15. 櫨染髪の芸術家
続々と訪れてきた商人達との面談を終えた私は、自室で執務を行っていた。
執務といえば聞こえはいいが、要は領地に残っている属吏達に纏めさせた書類に目を通し、その現状について把握する作業である。
本音を言うならば領地を与えられて領主になったということで、早速内政に励んで領地を発展させていきたいところなのだが、残念ながらまだそのための準備が全く出来ていない。
資金に関しては問題が無いとしても、支えてくれる家臣団がいなければさすがに私一人で広大な領地を全て管理することは出来ないし、何より私の頭の中にある領地の情報は二百年も昔の古いものであるために、最新の情報をきちんと頭に入れておかなければ新たな政策を行っても失敗するだけである。
何かをしようとするならば正確な情報をなるべく多く頭に入れた上で検討しなければ失敗する可能性が高まるだけであるし、故に焦る気持ちを抑えて書類に目を通していく。
それに、これから新たな政策を打ち出すことが出来ない他の理由としては今滞在している高級宿では城壁に囲われていないということで警備上の問題があるため、あまり長い間ここに滞在し続けることは出来ないという事情もある。
もっと兵が多ければ特に問題ないのだが、たった五千の兵力しか無い現状では貴族家の当主の座にある私が長期間の滞在を続けるにはあまりに無用心だろう。
なので、現地でしか出来ないことをなるべく早く片付け、王都に戻らねばならなかった。
現状において、最も優先してせねばならないことはいずれ住むことになる館の建設と、そして私兵の増強である。
前者の必要性は言うまでもないことであるが、後者もまた極めて重大な至上命題であった。
統治機構がしっかりとしているためにかなり治安のよいこの国であるが、それでも賊の類は存在している。
故にその武力で賊から領民を護ることが領主の重要な責務の一つとなるのだが、しかし現在私兵は共に内乱を戦った五千しか存在していない。
以前領主だった頃にはおよそ七万の常備兵を抱えていた広大なロートリベスタ侯爵家領の全土を、たった五千の兵力で網羅することなどいかなる手段を用いても不可能である。
そのため、至急兵力を集めなければ領民を護ることが出来ないのだ。
賊だけでなく、近隣の諸侯に対しても同様である。
貴族の力が強いベルフェリート王国においては諸侯同士の私闘も伝統的に認められている(というよりもそれを法という形で禁止して全ての諸侯に強制出来るだけの力が王家には無い)ために、たとえ適当な理由を挙げた近隣の貴族の私兵の侵入を受けたとしても、基本的に自力で対処しなければならない。
無論数万の私兵を持つ大貴族ならばともかく、私兵を数十や数百程度しか持たない小貴族であれば相手が中規模以上の家だった場合対処することが到底不可能である。
領地を護るために小貴族は王家、或いは大貴族の派閥の傘に入ってその庇護を受けるのであるが、そういった後ろ盾がいない上に防衛のための兵力を五千しか持たない我がロートリベスタ家領は彼らから見れば格好の獲物だろう。
かといって、中期的な目線で見た場合、目先の危険を避けるために王家や他の大貴族に借りを作ることは愚策である。
なので、早く兵力を揃えて(最低限三万人程度の数があれば治安維持と領地の防衛はどうにか可能だろう)そういった脅威に備えなければならなかった。
少しでも早く事を進めなければと焦燥を覚えてしまうところであるが、兵を動かすにも適当な理由を探す時間と事前の準備が必要になるであろうし、幸いにも私にはしばらくの間時間を稼ぐことの出来る手段がある。
その手段に関してはあらかじめ狙って用意していた訳ではないが、しかし偶然とはいえ活用出来るのならばするべきだろう。
一度私が領地を離れる必要があるのだが、それによってしばらくは確実に安全な期間が確保出来るので、その間に兵を募って大規模な常備軍を組織すればいい。
言うまでもなく私兵の編成及び維持にはそれなりの費用や物資が必要となるが、前者には十分な余裕があるし、兵糧や装備といった物資に関しても商人達に用意するように伝えてあるので近日中には揃えることが出来るだろう。
本当は武器や防具に関してはロートリベスタ家としての正式なデザインを決めた上で領地にいる鍛冶師達に打たせるべきなのであるが、生憎と現在に関してはそれを待っている時間が無い。
故に、当面は商人達が用意してきた装備を用いさせ、鍛冶師達によって正式な装備が完成し次第そちらに切り替えることになる。
二重の出費となってしまうが、資金そのものには余裕があるのでそちらの方面では特に問題ないし、何より時間には代えられなかった。
募兵に関しては数日中にも開始する予定であるが、ともあれそう長くはない私の滞在期間中にひとまずの目標である三万人を集められるはずもないことは明らかである。
なので時間を稼ぐために私が不在となっている間にも兵の募集と編成は行わなければならないのであるが、そのためには不在中にそれを行う責任者を任じておかなければならない。
これに関しては軍事に関する事柄であるので麾下の将校の中から信頼出来る者を選び出せばよいが、しかし私が少し領地を空ける間誰かに委任しなければならない事柄はそれだけではないので、一人でも多く人材を集めることは極めて重要であった。
「入って」
そのようなことを考えていると、ふと外から部屋の扉が叩かれる。
この部屋を侍女であるアネットを通さずに訪れる相手は当のアネット自身かレナータ嬢のどちらかであるので、入室するように伝える私。
すると、扉の向こうから現れたのは幼い頃より見慣れた姿。
「どうしたの、アネット」
「リヒャルト・エルヴェール様がお越しになられております。お嬢様に謁見したいと仰られておられますが、如何致しましょう」
「そうね……。何用かは思い当たらないけれど、あちらの部屋に通して頂戴」
いつものようにこちらに美しい礼をしてみせたアネットに対して用件を尋ねると、彼女はこちらへと判断を求める。
それに対して、束の間黙考した後許可を出した私。
リヒャルト・エルヴェールといえば、若くして当代最高と名高くベルフェリート王国において絶大な名声を誇る芸術家である。
小説、絵画、彫刻、音楽、建築、詩、戯曲と俗に芸術と総称されるあらゆる分野において傑作と賞賛される作品を生み出し、平民と貴族とを問わず非常に高い人気を誇っていることで知られていた。
最近で言えば私が王都からの道中の馬車で読んでいた小説や以前ユーフェルと共に鑑賞した劇の戯曲も彼の作品であり、未だ二十代前半でありながら芸術家としての評価は既に『画聖』リベレーテ・アドルナートや『楽聖』リベルト・カッラなどに並びかけていて、百年後には間違いなく史上最高の芸術家の一人として語られているだろう人物である。
その名声たるや知名度においても影響力においても下手な小貴族よりも遥かに上であるのだが、そのような人物が一体私に何の用なのだろうか。
事前の連絡も受けていない(それ程の人物なので連絡があれば客人として招く準備はしておいたのだが)ため、どのような用件でわざわざここを訪れたのか理由が思い浮かばなかった。
とはいえ、それ程の人物が相手であるということで、別室に通して会ってみることにする。
私の指示に従い、部屋を後にしたアネット。
彼女がリヒャルトを案内している間、部屋着として纏っていたベビードールのような薄い衣服からウェストンの店によって仕立てられたロートリベスタ家の礼装へと着替えていく。
そして着替えを終えた私は、しばらくの間丸ごと借りきっている宿の応接間として利用している部屋へと向かう。
宿とは言っても貴族が利用することを前提とした高級宿であるので、一室の広さはかなりのものである。
それに伴って廊下も長く、少し歩いて私は目的の部屋の前へと辿り着く。
既に案内を終えていたようで扉の前にはアネットが立っており、こちらに礼をした彼女の手によって扉が開かれた。
護衛として部屋を出た時からついてきていたカルロと共に、室内へと入る私。
「おお、まるで大輪の牡丹のようと存じておりましたが、斯様にお近くで拝見致しますればなおお美しい!」
すると、室内にいた男が大仰な身振りをしながらそう叫ぶと、しかし気品のある動きで私の目の前に跪いて手を取り、そっと手の甲に口付けた。
目の前の彼のことは過去に目にしたことがある。
レールシェリエに滞在していた頃にユーフェルと共に鑑賞した劇において、舞台上でクラシックギターを演奏していた人物だ。
和色で例えるならば櫨染と表現されるようなやや濃い金色の髪に長身ながらもかなり細い体格、そしてただ立っているだけで人目を集めるだろう非常に整った容貌。
その時は貴族用の客席から遠目に眺めただけであったが、しかしあちらも何度か目が合っただけの私のことを覚えていたらしい。
「ありがとう、リヒャルト。先日の劇はとても楽しめたわ。して、此度はどのような用件でいらしたのかしら」
こちらも挨拶を返すと、用件を尋ねる私。
「陛下の戴冠式における侯爵様の演奏がきっかけでありました」
「聴いていたの? 確か貴方は出席者には入っていなかったはずだけれど……」
あの時の演奏を聴いていたという彼に対し、私はそう尋ね返す。
そもそも戴冠式に参加するのは基本的に貴族のみであり、例外的に精霊神殿の神官及び奉祝曲の演奏を担当する者が出席を許される程度である。
そのどちらにも当てはまらない彼は式場にいなかったはずなのだが。
「確かに邪魔立てしようとする者はおりましたが、そのうちに許可を受けることが出来ましたので後方で拝聴致しておりました」
「では、あの時の騒ぎは貴方だったのね」
何やら会場の後方で騒ぎが起きていたらしいことは気付いていたが、どうやらその原因は彼が強引に会場に入ろうとして兵と揉めていたことらしい。
それに気付いた大貴族の誰かが許可を出したのだろう。
別に慣例でそうなっているだけで戴冠式の場に先述の者以外が居合わせてはならないという決まりがある訳ではないし、式に出席しても許される程の人物ではあるのだ。
「未知の和声、美麗なる旋律。そして誰も目にしたことのない楽器を演奏する侯爵様の美しさ! 真に素晴らしい! このリヒャルト・エルヴェール、心より感服致しました!」
「そ、そう。貴方程の芸術家にそう言ってもらえて、とても嬉しいわ」
突然の彼のおかしなテンションに思わず戸惑ってしまう私。
しかしながら、音楽においても大きな実績を残している彼にそうまで賞賛されたことは非常に嬉しく、感謝の言葉を返す。
徹夜で譜面を書き上げた甲斐があるというものだった。
「このリヒャルト・エルヴェール、是非とも侯爵様の下で制作させていただきたい! そのために本日は参った次第に!」
「それはつまり、ロートリベスタ家に招かれてくれるということかしら。もちろんよ、歓迎するわ」
あの時の曲について語り始めてからいきなり高くなったテンションに未だ戸惑っている私であるが、どうやら彼は我がロートリベスタ家にパトロンを依頼しに来たということらしい。
若くして半ば生きる伝説の域に到達しかけている大芸術家の申し出である、もちろん断る理由など何も無かった。
その判断にはこれまでどんな大貴族からの支援の申し出を受けても断ってきていた彼を抱えることが出来ればロートリベスタ家の威が跳ね上がるという当主としての観点もあるが、しかしそれ以上に私自身が彼の作品が好きだということも大きな理由である。
それが可能なだけの地位と財力があるのだから、好きな芸術家に支援をするのは貴族として当然のことだろう。
「残念ながら、まだ館は無いから招くことは出来ないけれど、その代わりこれから建設する館には貴方のための音楽堂や画室を付設するわ。それで構わないかしら?」
「無論でございます! 侯爵様の下での制作をお許しいただけるならば!」
「では決まりね。早速手配するわ」
頭の中で、ある程度完成しつつあった新たな館の設計図に彼のための音楽堂と画室のそれを付け加えていく。
同時に必要となる資材の量も計算し直し、後程商人へと伝えるために不足分を算出する。
増えた資材の手配にもそれ程の時間は要しないだろうから、特に問題は無い。
そうして、当代最高の芸術家であるリヒャルト・エルヴェールが我が家のお抱えとなったのだった。




