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ex.10 或る特別な彼の一日

 お嬢様が部屋を後にされ、目の前で扉が閉じた音が響く。

 室内に一人になった僕は、自分の使っている寝台のある部屋へと向かうと、剣の鞘を腰に佩く。

 本来であればこの後に革鎧を纏ってからお嬢様の後ろに控えることになるが、しかし今日は剣技大会の準備を優先するように命じられたため、一人で部屋に残っていた。

 お嬢様の傍らこそが侍従である僕の居場所であるし、そこが館であろうとも異国であろうとも戦場であろうとも、お嬢様さえおられれば僕にとってはいつもと同じ日常である。

 しかしながら、侍従としての独り立ちを認められて以来、一日たりとも欠かさずに控えてきたお嬢様のお傍から離れるのはこれが初めてであり、謂わば今日は初めての非日常だった。


 これから行う鍛錬のため、鞘から剣を引き抜いて状態を確かめる。

 以前お嬢様からいただいた剣ではなく、飾り気の無いどこにでもあるような剣だ。

 この剣は、僕がお嬢様の侍従となることが決まった際に与えられたものである。

 無論のこと、その頃の僕にはこれを存分に振るうどころか持ち上げることさえも困難であったし、当時鍛錬に使っていたのはもっと軽く短い剣であったが、だからこそこの剣を使うことが許された時の喜びはとても大きかった。

 お嬢様は高級な剣を用意したいと仰られ、実際に新たな剣を授けてくださったが、僕が侍従である証であり実際に振るうことによりお嬢様をお護りしてきたこの剣と、お嬢様より手ずから賜った剣はどちらも僕にとってはどんな高価な剣よりも尊いものである。

 今では練習用として使うことの方が主であり、実戦で振るうことは稀にしかなくなったこの剣だが、しかし宝物といってもよいこれを手放したりすることは決してないだろう。

 もちろん国中に名が轟く名鍛冶師によって打たれた剣に比べれば切れ味や耐久力などは落ちるし、そのためにいつか折れることが前提になっているものであるが、しかし剣とは適切な角度と力加減で正しい振るい方をしていればあまり痛まないものだ。

 そのような配慮をしている余裕が持てないような相手と向かい合ったりすれば話は別だが、そうでなければこの剣を折ったりすることなく最後まで使い続ける自信はある。

 叶うならば、最後までかけがえのないこの剣を使い続けていたかった。


 剣には傷も刃毀れも一切無いことを確認した僕は、それを鞘に戻すと部屋を後にして王宮の外へと向かう。

 ここを訪れたのは二度目であるが、こうして一人で廊下を歩くのはこれが初めてである。

 そのことにかなり強い違和感と、お嬢様の傍にいられないという寂しさを感じつつも、僕は庭へと到着した。

 お嬢様がとても美しいと絶賛されておられた庭園は僕から見てもまるで幻想の中の光景であるようだったが、その片隅の人がいない場所で立ち止まると、上半身に纏っていた服を脱いで畳む。

 服を着たままだと汗で服が濡れてしまうため、鍛錬の際には上を脱ぐのがいつからか習慣になっていた。

 そして剣を引き抜くと右手で握り、持ち上げて振り下ろす。

 まるで身体の一部であるかのように馴染んだ握り心地。

 言うまでもなく、幼い頃の鍛錬とは違い筋力を鍛えることが目的ではないので、ただ漠然と素振りをするのではなく、仮想敵を想定してそれと戦っている状況を想像しながら剣を振るっていく。

 敵として想定するのは、第三騎士団の団長を務めているクラスティリオン様である。

 王立学園の寮にいた頃、僕がご友人であるモンテルラン様の護衛を命じられていた僅かな時間に襲撃を受けたお嬢様を救出していただいたという感謝してもしきれない程の恩があるあの方とは一度剣を交えたが、間違いなくこれまで戦った相手の中で最強の存在だった。

 侍従という重要な役割を与えられ、お嬢様の身の安全の責任を担っている以上、どのような不測の事態に陥ったとしても対処出来なければならない。

 なので、たとえお嬢様を護りながら百人を敵に回したとしても全員を斬り伏せられるようにとひたすら鍛錬に励んできたが、お嬢様の侍従としてどんな相手にでも勝てる自信があった僕にとって、一対一で正対したとしてたとえ相打ち覚悟でも倒せるか分からないと思わされたのは、これまでに陛下とクラスティリオン様の二人だけだ。

 陛下の場合は剣を振るわれている姿を目にしただけであるが、クラスティリオン様とは実際に剣を交えており、それなりの時間打ち合ったが結局決着がつくことはなかった。

 そんな最も強かった敵を想定して一人剣を振るう僕は、自分の想像の中の相手であるにもかかわらずなかなか勝機が見えない動きの中で、剣を右手のみで握る。

 普段お嬢様の後ろに従っている時に戦うことになった際であれば自分の足で動きながら戦うことになるが、戦場においては騎馬隊を自ら指揮されているお嬢様の隣を駆ける以上、左手で手綱を握りながら右手で剣を振るう必要があるためだ。

 練習されている姿を一度も目にしたことがないのでいつの間にあれ程の乗馬技術を身につけられたのかは分からないが、手綱も鞍も何も用いず、しかも横乗りの状態で落馬されることなく戦場を駆け抜けてみせるお嬢様は、旦那様が仰られていた通り精霊に愛されていると表現しても全く過言ではなかった。

 当然僕にはお嬢様のような並外れた乗馬技術は無いので、片手のみを用いて普段とはまた違う剣の振るい方をすることになる。

 そして、優勝者は騎士もしくは王軍の将軍という騎乗した状態で戦闘を行う地位に取り立てられるため、剣技大会では平民部門においても馬に乗って戦うことになるのだ。

 徒歩の状態を前提とした僕本来のものとは違う戦い方の想定のための仮想敵として、クラスティリオン様はまさに最適だった。


「君も訓練をしていたのか。相手はもしや私かな」


 しばらくの間集中して剣を振り続けた後、一度戦いを終えて息を吐くと、ふと横合いから声を掛けられる。

 声のした方向へと視線を向けると、そこには一人の男性が立っていた。

 今の彼は全身鎧を纏っておらず、代わりに軍服らしき比較的薄手の衣服を纏っているが、眩く輝く銀色の髪を腰まで伸ばした彼の姿を見間違える者はまずいないだろう。

 そこに立っていたのは、クラスティリオン様だった。

 当然と言うべきか、この方程の技量の持ち主であれば、僕が誰との戦いを想定して剣を振るっているかがお分かりになられるらしい。


「はい。騎士団長様はこれまでの戦いの中で最も強かったお方ですから」


 その場で膝を突いた僕は、そう言葉を返す。

 面識こそあったものの実際に会話をするのはこれが初めてだったが、この方程強い相手と剣を交えたことは他に無かった。

 もしまたお嬢様と敵対されることになれば当然戦うが、気持ちの上ではともかく、もう一度戦ったとしてもやはり相討ち覚悟でなければ倒せないだろう。


「君が強いことは所作を見ただけで分かったが、まさかあれ程とは私も驚かされた。君ならば優勝は容易いだろう」

「騎士団長様こそ、優勝なさることはまず間違いないかと」

「無論、ベルフェリートと第三騎士団の名に懸けて、出場するからには優勝するつもりだ。……君が構わなければ立ち合いたいのだが、どうだろうか。お互い、これ程の相手はいないだろう」

「もちろんです。よろしくお願い致します」


 クラスティリオン様から立ち合いを求められる。

 無論、調整とは言っても一人で剣を振るうのと実際に誰かと向かい合うのとではやはり効果が全く違ってくるものだ。

 ましてやこの方は恐ろしい技量の持ち主であるし、僕にとっても本番に備える上で最高の相手だった。

 拒絶する理由は無いので、僕はそう返事をする。


「鞘を使用致しませんか? 騎士団長様を相手に余裕を持って戦う自信はありません」

「そうだな。そうしようか」


 ここが戦場ではなく、クラスティリオン様と僕が敵同士でも無い以上、立会いと言ってもあくまで模擬戦の範疇であり、もちろん相手に怪我をさせる訳にはいかない。

 なので仮に真剣を使ったとしても相手の肌に触れる直前で寸止めをしなければならないのだが、如何せんそれをするにはこちらにある程度の余裕が必要である。

 しかしこの方はあまりに強過ぎるので、打ち合うことで精一杯になり仮に隙を作ることが出来たとしても刃先が肌に当たる直前で寸止めするような余裕などとても持てないだろうことは容易に想像出来る。

 なので、真剣ではなく勢いそのままに当ててしまっても問題ないものを代わりに用いる必要があった。

 彼が頷かれたことを確認すると、僕は手にしていた剣を置き、鞘を右手に握って立ち上がる。

 同じように鞘を片手で手にしたクラスティリオン様と向かい合うと、途端にかなり強い圧力が全身を襲った。

 当然、真剣を持って敵同士として戦ったあの時と比べればずっと軽いとはいえ、持っているものが剣ですらないにもかかわらずこれ程強い圧力を放ってくることには思わず驚愕してしまう。


「では参ります、騎士団長様!」

「ああ、手加減などせずに来るがいい。全力で剣を振るうことが出来る相手は、今や君くらいになってしまった」


 剣を振るう理由は違えども、同じ剣士として、強い相手と戦うことが出来る喜びはよく理解出来る。

 クラスティリオン様程の剣士にその強い相手として認められていることに喜びを感じつつ、全身に力を籠めた。

 剣圧というか、剣を振るう力の強さであれば彼よりも陛下の方が恐らくずっと強いだろうし、剣速であれば僕の方が速いだろう。

 しかしながら、この方をベルフェリート王国最高の剣士と言わしめている理由は、その並外れた剣技故のことである。

 剣圧や剣速の差を補って余りある程に剣の動かし方が上手く、例えば僕がずっと速く剣を振るったとしても、最短の動きで剣を動かすことで彼我の差を容易に補ってみせるのだ。

 もちろん卓越した技術が活かされるのは防御においてのみではなく、攻撃においても巧みに隙を作り出し、そこを突いてくる。

 その戦い方は実際に打ち合った際に嫌という程に味わったが、もしも彼我の剣速の速さが互角だったとしたら、僕は今頃ここにはいなかっただろう。

 だからといって敗北する気など全く無かったし、どうしても必要になれば相討ちになってでも倒してみせるという覚悟は決めていたが。

 あの時のものと同じ圧力を浴びたことによって当時のことを思い出し、そのようなことを思い浮かべる僕。

 だが、すぐに雑念を消し、剣の代わりに握った鞘とクラスティリオン様の姿とに意識を集中させる。

 束の間、或いは長時間だろうか。

 時間感覚さえ忘れてしまうような静かな立ち合い。

 それは不意に崩れ、僕達は同時に前方へと踏み出すと、右腕を振るったのだった。

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