手を打つべきだろう。

 幸いにも、あの後自分の屋敷に戻っているという彼女は私の安否を知らないだろうし、ましてや私が訪問してくるとは予想もしていないはずだ。

 危険が無いといえば嘘になるが、さっぱり内心が読めなかった昨日までならばともかく、今ならばカトリーヌ女史を説き伏せる自信があった。

 むしろ、難問はどうやってラファエルを説き伏せるかの方だ。









 それから数日。

 この国の都から馬車に乗り、何日か街道を進んで私達はセルージュ侯爵家の領内にあるカトリーヌ女史の館を訪れていた。

 敢えて事前の報せも送らず、半ば押し掛けるような形での訪問なので、いささか城門を護る兵との間で押し問答のようになったけれど、無事に中に入る。

 既に、私達が来たという報告は彼女に届けられているだろう。

 馬車を降りた私は、カルロと共に屋敷の入り口から中に入る。

 クララは部下と共に屋敷の中に潜んでおり、もし何かあった際は助けに入ってくれる手筈になっていた。


「ごきげんよう、サフィーナさん。よもや、またお会い出来るとは思っておりませんでしたわ」

「ふふ、カトリーヌさんにまたお会いしたく、押し掛けてしまいました」


 扉の中に入ると、落ち着いた紅色のドレスを纏った彼女の姿があった。

 改めて向かい合ってみると、やはり美しい人だ。

 年齢はもう四十歳を超えているはずだけれど、それを微塵も感じさせない程に手脚は細く、肌も白く艶やか。

 顔立ちには歳相応に少し皺が見えるものの、しかしそれは決して美しさを損ねさせておらず、むしろ重ねてきた年月を示すような彩りとなって本来の美貌を飾っている。

 雰囲気も非常に落ち着いたものを纏わせており、金色の髪を結い上げた彼女は、身のこなしや表情に気品を満ち溢れさせていた。

 けれども、こうして真っ向から視線を重ねると、最も目を惹かれるのが思わず気圧されそうになる程の強い眼差しだ。

 元々あった知性と意志の強さに、時間を掛けて育っていった底知れぬ憎しみが加わり、彼女の瞳は見る者を圧倒するようなあまりに強い輝きと、闇夜の湖のように深い闇という一見相反した二つのものを宿している。

 とはいえ、ここで目を逸らしては私の負けだ。

 表情にこそ優雅な笑みを浮かべさせつつも、目線では依然として冷たくこちらを射抜いてくるカトリーヌ女史に対して、私は同じように笑みを浮かべてその瞳を見つめ返した。


「歓迎致しますわ。なにぶん急なことですから、これといったおもてなしは出来ませんけれど」

「お構いなく。カトリーヌさんとお話出来ることが、何よりの歓迎ですから」


 こちらに皮肉を投げ掛けると、彼女はこちらを客間へと案内する。

 その背中に続いて、歩いていく私とカルロ。

 少しの間廊下を進むと客間に到着し、その中に通された私はテーブルを囲む椅子の一つに腰を下ろした。

 部屋の内装は、この女性らしくとても落ち着いていて上品なものである。

 室内の片隅にある棚の上に、鈴蘭が活けられた花瓶が置かれているのが目についた。

 とても内装に調和していて綺麗なのだけれど、クララの報告によればあの焼き菓子に入っていた毒は鈴蘭の汁だったと聞く。

 もちろん花に罪は無いのだが、見つめているとそのことを意識して少し妙な気分を抱いてしまうのは仕方のないことだろう。


「紅茶を淹れてくるから、少しお待ちになってね」


 そして、私が席に着くとそう言って部屋を後にするカトリーヌ女史。

 表面上は動揺を見事に隠しているが、けれど私が急に推し掛けてくるということは彼女の想定には入っていなかったはずだ。

 私の思惑も読めていないだろうし、少し間を置くことで動揺を落ち着けたいという意図もあるのだろう。


「……カルロ、出される紅茶には手を付けては駄目よ。恐らく毒が入っているわ」


 彼女の姿が見えなくなると、私はカルロにそう囁く。

 まあ断言出来る訳ではないが、今の彼女ならばそれくらいしてもおかしくない。

 警戒は密にしておくべきだろう。

 少しの間待っていると、この屋敷に仕える侍女と思わしき女性に運ぶのを手伝わせながら、紅茶の入ったカップを載せた皿を両手に持ったカトリーヌ女史が戻ってくる。

 手にしていたそれを、彼女は手ずから私とカルロの前に置いた。

 その後ろに従っていた侍女は、クッキーが載せられた皿をテーブルの上に置くと、もう一つのカップをカトリーヌ女史の前に置いて退出していく。


「どうぞ。急いで用意したものですから味の保証は出来ませんけど……。お食べになって」


 こちらの意図は分からずとも、こうして推し掛けてきた時点で焼き菓子の毒に気付いたこと自体は分かっているだろうに、にもかかわらず悠然とした態度を崩すことなく紅茶とクッキーを勧めてくる彼女。

 もっとも、さすがにここで言われた通りに手を付ける程命知らずではない。

 笑みだけを浮かべてそれに返した私は、早速本題を切り出すことにする。


「私、一つ分かったことがありますの」

「あら、この前の焼き菓子をそんなに美味しく召し上がってもらえたのかしら」


 微笑み掛けた私が話を切り出すと、カトリーヌ女史は紅が差された血を思わせるように真っ赤な唇の端を吊り上げ、即座に皮肉を返してくる。

 その頭の回転の速さに内心で舌を巻きながらも、ここは答えずに話を進めることにした。

 ―――ここからが本番だ。


「ラファエル侯爵は、貴女の実の息子なのでしょう?」

「……っ!」


 これが、私が辿り着いた答えだった。

 そのことを告げると、一瞬だけだが彼女の表情に動揺の色が浮かぶ。

 けれども、次の瞬間には何事もなかったかのように優美な笑みを取り戻しているのはさすがといったところだろうか。


「あら、彼はルイーザさんの子だというのは誰もが知っていることですわよ。私は、あれ程大きな息子を持った覚えはありませんわ」


 ルイーザとは、前セルージュ侯爵の先妻だった女性のことである。

 普段と何も変わらない口調で、そう私の問い掛けを否定するカトリーヌ女史。

 だが、今の私にはその婉曲的な表現をされた一字一句が、慎重に言葉を選んだものであることがはっきりと分かった。

 そこには、確実に彼女の本心が籠められている。

 きっと、私がそれを読み取れるかどうか確かめているのだろう。


「いいえ。ルイーザさんは、恐らく子供を産めない方だった。だから貴女がセルージュ家の跡継ぎを産み、その子はルイーザさんの子供として育てられたのです」


 こう考えれば、全ての違和感をスマートに説明することが出来る。

 言うまでもなく貴族社会においては跡継ぎとなる子供の存在が極めて重要だが、亡きルイーザ女史は子供を産めない身体だった。

 かといって、彼女の実家もまたセルージュ家の家格に釣り合う程の大貴族であり、どちらにもメリットがある政略結婚であるが故にそのことを公にしてルイーザ女史の顔を潰すわけにはいかなかった。

 そこで、前侯爵はセルージュ家と親しい中規模貴族であるミュトラール家の次女であり、ちょうど年頃であったカトリーヌ女史を半ば愛人のような形で密かに迎え入れて跡継ぎを産ませたのだろう。

 当然、ルイーザ女史が子供を産めないことを表沙汰には出来ない以上、彼女の存命中に生まれたラファエルとヨルンは表向きその息子として扱われることになる。

 ラファエルは亡き母のことを慕っていたと聞くし、ルイーザ女史も血の繋がらない子供達のことをとてもよく可愛がったのだろう。

 もちろんそれはいいことなのだけれど、皮肉にもそれが憎しみを生んでしまったのだ。

 表向きルイーザ女史の子供の振りをして育てられると言っても、そのことを知っている人物は二人の女性や前侯爵などかなり限られており、当の本人でさえ知らなかったのだと思われた。

 先妻であった彼女が病死したことによって、それまで日陰の存在であったカトリーヌ女史は後妻の地位を得ることになり、それ以降に生まれた二人の子供は、堂々と彼女の息子として育てることが出来るようになる。

 けれども、いくら正式に侯爵夫人となったとはいえ、先妻であるルイーザ女史の実家の顔に泥を塗らないために、今更実はラファエルとヨルンも彼女の子供でしたなどとは言えるはずもない。

 父が再婚するまでカトリーヌ女史とは顔を合わせたことも無かっただろうし、それまで亡きルイーザ女史から可愛がられていたこともあって、二人は彼女が実の母だと思いながら育ったのだ。

 考えてもみてほしい、長年会うことが出来なかった息子とようやく会うことが出来ることに心を弾ませていただろう彼女は、いざ顔を合わせると実の息子達が他の女性を母だと思い込み、自分のことを継母として扱う状況に直面したのである。

 一体、この時のカトリーヌ女史の気持ちはどのようなものだっただろう。

 他の女性のことを母と慕う実の息子の姿を目にする度に、彼女の中で当初抱いていた息子への愛情が憎しみへと変わっていったことは想像に難くなかった。


「面白い推論ね。では、貴女に焼き菓子を送った理由はどうお考えになるの?」


 私の推論を聞いてなお、表情を崩さない彼女がそう尋ねてくる。

 確かに、それが私が最も理解出来ずに混乱した部分だった。

 どう考えても私を毒殺することによるメリットがカトリーヌ女史にあるとは思えず、一体何が目的なのかが全く分からなかったからである。

 だが、今ならば彼女の考えを理解することが出来た。


「何もかも終わらせたいとお考えだったのでしょう? ご自身もろとも、伯爵のことも、セルージュ家それ自体も」


 他国の正使を毒殺しようとしたとなれば、成功しようとも途中で発覚して失敗しようとも彼女は逮捕されて処断されるだろう。

 だが、そうなれば当主として一族を統制する立場にあるラファエルもただでは済まない。

 一族内で権力争いをしているだけならば、それはあくまでもその家の問題でしかないのだから構わないが、他国の正使を巻き込んだとなれば国家の一大事だ。

 事態が表沙汰になれば、それは政敵にとっては彼への格好の攻撃材料となる。

 ただでさえ多くの貴族を敵に回しているラファエルは集中攻撃を受けるだろうし、そうなれば国王であるエルリックも彼を宰相位から更迭せざるを得ない。

 もちろんそれだけに留まらず、領地の削減やラファエルの引退程度の処分は免れないはずであるし、彼とセルージュ家はかなりのダメージを受けることになる。

 それを狙っての行動だったのだろう。

 カトリーヌ女史にとってメリットが無いと思ったことは正しかったのだ。

 彼女は、自分が破滅することを分かった上で、ラファエルとセルージュ家も巻き添えで破滅に追い込むつもりだったのだから。


「少し聡いだけの子供だと思っていたけれど……。ええ、その通りよ。全部貴女の言った通り。まさか、ここまで辿り着くとは思っていなかったわ。でもね」


 遂にそのことを認めた彼女は、けれども言葉を続ける。

 それと同時に、自らの前に置かれたカップをそっと持ち上げた。


「貴女は自分達の分の紅茶の中に毒が入っていると思っていたようだけど、器が三つあるうちの二つだけだとどうして思ったのかしら」


 そう言って、これまでとは違いどこか毒気が抜けた穏やかな微笑みをこちらに向け、カップを唇に近付けていく彼女。

 ―――まさか。


「クララ!」


 テーブルを挟んだここからでは飛び掛っても間に合わない。

 カトリーヌ女史が毒入りの紅茶で自殺しようとしていることを理解した私は、咄嗟に叫ぶ。

 何かあった際には助けに入る手筈になっているので、どこかから見ているはずだ。

 彼ならば止められるかもしれない。


「……きゃっ!」


 すると、部屋の暖炉の方向から高速で飛んできた何かが、カップを直撃する。

 よく見れば、それは以前クララにプレゼントした小型の暗器の矢だった。

 カップの底の、最も厚くなっている部分へと斜めに直撃したそれは、陶器を破壊して破片を発生させることのないままにカップを弾き飛ばす。

 どうやら、私の声に応えて彼がやってくれたらしい。

 手にしていたものが急に手を離れていったことに、小さく驚きの声を上げる彼女。

 暖炉の中から、先程クッキーが載せられた皿を運んできた侍女が纏っていたのと同じ、この屋敷の侍女服を纏ったクララが姿を現した。

 この屋敷に侵入するに当たって、侍女に紛れていたのだろう。

 ……こんな時に言うのもなんだが、それは元々少女のように美しい顔立ちをした彼女にとてもよく似合っている。


「助かったわ、クララ。その格好、とてもよく似合っているわよ」

「ああもう、言わないでくれ!」


 任務のために仕方なかったとはいえ、さぞ気が進まなかったのだろう。

 私がクララを労うついでにその服装を褒めると、彼は嫌そうな顔をして頭を抱えてしまう。


「さて、カトリーヌさん。まだ私の話は終わっておりませんわ」

「罪人として私を処刑させようというの? 確かに裁く権利は貴女にあるけれど、潔くここで果てることさえ許してくれないのね」

「いいえ。そのつもりなら、こうして押し掛けたりなど致しませんもの」


 彼女を捕らえるつもりならば、わざわざ危険を冒して押し掛けてきたりなどはしないし、あの焼き菓子の存在をエルリックに伝えれば即座に兵が送り込まれただろう。

 最初にそうせずに様子を窺うことにしたのは相手の目的が分からずに警戒していた部分もあったけれど、事情が分かった今となってはカトリーヌ女史を逮捕させる気など無かった。

 むしろ、当初の目的通り、ラファエルと彼女を和解させるつもりだった。

 私が毒殺されそうになった件はともかくとしても、二人が憎しみ合うことになってしまった件に関しては、加害者や悪者など存在しない。

 ラファエルも、カトリーヌ女史も、どちらも環境とすれ違いによって互いを憎まなければならなくなった被害者だろう。

 ならば、分かり合ってもらうことも不可能ではないはずだ。

 現に、それまで兄と同じように険悪な仲だったヨルンがある時期から急に関係改善して親しくなったというのも、彼がカトリーヌ女史が自分の実母であることを知ったからだろうし。


「侯爵が貴女が本当の母であることを知れば、そのようなことをする必要はありませんでしょう?」

「ありがとう、可憐な英雄さん。でも、無駄よ。あの男にはもう届かないわ」


 穏やかな微笑みを浮かべていた彼女は、けれどもラファエルのことを口にすると途端に表情に憎悪の色を甦らせる。

 どうやら、ただ血が繋がっていることを知らずにすれ違っているだけではなく、他にも何か致命的に息子を憎むような出来事があったらしい。

 確かに、そのことだけは未だ少し不思議に思っていたのだ。

 ヨルンと和解したのは、彼がカトリーヌ女史こそ自分の実母であると知ったからである。

 ならば、何故ラファエルの方は未だ憎しみ合っているのだろうか、と。


「一体、何があったというのですか?」

「お嬢様、カトリーヌ様。僭越ですが、それについて少しよろしいでしょうか」


 私が何があったのかを彼女に尋ねると、クララが横合いから発言の許可を求めてくる。


「構わないけれど、どうしたの?」

「事情を知る方をお連れしています。マテウスさん」


 拒む理由も無いので許可をすると、彼が部屋の外へと向けて誰かの名前を呼ぶ。

 すると、外から開かれた扉の向こうから、一人の男性が姿を現した。

 その顔には深い皺がいくつも刻まれており、歳の程は六十か七十か、それくらいにはなっているだろう老人である。

 けれども、彼の背筋はぴんと伸びていて、姿からは年齢以上の若々しさが感じられた。


「オーロヴィア様。よくぞ奥方様をお助けくださいました。心より感謝申し上げます」


 マテウスと呼ばれた彼は、礼法に適った美しい歩調で入室すると、そう言って私へと礼をする。

 どうやら、この人物はセルージュ家に仕えている使用人であるらしい。


「奥方様。私めの不徳のためにこのような……。本当に申し訳ございません」


 続いて彼は、悲しそうな表情を浮かべてカトリーヌ女史の方を見つめると、謝罪の言葉を口にしてやはり礼をした。

 ラファエル本人ですら知らない真相を知っているということは、恐らくかなり長くセルージュ家に仕えてきた、かなり格の高い使用人なのだろう。

 家令か執事か、それくらいの高位にあったのは間違いないはずだ。

 真実を知っている者として、現状を見ているのが辛く歯痒いのだろう。

 忠誠心が厚い人物であることが見て取れた。


「いいのよ、マテウス。貴方は十分によくやってくれたわ」


 それに対して、カトリーヌ女史は疲れたような、諦めたような表情を浮かべさせる。

 憎むことにさえ、もう疲れてしまっているのだろうか。


「この方はマテウスさん。数年前まで、セルージュ家の家令をされていた方です」


 クララが、マテウスのことを紹介する。

 やはり、セルージュ家に家令として仕えていた人物らしい。

 過去形であるのは、老齢のために引退しているからだろう。


「それで、どういうことなのかしら。事態がここまで深刻化する前に、侯爵に説明くらいなさったのでしょう?」

「はい。ですが、仕方のないこととはいえ、若様は激怒なされ……」

「あの男は、それを聞いてマテウスを斬ろうとしたのよ」


 彼の言葉を途中で引き継いだカトリーヌ女史が、憎しみの籠った声で言葉を続ける。

 ……なるほど。

 それは確かに、彼女が絶望してもおかしくはないだろう。

 とはいえ、ラファエルの心情も理解出来る。

 その頃には既に両者の間に不和がかなり生まれていたのだろうし、そんな状態でいきなりそれまで母だと思っていた女性が実はそうではない、仲の悪い義母が実の母であると言われて、果たしてそれを信じられるだろうか?

 俄かには信じられずとも不思議ではないし、不和を収めるための方便だと感じて怒るのも自然な心情だろう。

 どちらも悪くはない。

 けれども、並大抵の手段では埋められないくらいに両者の間には既に溝が出来てしまっているのだ。


「お願いでございます。この老骨には、どうすればよいか分かりませぬ。どうか、奥方様と若様をお救いくださいませ」


 マテウスが、再びこちらに深々と頭を下げる。

 彼の声には切実な色が強く混じっており、セルージュ家の未来を憂慮していることが伝わってきた。


「任せなさい。そのために私はここに来たのだから」


 もちろん、その願いを拒絶する理由などありはしない。

 しかしながら、ただ話しただけでは納得させられないし、元々のことがことであるだけに証拠を揃えることも難しいとなれば、余程の発想の転換が必要である。

 また、クララ達に隠蔽工作はさせているとはいえ、現状で私がカトリーヌ女史と接触していることがエルリックやラファエルに知られることは少しばかりまずいので、それまでにどうにかしなければならないという時間制限もあった。

 そうしたことを考えればかなりの難題であるけれど、きっと解決策を導き出してみせようと決意する。


「カトリーヌさん、私も協力しますから、貴女が母なのだと知っていただきましょう?」


 彼女の方に視線を移すと、私はそう提案する。

 不幸な巡り合わせのまま、このまま互いが互いを憎しみ合ったままであるなど、あまりに悲し過ぎるではないか。


「……そうね、本当にありがとう、サフィーナさん。あのようなものを贈って、ごめんなさいね」


 それに対して、カトリーヌ女史は頷くとこちらに頭を下げる。

 そして、頭を上げた彼女と正面から見つめ合う。

 今まで抱いていた諦念や憎しみを捨てて、穏やかな色を宿らせた今の彼女の顔立ちは、元から美しかったけれど今までで最も綺麗だと感じた。


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