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4. 前夜(4)

 作曲以外にもしなければならない膨大な仕事。

 それらをこなしていれば、時間が過ぎるのはあっという間であり、すぐに戴冠式の前日になっていた。

 既に奉祝曲は書き終えているし、オーケストラの分の楽譜(もちろん五線譜からこの国で使われている形式の楽譜に書き写してある)は王立楽団へと送ってある。

 六日程前にピアノの組み立てが終わって以降、ひたすらに練習ばかりした結果、少しは手癖や勘を取り戻せたとは思う。

 本番で絶対にミスをしないと自信を持てる程に勘を取り戻せた訳ではないので、不安は多大に残っているが、ともあれやれるだけの練習は全てやった。

 もう会場の設営もほぼ終わっており、先程使用人達が初めて見るそれを前に不思議そうな表情を浮かべながらもピアノを運んでいったので、これ以上の練習は出来ない。

 次にピアノに触れることが出来るのは明日の本番の際であるし、後は自分を信じて最善を尽くすだけだ。


 九日程の期間を掛けて書き終えたピアノ協奏曲は、総演奏時間五十七分程の楽曲となった。

 構成としては全三楽章からなる古典的なものであり、第一楽章から順にそれぞれおよそ二十五分、十三分、十九分の長さとなる。

 ピアノが完成してから六日しか無かったことやお互いのスケジュールなどの都合もあって一度もオーケストラを担当する王立楽団との合同でのリハーサルが出来ていないことも不安要素としてはかなり大きいが、しかしその分あちらとの打ち合わせは綿密に済ませたし、まだピアノが完成する前に行われた楽団側のリハーサルにも居合わせて何か問題が無いかのチェックも済ませている。

 指揮者との意思疎通も万全であるし、超一流の演奏者であり指揮者である彼らは私が思い描いた通りの演奏を見せてくれるだろう。

 つまるところ、本番の成否はやはり私がミスをせずに完璧に演奏出来るかどうかに全てが掛かっているということだ。

 殿下の王としての門出となる儀礼を無事に成功させるためにも、責任は重大である。


 とはいえ、これ以上練習が出来ない以上あまり気を張っても仕方がない。

 少なからず緊張に支配されている気分を紛らわすには、神経を休めるのが一番だ。

 私は、いつものように鐘を鳴らしてアネットを呼び出す。


「香草茶を淹れて頂戴。今はそれが飲みたい気分なの」

「畏まりました」


 すぐに姿を現した彼女に対し、私はハーブティーを淹れるように命じる。

 すると礼をして、アネットは茶を淹れるための簡易的なキッチンの方へと消えていく。

 数分後、湯が沸くと彼女はそれを注いだポットや茶器をトレイに乗せて戻ってきた。

 私の前に音を立てないようそっと温められたカップが置かれると、続いてアネットは銀細工のポットを持ち上げ、中身をそこに注いでいく。

 そして中身が満たされると彼女はポットをトレイの上に戻し、カップの横に茶菓子が乗せられた皿を置いた。

 主が特に注文をしなければ、何を茶菓子として出すかは侍女が決めることになる。

 彼女は、現在の私の気分を慮ってか市街にあるさる菓子屋の甘味の少ないマカロンを茶菓子として用意してくれていた。

 さすがと言うべきか、幼少の頃より十年以上も私専属の侍女として仕えてくれている彼女はその辺りの機微について私自身と同じくらいによく理解してくれているらしい。


「ありがとう」


 感謝を述べると、トレイを持った彼女は礼を返してそれを片付けるために部屋を後にする。

 一人になった私は、そっとカップを持ち上げるとアネットに淹れてもらったハーブティーを口にした。

 品種にもよるが、ある種のハーブは鎮静作用を持っている。

 爽やかな口当たりのそれを何口か楽しんでいると、緊張で張り詰めていた神経はやがて弛緩し気分は落ち着いていった。

 一度カップを置いて皿の上のマカロンをナイフで半分にしてからフォークで刺し、口へと運ぶ。

 以前にも何度か食べたことのあるそれはあまり甘くないもののかなり美味であり、しかもハーブティーの清涼感のある味わいにもとても合っている。


「お嬢様、よろしいでしょうか」

「どうしたの?」


 この後はどうしようかと考えながらもマカロンをナイフで二つにしていると、先程退出したアネットが戻ってきた。

 何かあったのだろうかと思い、用件を尋ねる私。


「お手紙が届いておりました。差出人はセルージュ侯爵となっております」

「手紙?」


 街道の整備に伴って郵便制度が発展している我が国においては馬で片道三ヶ月もの時間を要する東西の国境(もっとも、これは少し前までの話であり国土が大幅に広がった現在では東西の国境の距離は更に長大になっているが)付近の村にそれぞれ住んでいる住民同士でも手紙をやり取りすることが出来、当然貴族同士でも盛んに手紙のやり取りが行われている。

 そうであるからには私宛てに誰かから手紙が届けられてもおかしくはないのだが、それを送ってきた相手はセルージュ侯爵なる人物である。

 はっきり言って、その名を耳にしてすぐに彼、或いは彼女のことであると思い浮かぶ心当たりの人物はいない。

 侯爵家といえば大貴族であるため絶対数も少ないのだが、この国の侯爵位にセルージュという家名の家は存在していないのだ。

 セルージュという名を聞いてまず私が思い出すのは、先日顔を合わせることとなったフェーレンダール王国の宰相を異常なまでの若年ながらも務めている緑髪の男のことである。

 彼は特に自らの爵位を名乗ってはいなかったが、宰相の座にあるからにはそれ相応の爵位も持っているだろうし、彼が侯爵家の当主であるという仮説には十分な説得力があった。

 正使としてフェーレンダールを訪れた際に私があちらの宰相である彼と面識を持っているのは当然のことであるし、そもそも封建制国家であり王家による貴族への統制力がかなり弱いこの国においては他国の貴族と共通の趣味などに関して文通を行ったりしても咎められることはない(あまり不審な動きをしていては政敵からの攻撃材料となることはあるが)ので、それ自体は特に問題は無いのだが。


「こちらでございます」


 彼女から手紙が入っていると思わしき封筒を受け取ると、そこにはベルフェリート王国で用いられている文字で差出人の名がセルージュ侯爵と書かれている。

 すぐ横には今度はあちらの国で用いられている文字でいくつかの事項が記されており、その筆跡を注意深く眺めて鑑定すると、それらは先日の交渉の際に書類を互いにやり取りする中で目にした彼の直筆のものと綺麗に一致している。

 これは間違いなくフェーレンダール王国の宰相であるラファエル・セルージュの真筆であり、つまり予想通りこの手紙は彼からのものであるということだった。

 まあそれ自体は然程重要ではないのだが、問題は一体これが何の用件であるかということである。

 彼と私は事務的なやり取りで顔を合わせた程度であり別に親しい訳ではないし、わざわざ彼が手紙を送ってくるような用件が私には思いつかなかった。

 まさか私信ではないだろうし、かといって正使を務めたとはいえ論功行賞前であり未だ領地を受け取っていない私に何か助力を求められても出来ることなどほとんど無いのだ。

 とはいえ、可能性は非常に小さいがもしかしたら私が知らないだけで何か一刻を争うような事態が起きたのかもしれない。

 肝心の文面を読みもせずに内容について悩んでも何の意味も無いし、私は蝋を用いてされた未開封であることを示す封を開け、中から幾度か折り畳まれた紙を取り出す。


「……」


 絶句、と表現すればよいだろうか。

 その文面に目を通して、一瞬二の句が次げなくなる私。

 内容は一言で要約すれば戦勝の祝いなのだが、しかしあちらの国の文字で記されている一つ一つの文章の表現がかなり無礼であり、まるでこちらを挑発しているとしか思えないものであったのだ。

 さすがは若くして宰相を務めている人物であると言うべきか、文章自体は非常に上質であり、簡素ながらも美文と表現して差し支えの無いようなものである。

 しかしながら、だからこそ挑発的な文面もより際立っており、せっかく落ち着いていた気分は否応なしに苛立たされることとなった。

 だが、本人が目の前にいる訳でもないにもかかわらず怒っても意味が無いし、何を狙っているのかは知らないがここで怒ってはあちらの思う壺だろう。

 ちょうど、タイミングよく手元にはハーブティーの入ったカップがある。

 私は手紙を破り捨てたい衝動を抑え込みつつ、それを傾けて中身を口に含んだ。

 何度か口にすると、やがて苛立ちが強かった気分は落ち着いていく。

 そうした辺りで、私は途中までで読むのを止めていた手紙の続きを読み進める。

 相変わらずこちらの苛立ちを煽るような文面であったが、しかしさすがに挑発が主目的であるという訳ではないらしく、後半には連絡事項がいくつか書き連ねられていた。

 その中でも最も重要なものは、フェーレンダール王国からの正使を送り殿下の戴冠式に参加させるという内容だろう。

 正使は既に到着しているようだ(この手紙も彼らが持ってきたのではないだろうか)が、それはつまり彼らには我が国と今後も協力関係を維持する意思があるということだ。

 当然、こちら側としても国益を考えればそれに否やは無い。

 私が構想した通りに情勢は推移しつつあった。


 苛立ちを紛らわせるのにどんどんとハーブティーを口にしていると、当然然程大きくないカップの中身はすぐに空になる。

 すると、入り口近くの壁際で控えていたアネットが、ポットの中から中身を注いでくれた。

 それを一口飲んでから、私は読み終えた手紙を封筒へと戻すと、またフォークを手に取ってマカロンを口にする。

 このような無礼で挑発的な手紙を受け取ったからには、こちらとしても戴冠式が終わったら相応の文面の手紙を返信しなければならないだろう。

 貴族社会において、こうして明確に挑発をされているにもかかわらず何も反応をしないようでは相手から見くびられるだけだ。

 相手を激怒させ過ぎないよう、かつ苛立ちを確実に覚えさせる程度の文章という匙加減は難しいが、やってやれないことはない。

 果たしてどのような文面にしようかと頭の中で考えながら、私は黙々と甘味少なめで上品な味わいのマカロンを食していった。

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