12. ノスタルジア(1)
それからも数日以上に渡って馬車に揺られ、街道を進んだ私は、やがて目的地である侯爵家領の境界付近へと辿り着く。
境界と言っても分かりやすく線が引かれている訳ではなく、もちろんそれを示すような自然物は何も無い。
とはいえ、様々な貴族の領地同士が互いに接しているからには地図上の境界線のみではなく、実際の境界線が示されていなければ困る事態も多々出てくる。
現在はまだ論功行賞によって地図が書き換えられたばかりであるので設置されていないが、そのために境界線付近の街道沿いにはそこが境目であることを示す標が置かれているのが常であった。
だが、封土が王宮において地図上で決められている以上互いに領地を運営する中で実際の境界がどこかで隣り合う領主同士が揉めることはそう珍しいことではなく、そういった場合には話し合いによって境界線が確定させられ、それでもどちらも譲らない場合には時に貴族同士の私闘に発展することも少なくはない。
そもそも、この国においては貴族同士が私兵を動員して戦うことは諸侯の権利の一つとして認められている。
卑近な例としては、かつて当時の私の死後に行われたエクラール家とベルファンシア家の戦いもこれに当たるだろう。
実際にこの目で見聞きした訳ではないがあのように国全体を巻き込むような大貴族同士の争いは稀というか、我が国の七百年の歴史の中でも片手で数えられる程度しか起きていないが、しかしもっと小さな貴族同士の争いであればそれなりに起きている。
無論のことあまり長期間に渡って戦い続けては国政に思わぬ損害が出ることになりかねないし、何より私闘の当事者である家にとっても戦いが長引けばそれだけ様々な面で損失が増えていくことになる。
また、仮に一方的に戦況が推移して短期間で決着がついたとしても、だからといってそのまま敗れた方の家が滅ぼされてしまったりすることは、建前上王家が各地に諸侯を封じたことによる国内の勢力図が変わってしまうことになるので彼らにとっては非常にまずい。
なので、内乱が起きる前に関係が悪化している家同士の間を取り持ち、それでも開戦することとなった場合には相互の妥協点を探り早めの停戦を働き掛けることとなる。
もちろんほとんどの家がどこかの派閥には属している以上、小貴族同士が争えばその長である大貴族も直接兵を出したりはしないにせよ自分達に有利に事を進めるために政治的な方向から干渉してくることとなるので事態はそう単純ではないし、王家だからといって簡単に事態を収束出来る訳でもない。
結局のところ、貴族の力がかなり強いこの国においては王家とは言ってもその特別性は主に国外に対して効果を発揮するものであり、国内においては名目上はともかく実質的には大きな諸侯の一つに過ぎないのだ。
ともあれ、いずれはこの付近にも境界線を示す標を設置することになる。
設置場所は当然二百年前と同じ場所になるのだが、以前のものが現存しておらず、しかも館と共に焼け落ちてこちら側に資料が残っていない以上、設置の際にはトラブルになる可能性があった。
その時には無論のこと相手と協議することになるのだが、いくらこちらが大貴族と言っても相応の私兵がいない状態では単なる張子の虎(この国には虎は生息していないが)に過ぎない。
話し合いは双方に相応の力があってこそのものであるので、兵を動かされないように牽制することは可能であるが、それでもこちらに兵力が無い状態では相手も譲歩しないだろう。
麾下の五千がいるので兵力が皆無ではないとはいえ、侯爵家の私兵としては体面的な意味でも実務的な意味でも少なすぎるし、相応の広さがある領地の各地に治安維持や防衛のために配備する必要のある数だけでも五千ではとても足りないのだから。
何しろかつては八万の常備軍の私兵がこの地には存在していたのだ、その十六分の一の兵数で全く同じ面積の領土を十分に維持することが困難なのは明らかであった。
早急に統治機構を整備し、相応の規模の私兵を養えるようにせねばならないだろう。
貴族社会においては武力を伴わない政争がほとんどであるが、しかし言葉と駆け引きによって行われるそれはその舞台に上がった者に確かな力があることが前提なのだ。
そして、この場合の力とは即ち兵力や財力に他ならない。
力が無ければ、誰かを護ることなど出来ない。
そのことを、私は嫌という程に知っていた。
境界線を越えた私達は、そのままかつてロートリベスタ家の館があった場所の方へと進路を取る。
館は私の指示通りに書類や個人的に作ったものもろとも焼かれたようであるし、二百年もの時が過ぎているので今はもう痕跡さえ残っていないだろうが、それでもかつての両親や友人達との思い出のある場所なので是非とも一度だけでも改めて訪れておきたかった。
たとえ支配者が変わろうとも、街道の配置はかつてと変わっていない。
窓の向こうに見える森や小川などの自然もそのままであり、広がる畑にも当時と同じように一面にまだ青いままの麦が風に靡いている。
かつて何度も、王都と館を往復する度に眺めていた道沿いの変わらぬ風景。
非常に懐かしいそれを目にして、まだ目指す先に到着してさえいないというのに早くも感傷に襲われる私。
ともあれ、そんな私の内心をよそに馬車は進み続けていく。
「わあ、サフィーナさんの領地ってこんなに素敵な場所なんですね」
正面の席では、私と同じように窓越しに外を眺めていたレナータ嬢がそう感嘆の言葉を口にする。
館へと敵が迫る直前にエルティ卿の手引きで数人の護衛達と共に外部へと逃がされた子供達であるが、当然エクラール家の正統な継承権を持っている彼らは内乱の勝者であるベルファンシア公爵から追われる立場であり、捕らえられてしまえばまず命は無い。
故にどこかに逃れなくてはならなかったのだが、国土のかなりの部分が実質的に敵の影響下に入った以上追跡の手から逃れ続けるのは困難であり、捕捉される前にどこかに身を隠す必要がある。
俗に木の葉を隠すには森と言うが、それは人であっても同じであり、どこかの人里離れた村へと逃れるよりも何十万もの民衆の中に紛れた方が時として発見される可能性は少ない。
きっとエルティ卿は敗色が濃厚になった時点で既に逃すための準備を始めさせていたのだろう、領地からそれなりに離れた街へと密かに入った彼らは、そこで人波に紛れて市民として暮らし始めた。
やがて当時のことを覚えている者達が皆寿命を向かえ、孫や曾孫の世代となってもなお。
……というのは分かっている事実を基にした推論であるが、およそ間違ってはいないはずだ。
ともかく、そのまま二百年が過ぎ、子孫であるレナータ嬢もまた同じように都市の城壁の中で育ち、一度も城外へと出たことが無い。
一応アネットによって王都へと連れてこられた際も旅といえば旅であるが、しかしその時はいきなりのことに慌てており馬車の窓の外に目を遣っている余裕など無かっただろう。
そのため彼女はゆっくりと眺めるのは実質的にこれが初めてである自然を存分に楽しんでいるようだった。
王都からここまでの道中においても、少女は外を眺めながら歳相応にはしゃいできている。
楽しそうな笑顔を浮かべたレナータ嬢と言葉を交わす度にこちらまで微笑ましい気分になるのは、彼女が天性の明るさを持っているためだろうか。
「ふふ、我が領土をお褒めいただけて嬉しいですわ。ですが、レナータさんがいずれ継がれる地もまたとても素敵な場所ですよ」
「そうなのですか?」
「ええ。何度か訪れたことがありますが、美しい土地です」
エルティ卿とは友人であったので、彼女に招かれてエクラール家領を訪れたことがかつて何度もある。
彼女が愛した地もまた、自然が豊かでとても美しい場所だった。
その光景を思い出そうとすると、必然的に亡き友人との思い出も心に甦る。
もっとも、共に茶を飲みながら語り明かしたりしたあの館もまた、今はもう跡形すらも存在していないのだろうが。
「えっと、サフィーナ様」
「如何なさいましたか?」
「その、急に悲しそうな表情をされたので……」
「心配させてしまってごめんなさい。けれど、私は大丈夫ですよ」
心配げな表情をしてこちらを見つめたレナータ嬢に対し、私はそう言葉を返す。
好むと好まざるとにかかわらず、時の川はたとえ世界が消滅して全てが無に帰したとしても変わらず永遠に流れ続けていく。
そのことは私にはどうすることも出来ないし、今すべきことは追憶に耽ることではなく未来を見つめることだ。
何より、突然生きる世界が変わったことにより大きな不安を抱えているだろう彼女に、それを受け止める立場である私が心配されているようではいけないだろう。
「それはさておき、ようこそ、我が領地へ。歓迎致しますわ、レナータさん。残念ながらまだきちんとしたもてなしは出来ませんが、ゆっくりと旅情をお楽しみくださいね」
気を取り直して、私は彼女に対してそう言葉を掛ける。
本来であれば迎え入れるべき場所である館がまだ存在していないので、きちんと歓待することが出来ないことは申し訳ないが、しかし可能な限り趣は用意するつもりだ。
レナータ嬢にとっても、どこを見渡しても貴族と高級な美術品ばかりの王宮よりも、まだ我が領地にいる方が落ち着くだろう。
しばらくの間はどこかの高級宿に滞在して商人や属吏と面会したり、様々な事柄の差配をすることとなるだろうが、時間は存分にあるので旅行気分で滞在を楽しんでくれればよいなと思う。
そのようなことを考えつつも、私達を乗せた馬車は護衛の兵五千に護られつつ目的地である領内最大の街エレルチェーダを目指して街道の上を進んでいった。




