3. 前夜(3)
レナータ嬢に関すること以外でも、せねばならないことは大量にある。
近いうちに行われることになる戴冠式には私もノータッチではないので、そちらでも今のうちに終わらせておかなければならないことはいくつもあった。
私は、戴冠式の準備においてその総責任者のようなことを任されている。
総責任者とは言っても個々の準備に関してはそれぞれ別に任命された貴族達が行うので、要は新たに即位した国王や式に足を運んだ諸侯の接待役のようなものなのだが、食材の管理や調達は別の人間の仕事であるし、当日饗される料理のメニューは料理人が決めるため接待役とは言っても私がせねばならないことはほとんど無い。
言うなれば、名誉職のようなものと表現するのが適切だろうか。
だが、この役目には当然きちんとした実務もいくつかある。
例えば戴冠の儀の後に新たに誕生した王を称える文を読んだり(事前に文面を考えておくのも仕事である)することなどがあり、それらの多くは当日にすることなのだが、しかしスピーチの原稿を用意する以外にも事前に準備しておかなければならないものがもう一つあった。
それは、会場で王立の楽団によって演奏される奉祝曲を用意することである。
代々、戴冠式の中で演奏される奉祝曲はその回の総責任者が用意することとなっているのだ。
もちろん貴族本人が曲を書く訳ではなく、お抱えの作曲家に曲を書かせてそれを使う訳であるが。
しかし今の私にはそのような伝手は無いし、探せば相応の実力を持った書き手も見つかるだろうが、今から探していては恐らく当日には間に合わないだろう。
自分で作れるものを他人に依頼するというのも性に合わないので、いっそ自分で書いてしまうことにした。
作曲はOLだった頃に何度かしたことがある程度であり、そう考えれば私の主観でかれこれ数十年振りになるのだが、この国には何故かは知らないが地球においては作曲のために広く用いられるピアノという楽器が存在しない。
作曲もまたヴァイオリンにおいて行われているため、故にピアノで作曲するのが主である地球の俗にクラシックと呼ばれるような曲とは同じ弦楽曲であっても相違点がいくつかあった。
この国の作曲技法にも目を通しているのでそれに則った曲も作ることは出来るが、しかし実際にそれを用いて楽曲を作ったことが無いので、必ずしも上手く作れるとは限らない。
それが何であるかを知っている者など誰もいないのだから、別に頭の中にある地球にあった既存の楽曲の譜面をそのまま写譜して演奏してもよいのだが、それでは国王として新たな門出を迎えることになる陛下にいささか失礼だろう。
そこでという訳ではないが、せっかくなので地球の楽典を生かして奉祝曲としてピアノ協奏曲を書いてしまおうと思うのだ。
ピアノ協奏曲であれば昔何度か書いたことがあるので、それなりのものならば用意することが出来る。
無論、私は好きだったアルベロ・カルドナの楽曲があまり評価されなかったように、あまり既存の曲調と離れ過ぎていても諸侯には受け入れられないだろう。
地球の楽典に則って新鮮味を出しつつも、この国の曲らしい雰囲気もある程度織り交ぜる。
両者のバランス感覚は難しいが、だからこそなかなかにやり甲斐がありそうだった。
ともあれ、ピアノ協奏曲を演奏するのであれば当然主役であるピアノが必要であり、この国にはそれが存在しないので作曲を始めるよりも先にピアノを作るところから始めなければならない。
私は紙を執務机の上に広げ、グランドピアノのパーツの図を書き込んでいく。
本当はオルガンでもよかった(視覚的なインパクトであればパイプオルガンの方がずっと上だろう)のだが、今からパイプオルガンを作り始めたのではどう考えても戴冠式の期日までには間に合わない。
鍵盤にペダル、ハンマー、そして天板などのピアノの構造を一つ一つ頭の中に思い浮かべ、そしてそれをそのまま白紙の上に描き出す。
描くのは図だけでなく、ピアノを作るのに適した音をよく反響させる材質の木材や細かな部分のサイズなども記入して指定していく。
製造機械が存在しないこの世界においてはピアノを一台作るのにもそれなりの時間が必要だろうが、しかし何も一人の木工職人や鍛冶師だけに全てのパーツを受注する必要は無い。
優秀な職人は芸術家同様に王家や大貴族によって囲われていることも多いが、しかし市井にも優れた技量を持つ職人は多くいる。
複数の職人へと注文をして同時進行で各部分のパーツを製作していき、それから組み立てれば完成までに要する時間は大幅に短縮出来るはずだ。
そのため、各パーツごとに分解した後の図を詳細にペンで書き込み、それらを発注する先の職人別に取り分けていく。
これらの中で最も技術的に難しいのは実際に音を奏でる部分であるピアノ線だろうが、単なる鉄線であれば我が国の鋳金技術でも十分に製造可能だろう。
戴冠式が執り行われる頃には、無事に組み立てを終え、演奏することが出来るはずだ。
数十枚以上の量になった発注図を全て書き終え、それを送り先別に取り分けた私は、鐘を鳴らしてアネットを呼ぶ。
まるであらかじめ呼ばれることが分かっていたように、ほとんど間を置かず叩かれる扉。
入室を許可すると、彼女は無駄の一切ない簡素な、それでいて流れるように麗らかな礼を見せる。
「アネット、これらを送る手配をお願い。宛て先は書いておいたわ」
「畏まりました。すぐに手配致します」
何十通もの封筒を手渡すと、彼女は早速手配をするためにそれを持って退出していく。
そして一人になった私は再び机上に白紙を広げる。
今度は、協奏曲を書くのに必要な五線譜を作るためだ。
当然ながら、この国で用いられている楽譜はそれとは異なったものであり、地球で広く使われているような五線譜は存在しない。
だが、ピアノが期日間近まで完成しない以上曲は頭の中だけで作っていかねばならず、それには五線譜が必要不可欠である。
とはいえ、面倒ではあるものの作業そのものはかなり単純なものだ。
直線である五線と音域を示す音部記号を、ただひたすらに白紙の上に書いていく。
途中でやや億劫になりながらも、最終的に五百枚程度を作成した。
どれくらいの長さになるかはそれこそ完成するまで分からないが、しかし例えばかの高名なベートーヴェンの交響曲第九番の楽譜などは全てを記譜すればこの程度の量は必要となる。
さすがに指揮者にもよるとはいえ総演奏時間が六十分から七十分にも上る第九に匹敵するような大曲にするつもりは今のところ無いが、しかし過去の記録を見れば歴代の奉祝曲の演奏時間は軒並み二十分以上あり、『楽聖』と謳われるリベルト・カッラが奉祝曲として作曲した『』という曲などは五十四分に渡って演奏されたらしい。
この曲は『蝶』や『テレーゼ』と並びカッラの三大傑作と称えられていたりするのだが、ともあれそういった先例がある以上私が作る曲の長さもその程度にするのが無難だろうし、それにはある程度の枚数の楽譜が必要となる。
場合によっては没にして廃棄する分もあると考えれば、むしろこれでも足りないかもしれなかった。
もっとも、こればかりは実際に完成するまでは何とも言えないのだが。
将来は侍女長の職を担うレナータ嬢の侍女を探し、私と彼女の家臣候補の人材を探し、かつ政務をこなし、その合間にピアノ協奏曲を一曲書き上げる。
当然かなりの激務になるし、曲を書く時間を確保出来るかも不透明であるが、しかしその他の部分で致命的な問題点がもう一つあった。
それは、果たして当日私がピアノを演奏することが出来るかどうかだ。
どんなに急いでも、発注したグランドピアノが完成するのは継承式が執り行われる数日前となるだろう。
ところが、私が最後にピアノという楽器を演奏したのはまだ地球でOLをしていた頃のことであり、それ以来体感時間でもう何十年も演奏していない。
当然歳月の経過に従って頭の中にある感覚も薄れているし、そもそも当時とは手の大きさも指の長さも違うのでその感覚自体があまり当てにならない。
そのような状態で、自分で作ったものとはいえ初めて演奏する曲を僅か数日で覚え、戴冠式という大舞台で奏でなければならないのだ。
ピアノという初見の楽器の音色とピアノ協奏曲という初めて耳にする様式のインパクトにある程度は誤魔化されてくれるだろうが、戴冠式という大舞台でありかつ聴衆が耳の肥えた貴族達である以上、ミスをするのは論外であるにしてもどうにか弾ききったというレベルではとても彼らを満足させるには足りないだろう。
また、協奏曲という様式であるからには曲中でカデンツァを披露しなければならないが、かなりブランクが長いので上手く即興で演奏出来るかも我ながら怪しい。
カデンツァに関しては抜いても誰にも分からないだろうが、しかしピアノが独奏されるこの部分が無ければ聴衆に楽器に対する十分なインパクトを残せないだろう。
かといって、鍵盤楽器自体がこれまで存在しなかったこの国にピアノを演奏出来る人物がいるはずもないので、他の誰かに演奏してもらうことも不可能である。
つまり、私はピアノが完成してから当日までの僅か数日で数十分に及ぶ協奏曲のピアノパートを完全に弾きこなせるようになり、かつ即興でそれなりの演奏が出来るくらいに勘を取り戻さなければいけない(もっとも、カデンツァに関しては即興ではなくあらかじめその部分も含めて作曲しておいても問題は無いのだが)ということだ。
幸いにも、ヴァイオリンを初めとした弦楽器やオーケストラといった概念は存在するので(普段演奏しているものと大きく流儀の異なる譜面に戸惑いはするだろうが)そちらは任せることが出来る。
王立楽団にいるような奏者は当然ながら皆超一流の腕前の持ち主であるし、たとえ初めて触れる構成や様式の譜面であっても問題なく弾きこなしてくれるだろう。
つまりは、後は純粋に私が演奏を当日までにマスター出来るかどうかの問題であるということであり、私の肩に掛かっている。
それを見越して初めから作る曲のピアノパートの難易度を下げておくというのも手ではあるが、それによって曲そのものの完成度が下がってしまっては元も子もない。
―――と、問題点はいくつもあるが、未だ肝心の協奏曲を書き始めてもいない状態でそれらの問題点について悩んでも仕方がない。
私は先程作った五線譜に向かい合って楽曲の構想を練り始める。
まず、当然であるが殿下という人物に相応しい曲調であることが望ましい。
そういった意味で基本的には明るく、かつ勇壮であったり荘厳な雰囲気を意識して作っていくのがよいだろう。
となると、使用する調性は変ホ長調が適当だろうか。
そうであれば主題は……と、一度考え始めれば問題点など吹き飛んで頭の中に次々とアイデアが浮かんでくる。
どんどんとペンが動き、スケッチをするように黒い部分が増えていく譜面。
それから、私は夕食の前になるまで作曲の作業を続けていた。




