2. 馬車の中で
翌朝、王宮らしく上質なベッドの上で目を醒ました私は、寝間着から着替えると廊下を歩いていた侍女を呼び止め、朝食を注文する。
しばらくして彼女の手によって厨房から料理が届けられると、カルロと共に食していく。
メニューは朝食であるということもあって軽めであり、途中を切ったパンの中にベルフェリート王国でも広く流通しているものの元々はこの国の特産であるトマトなどの具材を入れた、サンドイッチのようなものであった。
この国ではアマランサスが広く食されているものの、周辺諸国を見渡せばこの穀物を主食としている国は他にはほとんど存在しない。
故に、今の私のように他国からフェーレンダールを訪れた貴族達へは食べ慣れたパンが供されることがほとんどであり、然程多くは無いがこの国においても流通している小麦のうちの大半は、そうした用途のために王宮で消費されているようだった。
サンドイッチを手に取って口にすると、うっすらと焼かれたパンの香ばしい風味と具材であるトマトやレタスの甘み、そしてそれらと絶妙に絡み合うソースの味が広がっていく。
極めてシンプルな料理ではあるが、それでも王宮に招かれるような一流の腕前を持った料理人の手に掛かれば絶品と表現してよい味のものとなる。
「カルロ、剣技大会の件なのだけれど、今日から一時的に私の護衛の任を解くわ。あまり時間は無いけれど、そちらの準備に集中しなさい」
それを飲み込んだ私は、比較的小ぶりな円卓を挟んだ向かいで同じように舌鼓を打っているカルロに話し掛ける。
この国を訪れたタイミングが良かったのか悪かったのか、剣技大会の開幕日はもう四日後にまで迫っているらしい。
ということは逆に言えば今日を含めても三日しか準備のための時間が無いということであり、そちらに集中してもらう必要があった。
「ですが、もしもお嬢様に何かあったら……」
私の言葉を聞いて、心配げな表情を浮かべるカルロ。
確かにこの子には何度も助けられているし、今までずっと私の傍にいてくれてきた。
学園にいた頃も戦場の只中でも常に私の後ろにはカルロの姿があったし、元より侍従とはそういった存在であるとはいえ、短期間であっても彼と離れることになるのはこれが初めてである。
「大丈夫よ。確かに貴方の護衛程頼もしいものは他に無いけれど、その分こちらも気をつけるもの。私のことは気にせず、万全の準備を整えなさい」
たった一人で数十人を同時に相手取って勝つことが出来る程の強さを持つ彼がいるのといないのとでは安心感に大きな違いがあるのは事実だが、それでも第三騎士団の騎士に護衛を任せることも出来るし、遠巻きにクララの配下の者達もあちこちに潜んでいるはずだ。
さすがにカルロ程ではないだろうが第三騎士団の騎士といえば精鋭揃いで高名であるし、その精強さは実際に戦場で向かい合った私はよく知っている。
正使であるからにはフェーレンダール側も警備の体制は整えているだろうし、心配してくれるのはとても嬉しいが、こちらのことは気にせずに準備に集中してもらいたかった。
「……畏まりました」
不安げな表情が整った顔立ちから消えることはなかったが、それでも頷きを返した彼。
昨日部屋に戻った後、剣技大会に出場することとなった旨を伝えた時はかなり驚いていたが、とはいえ出場するからには万全の態勢で戦えるように手配しておきたかった。
その後、朝食を取り終えた私はカルロを部屋に残し、騎士団長に話して何人かの騎士を護衛としてつけてもらう(騎士団長自身が護衛として同行すると申し出てくれたが、彼も剣技大会に出場する以上そちらの調整に専念してもらいたかったので断った)と、そのまま王宮の庭へと出る。
王宮を訪れた者全てを荘厳に出迎える巨大な庭園。
生け垣が入り組んでいることもあり、横断するだけでも数十分を要するだろう程に広大なそこの片隅、ベゴニアが植えられた花壇の辺りへと向かう私。
こちらの視線の先には、紅や桃色などの色とりどりの花が咲いている花壇を背にするように立つ黒に近い緑髪の男、ラファエルの姿があった。
「お待たせ致しました、セルージュさん」
誰が待っているのかは特に聞いていなかったのだが、まさかまた宰相である彼自身が来るとはと少し驚きつつも、私は彼に声を掛ける。
それで気付いたようで、どこかを眺めていた彼の顔がこちらを向いた。
「漸く来られましたか。随分と待たされましたが」
「あら、まだ約した時刻よりずっと前ですが……。そうまで心待ちにしていただけていたとは、とても光栄ですわ」
実際、待ち合わせとして聞いていた時刻よりまだ二十分くらいは早いのである。
特にせねばならないことも無かったし、部屋にいてカルロの邪魔をしてはいけないと思い早めに出てきたのだが、まさか私より先に来ているとは思わなかった。
何故かは分からないがいつぞやの手紙の内容と同じようにこちらに攻撃的な言葉を投げ掛けてくる彼に対して、私は微笑みを浮かべさせると皮肉げな台詞で返す。
「……そのようなことがあるはずがないでしょう。まったく、市街の案内など宰相の仕事ではないでしょうに」
私の言葉に対して、表情を少し歪めて呟くラファエル。
剣技大会の平民部門には特に参加資格などは無いので、開催期間中には出世を夢見る者や腕に自信のある者が開催地に押し寄せることになる。
大々的に人が集まればそれに比例して物流も盛んになっていく。
この都にも数千人にも及ぶ参加希望者、及び見物を目当てとしたそれ以上の数の旅人(剣技大会は馬車競走などと並ぶ娯楽イベントの一つでもある)が押し寄せており、毎年のことであるそうだが市街地は普段以上の活気を得て祭りのような状態になっていた。
そして、都の活気を見せることは自国の威信を示すことに繋がるので、そうも盛り上がっているとなればあちら側の歓待の一環として市街地を観光のように案内されることとなる。
その案内役となったのが、どうやらラファエルであるようだった。
もっとも、本人はあまり乗り気でないようだが、確かにいくら他国の正使の案内とはいえ宰相がする仕事ではないし、恐らくは王であるエルリックから役目を押しつけられたのだろう。
元々幼馴染のような関係だったらしいこともあって、君臣という間柄ではあるが彼ら二人にはそういったやり取りが可能である程の信頼関係が構築されているようであった。
「ともあれ、任されたからには仕方がありません。案内する故、ついてこられるがよい」
そう言って、足早に市街地へと続く方向(つまり傾斜の下方向だ)へと歩き出す彼。
市街地に出るからには危険を避けるために私も護衛を伴っているが、一国の宰相という立場であるラファエルは更に多くの護衛を伴っている。
その背中に続いて私も歩き始めると、その先には絢爛な馬車が停止していた。
彼に手を取られながら乗り込むと馬車の周りを護衛達が取り囲み、前方の馬に座る御者によってゆっくりと動き始めた。
そしてゆっくりと動き出した馬車は、そのまま庭園を後にすると王宮を護る城壁の門を潜り、市街地へと出た。
平地に築かれており街の中央に王宮がある我が国の王都とは異なり、山の傾斜を利用して築かれているこの都は街の最も奥、即ち頂上に王宮が存在しているが、しかし王宮に近い場所に貴族の居住区が存在するという基本的な設計思想は同じである。
当然王宮を出た私達が最初に差し掛かるのもそこであり、その性質上このような時であっても雰囲気は静けさを保っていたが、しかし街全体を貫く傾斜の下、即ち民衆が暮らしている区画の方向からは喧騒の気配が色濃く伝わってきていた。
今日の目的はそちらであるので、馬車は立ち止まることなく傾斜を下っていく。
ふと窓から周囲を見渡してみると、街中には私達が乗っているものの他にも馬車の数がかなり多い。
元は純粋な防衛用の山城から発展したこの都は傾斜がそれなりに激しい(山の斜面だけで大都市を構成するのは困難であるので外周は平地になっていたりするが、王宮に近い場所にある貴族の居住区は必然的に傾斜が激しくなる)ため、移動の際には我が国以上に馬車が重宝されているようであった。
頻繁に馬車とすれ違いつつも坂道を下っていくと、やがて貴族の居住区を抜けて平民の居住区へと到着する。
すると、途端に大通りは人波で溢れ返り、様々な声や雑音が入り混じった活気が私の耳へと届いた。
「素晴らしい活気ですね。貴国の繁栄ぶりが伝わってきます」
我がベルフェリート王国は今や総人口が(調査などしていないので私が持っている二百年前の知識を前提にした不正確な憶測ではあるが)二億を超える大国であるが、フェーレンダールもまたそんな我が国に匹敵する程の大国である。
故にその首都であるこの街はそれに相応しい繁栄を見せており、その活気は剣技大会の効果もあって凄まじいものとなっていた。
確かにこのような活気を見せつけられれば、フェーレンダールという国家の威風を感じずにはいられないだろう。
とはいえ、こうした光景は我が国の王都で見慣れている。
ベルフェリート王国を代表する正使という立場で訪れている以上、気圧されている訳にはいかなかった。
私は、隣に座るラファエルへと話し掛ける。
「当然でしょう。……御者、バルテルミーの店へと向かってくれ」
無表情のままこちらに答えを返した彼は、御者へと指示を出す。
それに従い、方向を変える馬車。
他国の正使を乗せる馬車であるということでかなり巨大である上に、周囲をかなりの数の護衛が囲んでいるために私達の一行はかなりのスペースを取っている。
そして今の街並みは民衆で溢れ返っていたが、しかしながらやはりこの都の大通りの横幅も百メートルを超えているために、通行することは十分に可能であった。
我が国の王都もそうであるが、人混みの中を貴族が乗った馬車が通り抜けることはよくあるので、彼らはこちらが近付いていくと手早く避けて進路を空けてくれる。
やがて馬車が停止すると、然程大きな声ではなかったために周囲の民衆の喧騒に掻き消され内容は聞き取れなかった(彼が窓の方を向いているために唇も読めなかった)が、ラファエルが窓越しに護衛の一人へと何か声を掛ける。
「南瓜の菓子を届けさせたので、口にされるとよい」
しばらくしてその者が戻ってくると、それ程大きくはない紙袋をラファエルへと手渡す。
そして彼はこちらを向くと、その中から紙に包まれた何かを取り出し、そう言いながら私の方へと差し出してきた。
何だろうかと思い開いてみると、そこには南瓜のカップケーキのような菓子がいくつか入っていた。
包み紙を開くと同時に、車内には南瓜の甘い香りが広がり、食欲を刺激する。
そのまま口に含むと、想像を裏切らない豊かで深い甘味が感じられ、舌鼓を打つ私。
「とても美味しいですわ。斯様に素晴らしいものをご紹介いただきありがとうございます」
一つ目のそれを飲み込むと、私はラファエルへと礼の言葉を述べる。
この場所に立地しているということは平民向けの店なのだろうが、恐らく貴族の令嬢達の間でも流行しているのではないかと思わせる程に美味であった。
貴族と平民向けの店と言うと一見ほとんど縁が無さそうに思えるが、しかし意外と平民向けの店を知っていたりよく商品を購入したりしている貴族は多い。
特に評判が良い店の店主はどこかの家に菓子職人として招かれたりすることも珍しくはなかった(評判がいい店の売り上げは時に小貴族の総収入を上回ることも珍しくはないので、招こうとするならばそれを上回る報酬を約束しなければならないので必然的に大貴族に限られるが)。
そういった評判は好奇心旺盛な若い令嬢達の間から広がっていくのが常であるが、きっとラファエルは私と同年代の令嬢に人気の店を調べておいてくれたのだろう。
「別に貴女のために紹介した訳ではなく、任された職務を果たしただけだ。気にされずともよい」
だが、こちらを向くことなくそう言葉を返す彼。
そして彼がまた御者に指示を出すと、再び馬車は動き出したのだった。




