ex.9 密かなもの
二路に分かれてラーゼリア王国へと侵攻したベルフェリート軍の本軍に当たる、北路軍の陣営。
途上にあるいくつかの城を既に攻略した彼らは、日が落ちて夜を迎えたために野営を行っていた。
そんな広大な陣の中央、王家の旗が翻る下にある一つの幕舎。
王族が用いることを前提として作られたそれの中には、二人の男の姿があった。
照明である炎が小さく揺らめく度に、その動きに合わせてそれぞれの影が少し形を変える。
「陛下、件の彼女のことですが」
そのうちの一人、頭髪に白いものが混じり始めた初老の男がそう口にした。
口許にやはり白が時折混じり斑になった髭を蓄えた齢五十代の彼は、ベルフェリート王国のサヒャリ伯爵である。
かなり初期からこの国の第一王子であるレオーネ・レストリージュの陣営に加わっていた彼は、陣営の薄さからやむを得ず実戦にも参加していたものの元々は政務を得意とする文官寄りの人物であり、第一王子の腹心的な立ち位置にいる貴族の一人であった。
「サフィーナがどうかしたのか?」
ベルフェリート王国において、現在陛下という二人称で示され得る存在はただ一人である。
それに対して言葉を返したのは、この軍勢の指揮官にして幕舎の主であるレオーネ・レストリージュであった。
まだ戴冠式を行っていない、即ち正式に即位した訳ではない彼のことを殿下と呼称するか陛下と呼称するかはかなり微妙な問題であるが、サヒャリ伯爵の場合は陛下と呼称している。
彩やかに赤い髪をした彼は、陣中で用いるための簡易的な机の前に置かれた椅子へと腰を下ろしながら、自らを陛下と呼んだ老人と向かい合っていた。
「彼女の功績はあまりに大き過ぎます。あれ程絶大な能力を持った人物に大領を与えるのは危険過ぎましょう。継承法のみは現状のものを維持するのが最上かと」
老人は、少し皺のある顔の上に誰にも内心を窺い知らせぬような無表情を浮かべたまま、第一王子に対してそう奏上する。
一連の戦いにおいて主役であったと言えるのはサフィーナ・オーロヴィアというまだごく若い少女であり、彼女はもしその働きが無ければ間違いなく勝利出来なかったと誰もが認めざるを得ない程の功績を挙げていた。
その功績を鑑みれば論功行賞の際には大貴族と呼ばれることになるだろう程の広大な領土と、それに見合う家格を与えなければならないのだが、封建制の国家であるベルフェリート王国においては力の強さとは即ち領地の広さとそれによる私兵の人数である。
傑出した才能を存分に示した少女に対してそのような絶大な力を与えることを、サヒャリ伯爵は危険視しているのだ。
とはいえ、王権がそれ程強くないこの国ではただ危険だからという理由だけで行賞を与えないということは不可能である。
それをしてしまえば、諸侯からの強い反発は避けられないためだ。
しかし、ベルファンシア公爵家の当主によってこの国の宰相位と政権が世襲されるようになった際に継承法が強引に変更されているため、現状のそれに則るならば女性であるサフィーナは貴族家の当主となることは出来ない。
本来であればクーデター以降に変更されたそれは当然再び以前のものへと戻されるべき対象であるのだが、しかし継承法のみに限っては現状のものを維持することで、少女に対して力を与えないようにしようというのが彼の考えであった。
「いや、それには及ばん」
「しかし」
「あいつは今別路を率いているのだぞ? そのようなことをすれば、下手をすればまた国が割れる。しようと思えばそれが出来る才覚があるのは知っていよう。無論兵の指揮で負ける気は無いが、この期に及んでまた国が割れればたとえサフィーナに勝てたとしても今度こそ国が保たないだろう」
その案を否定した第一王子に対して、皺が目立つ表情を変えぬままなおも老人は言葉を続ける。
だが、それに対して否定の理由を告げていく王子。
継承法を現状のまま維持するということはサフィーナを排除する姿勢を鮮明にすることを意味しており、そうなればせっかく収まりかけた戦いが再び燃え上がることとなってしまう可能性もある。
語られた内容が現実になりかねない程の政治力や指揮能力の高さを少女が持っていることは二人とも理解しており、故に真実味を持って受け入れられていた。
主からの正鵠を得た言葉に、反論することが出来ず束の間沈黙する老人。
「では、私がどうにか処分致しましょう」
「無理だな。剣を使わないお前は気付かんだろうが、あいつは過剰なまでに周囲を遠巻きに密偵で固めている。害意を持って近付くだけでも難しいだろう。それに、警戒を潜り抜けたとしてもあいつに付いている侍従は化け物だ。俺やリートでも勝てるかは分からん相手に暗殺者如きが勝てるはずもない」
次案として遠回しにではあるが暗殺を匂わせたサヒャリ伯爵であるが、それもまた赤髪の男によって却下される。
サフィーナは密偵などによって自らの身辺を厳重に固めており、その警戒網を掻い潜ることは極めて難しい。
自らも並ぶ者の無い剣の使い手である彼はそれ故に身のこなしなどから少女の周囲にいる密偵の存在を見抜いており、ましてや間違いなく国内最強の剣士の一人だろうカルロが侍従として控えていることから、老人の提案がどれ程困難な事柄であるかをよく理解していた。
その返しを耳にして、無表情を依然として保ったまま黙り込む老人。
「そもそも、俺は無理に封じる必要は無いと思うがな」
「……何故にございますか」
「サフィーナに次いで戦功が第二位であるのは辺境伯家だ。繰り上げで戦功第一にした場合、今度は辺境伯家だけが突出して大きくなり過ぎる」
自らの考えを口にする第一王子。
元々国内最大の貴族の一つであったヴェルトリージュ家のみに大規模な加増をすることとなれば、今度は今回倒されたベルファンシア家に代わり辺境伯家が王家を差し置いて大き過ぎる力を握ることとなる危険性がある。
それでは、せっかく成し遂げたこれまでの成果が無に帰してしまいかねない。
そのことを彼は懸念していたのだ。
「ふむ、では均衡を?」
「ああ。サフィーナを大貴族にした上で領地を削減したベルファンシア家も存続させ、互いに牽制させるべきだろう。無論、基本方針は二百年前に復古させることだがな。そちらについての研究は捗っているのか?」
「ベルクール伯爵の協力によってほぼ判明しております。彼の研究成果には目を見張るものがありますな」
参考とすべき状態が二百年も前であることに加え、ベルファンシア家の政権が続く中で歴史書が大幅に改変されているため、クーデター以前の諸侯の勢力図に関しては不明な部分も多くある。
論功行賞の重要な根拠となるそれが不透明であることは彼らにとって大きな懸念であったが、しかし現在生きている者の中では最大の評価を受けている大学者であるアルフレッド・ベルクール伯爵の協力によって、既にそのほとんどが明らかとなっていた。
「では、そちらは任せる。王都への帰還までに資料は完成させておいてくれ」
「畏まりました。陛下、どうかサフィーナ・オーロヴィアには注意なされますよう」
「案ずるには及ばん。あれ程の女なのだ、必ずや俺のものにしてみせるさ」
老人からの忠告に対して、野心的に唇を吊り上げてそう口にする第一王子。
それに対してはもう何も言葉を返すことなく、サヒャリ伯爵は礼をしていくつかの蝋燭の明かりに照らされた幕舎の中を退出していく。
内部で一人になった彼は、決済しなければならない書類を片付けていきながらも、これからのことについて想いを馳せる。
彼が正式に王となる日も、間もなくであった。




