曖昧な立場(1)
魔王軍に入って一週間。
わたくしは居心地の良い暮らしをしていた。
朝起きてベルを鳴らせばアレクシア様とその配下の魔族の方々が来て身支度を整えてくれて、朝食はゆっくりと自室で摂り、午前中は魔王城の中を散策して、昼食は魔王様と摂り、午後は幹部の方々の話し合いに参加して、夕食を魔王様と摂って、部屋に戻ったら入浴をしてのんびり過ごして眠る。
……あら、これが悠々自適な暮らしというものかしら?
仕事らしい仕事をしていないのに、誰からも責められないし、誰もわたくしに指図をしてこない。
「アレクシア様、わたくし、何をすればいいのでしょうか? エヴァルト様は『好きに過ごせ』としかおっしゃいませんし……」
そう、本当に誰も何も言ってこないのだ。
お茶に付き合ってくれていたアレクシア様が、ほほほ、と笑った。
「ここでの暮らしには慣れたかえ?」
「ええ、エヴァルト様もアレクシア様も、皆様が良くしてくださるおかげで、とても快適に過ごせております」
「それは何よりじゃ。しかし、どうやら魔王妃様は何もせずにいるというのが苦手なようじゃの」
それにわたくしは頷いた。
こんなに何もせずに過ごしたのは初めてで、なんだか、酷く落ち着かない。
……公爵令嬢だった頃は忙しかったから。
聖女ユウリに冤罪を着せられた後は毎日拷問を受け、時間の感覚も分からなくなっていた。
社交のためのお茶会や夜会への出席もなければ、王太子妃のための教育もなく、常に周囲の目を気にする必要もない。
ここではわたくしは何をしても許された。
魔王城の中で、わたくしが入れないところなどなくて、どこでも立ち入ることが出来たし、幹部の方々もわたくしにはそれなりに丁寧に接してくれる。
妃になってはいないが、実質、そのようなものだった。
毎日、必ずエヴァルト様と会う時間があって、その時は二人きりになる。
公爵令嬢の頃には、異性と二人きりになるなんて考えられないことだったが、魔族の中ではそのような人間の貴族の常識などはない。
エヴァルト様は毎日わたくしを褒めてくれる。
教育係や王妃様に注意されることはあっても、褒められることなんてなかったので、褒められる度に少し気恥ずかしい気持ちになる。
思わず謙遜したり否定したりすると、エヴァルト様はあまり良い顔をしなかった。
「レイチェル、私の言葉を否定しないでほしい。私が口にする言葉は事実であり、私の心でもある」
そう言われてからは謙遜も否定もやめた。
わたくしが「ありがとうございます」と受け入れれば、エヴァルト様は満足そうに頷いた。
アレクシア様は日々、わたくしの髪型やドレス、化粧、装飾品などに力を入れていった。
「ほほほ、こうして誰かを着飾って遊ぶのも面白いものよの。魔王妃様は見目が良いからやり甲斐もある」
と、言って、配下の魔族の方々に大量のドレスや装飾品を持って来させては、二、三時間かけてわたくしを着飾らせる。
趣味が悪ければ拒絶出来るのだけれど、アレクシア様の持ってくるドレスはどれも可愛かったりオシャレだったり、着てみたいと思わせるものばかりだった。
それにアレクシア様はセンスが良い。
わたくしに似合わないものを当てがったことは一度もなく、これに関してはエヴァルト様も褒めていた。
「アレクシア・ムーンをあなたの世話役にしたのは正しい判断だった。美しいあなたを見られるのが、最近の楽しみになった」
エヴァルト様は良くも悪くも正直な方だ。
話していても誤魔化しや嘘は口にしないし、エヴァルト様自身もそういったものを好かないようで、好き嫌いがハッキリしている。
適当に誤魔化そうとすると不機嫌になるけれど、言いたくないことや嫌なことはきちんとそう伝えれば、それ以上は踏み込んでこない。
その気遣いが嬉しいと思ってしまう。
でも、だからと言ってわたくしのことに興味がないというわけではないらしい。
「話したくないことは言わなくて良いが、いつか、何でも話せる仲になれたら良いと願っている」
エヴァルト様はただ無理強いをしないでくれているだけで、わたくしに関することは本当は何でも知りたいのだとか。
わたくしとの言葉でのやり取りを好んでいるようで、一緒にいる時間はよく質問をされる。
「レイチェルの好きな色は?」
「これと言っては特にありません。エヴァルト様はお好きな色はございますか?」
「ああ、ある。金とピンクレッドだ」
ジッとわたくしを見つめながら言われて、その意味を理解出来ないほど馬鹿ではない。
「それは……」
「そう、あなたの色だ。この柔らかな金髪も、その鮮やかなピンクレッドの瞳も、好ましく思う。あなたは美しく、愛らしい」
当たり前のように手や髪に触れて口付けをされる。
それがいまだに恥ずかしくなるのだけれど、エヴァルト様はやめないし、わたくしも自分でも不思議だけれど、それをやめてほしいとは思えなかった。
エヴァルト様との昼食を終えて、魔王城の中を散策しながら考える。
……わたくし、このままで良いのかしら……。
妃でもないのに妃のように扱われて、特別な待遇を受けて、勘違いしてしまいそうになる。
レイチェルという存在を受け入れてもらえたような気になってしまう。
元人間のわたくしが魔族から何の疑いもなく受け入れられることなんて、あるはずがない。
だからこそ、ホッとしたのだ。
「おい、そこの人間!」
怒鳴るような声に振り返る。
青みがかった灰色の毛並みに金の瞳をした、二本足で立つ、狼のような外見。ウェアウルフ。
声からして恐らく男性だろう。
「わたくしのことですか?」
ズンズンとそのウェアウルフが近付いて来る。
「お前以外に人間なんてここにはいねぇ!」
その外見と口調は誰かを彷彿とさせた。
……なんだかロドルフ様に似ていらっしゃる。
アレクシア様を見れば、溜め息混じりに返された。
「ロドルフの弟じゃ」
やはり、と思う。
「おい、人間、なんでお前みてーな細くて弱っちい奴が魔王様の妃になんてなるんだよ! おかしーだろ!!」
「いえ、まだ妃ではないのですが。それと、わたくしはリッチです。もう人間ではありません」
「うるせえ! とにかくオレと手合わせしろ! ただでさえ人間ってだけでも気に入らねーのに、力もねえ奴に魔王様の隣なんて立たせられるか!!」
吠えるような怒声に耳を塞ぐ。
「あの、手合わせはしますので、もう少し声量を落としてくださいませんか? この距離ですから、そんなに大声を上げなくても聞こえております。あとわたくしはリッチです」
「声がデケェのは元からだ!」
アレクシア様を見るとまた頷かれた。
「あれがいつも通りじゃ」
「そうなのですね」
ロドルフ様も声が大きかったけれど、弟の方がもっと大声なのだと頭の片隅に記しておく。
アレクシア様の案内で訓練場へ向かうことにした。
訓練場は魔王城の外にあり、一階まで降りるだけでも結構時間がかかった。
これをまた上がっていくのは大変そうだなと思いつつ、魔王城の外へ出る。
魔王城の周りは人間の城と同じく色々あるが、違いがあるとすれば、近くに村や街はない。
鬱蒼と生い茂った森の中にこの城はあった。
訓練場は地面が踏みしめられた土の場所だった。
他の魔族達がそこで剣や体術を鍛えていたけれど、わたし達が来ると視線が一気にこちらへ集中した。
……こういう時こそ臆してはダメよ。
背筋を伸ばして優雅に、堂々とするべきだ。
フン、とロドルフ様の弟が鼻を鳴らした。
「お前ら退け! 今からオレとこの人間が手合わせする! 邪魔だ!!」
ロドルフ様の弟の言葉に訓練場から魔族が引いていき、場所が空けられる。
「ですから、わたくしはリッチで……」
「おい、お前は向こうに行け! アレクシア、お前は見届け人だ!!」
わたくしの言葉は一切聞く気がないらしい。
「アレクシア『様』と呼べと言っておろう。おぬしは幹部ではない。……まあ、良かろうて。妾が見届けよう。魔王妃様よ、良いか?」
「ええ、アレクシア様でしたら公正な審判となってくださるでしょう」
「ほほ、もちろん、このような場でどちらか一方に加担することはないのじゃ」
アレクシア様がジロリとロドルフ様の弟をひと睨みした後、ニコリと微笑んだ。
訓練場の真ん中にわたくしとロドルフ様の弟が立つ。
見たところ、ロドルフ様の弟もウェアウルフで、そのがっちりした体つきから体術も得意そうなのが窺える。
正面切ってぶつかるのは得策ではない。
口の中で小さく詠唱を行う。
「それでは、始め!」
アレクシア様が開始の合図をする。
ほぼ同時にロドルフ様の弟が、跳躍するようにわたくしめがけて駆け出してくる。
「ゥォオオオッ!!」
ほんの一瞬で目の前まで来た。速い。
その金の瞳に侮蔑の色が宿るのを見た。
……もうそれは飽きましたわ。
王太子も、公爵家も、民衆も、皆、同じ目でわたくしを見て、わたくしを蔑んだ。
だからこそ今、わたくしは笑えるの。
「『炎よ、穿て』」
ロドルフ様の弟、その目の前で炎の球が現れる。
「なっ?!」
驚きながらも振りかけた腕をロドルフ様の弟が引き戻し、守りの体勢を取る。
……大丈夫、殺さないわ。
ブワッと炎がロドルフ様の弟へ直撃する。
しかし、毛皮が優れているのか炎はすぐに消えた。
「悪いな、ウェアウルフの毛皮は頑丈だぜ!」
微かに焦げる匂いがするが、確かにそれほど燃えている様子はない。
ああ、と溜め息が漏れる。
今、目の前にいるのがロドルフ様の弟ではなく、イングリス王国の人間だったら良かった。
そうしたら、思う存分やれたのに。
エヴァルト様はおっしゃった。
魔王は魔族が多ければ強く、少なければ、その分弱くなると。
それならロドルフ様の弟は殺せない。
……こんなにも体の内から魔力が湧き上がってくるのに……。
「そう、それは良かった。わたくしも、今の自分の力がどれほどなのか知りたいと思っておりましたの」
他者を傷付けてはいけないだとか、殺してはいけないだとか、そういう常識なんてどうでも良くなっていた。
だってわたくしは魔族のレイチェル。
もう人間の法には縛られない。
* * * * *
「ほう、面白いことが始まったな」
エヴァルトはふと顔を上げて笑った。
それにドラゴンのヴィルヘルムが訊き返す。
「何がですか?」
「我が運命がロドルフの弟とやらに手合わせを申し込まれ、受けたようだ」
「な、」
エヴァルトの言葉にロドルフが慌ててその場に膝をつき、己の主君たる魔王へ頭を下げた。
「申し訳ございません、魔王様! 俺の弟は、俺に似てあまり頭が良くなくて……ですが、魔王様への忠誠心だけは本物です! どうか命だけは──……」
魔王が選んだ妃。それは絶対だ。
ロドルフが内心は気に食わないと思っていても、魔王である主君が選んだ者ならば受け入れる。
弟を含めた同族にもそれは言い含めてあった。
魔王様の決定は魔族の総意。
それに異を唱えることなど許されない、と。
だがエヴァルトは、くく、と笑う。
「それは我が運命に言うが良い」
「まさか、もう手合わせを始めて……」
「ああ、せっかくだ、見ていようではないか」
パチリとエヴァルトが指を鳴らせば、皆が集まっているテーブルの上に半透明の絵が映し出される。
そこは訓練場だろう場所だった。
アレクシアがそばにいる。
そうして訓練場の真ん中ではロドルフの弟、ウィルドが魔王妃レイチェルと対峙している。
レイチェルはリッチだ。
リッチは死霊術が得意だが、元は神官などの魔法に長けた者が多く、そしてレイチェルもまた、魔法に秀でていた。
炎、水、風、土、様々な魔法がレイチェルから飛び出していく。
いくらウェアウルフの毛皮が頑丈と言っても、全ての魔法を跳ね返せるわけではないし、何のダメージも負わないわけではない。
じわじわとレイチェルはウィルドの体力を削っていく。
そもそも、レイチェルに喧嘩を売ること自体が間違いであったのだ。
その魔力を感じれば、自分が敵う相手かどうか魔族ならば本能で理解出来る。
ウィルドもそれは既に分かっているはずだ。
恐らく、分かった上で向かって行った。
他の魔族達がレイチェルにちょっかいをかける前に、自分がまず相手をすることで、ロドルフの弟ウィルドが負ければ、他の魔族達も自分自身も納得するから。
エヴァルトはそれを面白いと感じた。
エヴァルトが眠りについた頃の魔族は実力至上主義で、強い者に弱い者が歯向かうなどなかった。
しかしこの八百年のうちに魔族にも変化があったようだ。
「我が運命は戦う姿も美しいな」
レイチェルはウィルドと相対しながらも笑っていた。
魔力が潤沢だからか、様々な魔法を放っている。
その横顔は酷く楽しげだった。
ウィルドはレイチェルの生み出す魔法によって、レイチェルに近付くことも出来ない。
「だが、どうやらレイチェルはかなり手加減をしているようだ。得意な属性魔法は一切使っていない」
「闇属性でしたか」
「ああ、闇属性で喰らってしまえば一瞬だろうに、レイチェルは慈悲深い」
エヴァルトとヴィルヘルムの言葉に、ロドルフはハッとして絵を眺めた。
確かに魔王妃は己の得意な闇属性魔法を使っていない。
使わずとも、勝てるということか。
ウィルドの体に少しずつ傷が増えていく。
「元より今のレイチェルに敵う者など、魔族の中でもそうはいない。人間ならば尚更だ」
ロドルフは絵を見ながら、ただ弟の無事を願うしかなかった。
ただ、もし魔王妃がウィルドを許したとしても、主君が許すかどうかは別である。
「まあ良い。ロドルフ、お前の弟については我が運命に委ねよう。生きるも死ぬも、レイチェル次第よ」
「……かしこまりました」
エヴァルトのさざめくような笑い声にロドルフは静かに頷いたのだった。
* * * * *




