わたくしの答え
「それで魔王妃様よ、決心はついたかのう?」
ごくりと紅茶を飲み下してしまう。
顔を上げれば、向かいの席でアレクシア様がニコニコと笑みを浮かべている。
わたくしはもう一口紅茶を飲んでから、訊き返した。
「決心、ですか」
「そうじゃ。魔王様の妃になるにせよ、ならないにせよ、どうするかという決心じゃ」
言い直されて、わたくしは考えてしまった。
数日前の夜、エヴァルト様の部屋に行き、わたくしの秘密を打ち明けた。
異世界で生きていた前世があるということ。
そこで、この世界が物語として描かれていたこと。
聖女ユウリは恐らく前世のわたくしと同じ世界の人間で、そしてこの世界についても知っているだろうこと。
物語を知っていたからこそエヴァルト様を復活させられたこと。
きっと頭がおかしいと思われるだろう。
そう考えていたのに、エヴァルト様はわたくしの言葉を否定せずに聞いてくれた。
それどころかわたくしの前世を肯定して、それも含めて受け入れようとしてくれた。
……正直に言うと嫌なところが見つからないの。
エヴァルト様は優しくて、寛大で、それでいていつもわたくしへ愛情を示してくれる。
イングリス王国の王太子の婚約者として過ごしていた頃とは大違いだった。
ここではわたくしを蔑む者はいない。
むしろウィルド様と戦って以降はわたくしも魔族の一員として、仲間として見てくれているようだ。
人間だった頃よりも魔族になってからの方が自由で、幸せに暮らせるなんて皮肉なことだ。
「……わたくしは、ここにいて良いのでしょうか」
……幸せだからこそ、怖くなる。
いつかこの幸せを失うのではないか。
そう思うと怖いと感じてしまうのは、ここに、わたくしの居場所があると知ってしまったからか。
アレクシア様が、ほほほ、と笑う。
「良いに決まっておる。そうでなければ魔王様も妾達も、魔王妃様にこのように声をかけたりはせぬ」
アレクシア様にジッと見つめられた。
「逆に訊くが、魔王妃様は妾達魔族のことは嫌いかのう?」
「いいえ、全く。むしろ魔族の方々は人間よりもずっと仲間思いで、同族意識が強くて、わたくしは好ましいと考えています」
「そうか、そうか」
わたくしの言葉にアレクシア様が嬉しそうに頷く。
魔族は実力主義でありながらも、同族意識が強く、力ある者は戦いでは弱い者の前に立って守るのだ。
人間のように力ある者は安全な場所で指揮だけをして、ということがほぼない。
そのようなところも好ましく感じていた。
「では魔王様のことはどうじゃ?」
訊かれて、一瞬言葉に詰まる。
「……優しい方だと思います」
「うむ、魔王様は魔族には寛大じゃ。そして、魔王妃様にはもっと寛容なようじゃな。それに魔王様は見目も良い。悪くはないと思うがの」
エヴァルト様に不満なんてない。
わたくしのことで不満に思われることはあっても、わたくしがエヴァルト様に対して悪く感じることなどないだろう。
だからこそ怖いのだ。
……捨てられるのはもう嫌だから……。
思わず黙ったわたくしにアレクシア様が言う。
「では、もし妾が魔王妃になったらどうじゃ?」
わたくしは「え?」と驚いた。
「妾は魔王様とは旧知の仲でな、昔から、それこそ封じられる前から親しい間柄でのう。魔族の頂点は魔王様じゃが、その魔王様を支える存在があっても良いという話が出たこともあってなあ」
それに衝撃を受けた。
……アレクシア様が魔王妃に……。
でも、そうなったらお似合いなのかもしれない。
エヴァルト様もアレクシア様も美しく、それにアレクシア様は吸血鬼の始祖の一人でとても強いらしい。
アレクシア様がエヴァルト様の隣に並んだ方が、わたくしよりもずっと釣り合う気がする。
……そう感じるのに、嫌だと思ってしまう。
俯きかけたわたくしにアレクシア様が困ったような顔をした。
「あくまでそのような話が出たというだけじゃ。妾も魔王様も、互いを友人とは思うておるが、夫婦になる気は全くない」
「そうなのですか?」
「うむ。そもそも妾は自由恋愛主義である。誰か一人とだけ夫婦になって、その者だけを愛するというのは向いておらんのじゃ」
それにホッとした。
同時に、アレクシア様が愉快そうに目を細める。
「今、安堵したな?」
ビク、と肩が跳ねた。
それにアレクシア様が声を上げて笑った。
「魔王妃様は可愛らしい方よのう」
どうやらからかわれたらしい。
「アレクシア様、からかわないでください……!」
やや責めた声が出てしまったのは仕方がないだろう。
アレクシア様がまた、ほほほ、と笑った。
「そう怒らないでほしいのじゃ。魔王妃様よ、妾の話を聞いて落ち込んだり、嫌だと思ったなら、それはそういうことではないのかえ?」
「それは……」
「魔族も魔王様も嫌いではないなら、何が問題なのじゃ?」
ほれ言うてみよ、と促されてわたくしは素直に今のわたくしの気持ちを口にした。
「その、もしもまた捨てられたらと思うと怖いのです。人間にも、魔族にも捨てられたら、わたくしはもうどこにも行く当てがなくなってしまいますから」
それにアレクシア様が目を丸くする。
何故か、酷くおかしそうに笑われた。
「なるほど、そういうことであったか」
そうしてアレクシア様が言う。
「それに関しては妾がどうこう言うべきではなさそうじゃのう。魔王様に直接訊いてみるが良かろう」
「エヴァルト様に……」
「そうじゃ。ここで妾が『魔王様は心変わりなどせん』と言ったところで、魔王妃様の心は軽くならん」
はあ、と思わず息が漏れる。
アレクシア様は外見はわたくしよりも歳下に見えるけれど、実年齢はわたくしよりもずっと上だ。
それを改めて実感させられた。
同時に、確かにわたくしがこうして悩んでいるよりもエヴァルト様に直接訊くべきなのかもしれない。
少なくともただ悩むだけでは答えは出ない。
「そう、ですね……。エヴァルト様に訊いてみます」
数日前も保留にしてしまった。
エヴァルト様は怒らなくて、でも、わたくしはそれが心苦しくて、余計に悩んでいて。
だけど、信じたいと思うわたくしもいる。
「そうか、では訊いて参れ」
「え、今からですか?」
「こういうことはそうと決めた時にするのが良いのじゃ。後にすると尻込みするからのう」
アレクシア様が行けと言うように手をひらひらと振るので、わたくしは頷き、席を立つ。
確かにその通りだった。
* * * * *
そうしてエヴァルト様の部屋の前まで来た。
使用人の魔族はわたくしを見るとすぐに扉を開けて、中へ通してくれる。
エヴァルト様は「いつでも歓迎しよう」と言った。
それは本当だったらしい。
中へ入るとエヴァルト様はソファーに座っており、どうやら読書中だったようだ。
けれども、わたくしを見ると本を閉じた。
「今日は日が高いうちに来たな」
数日前のことを思い出して、少し顔が赤くなる。
夜中に男性の部屋に、夜着のまま行くだなんて、後から考えたらとても恥ずかしかった。
手招きされて、エヴァルト様の斜め前のソファーへ腰掛ける。
「それで、今日はどんな話を?」
ギュッと手を握る。
訊くのは怖いけれど、訊かなければ……。
「エヴァルト様にお訊きしたいことがあって……」
「何でも訊いて構わない」
わたくしが躊躇っている間、エヴァルト様は急かすこともなく、静かに待ってくれる。
これだけでも人間だった時とは違うと感じた。
王太子はわたくしが躊躇ったり、戸惑ったりすると、いつも面倒臭そうな、嫌そうな顔をした。
それでわたくしが何も言えなくなると決まって不機嫌になり、そのせいで更にわたくしは自分の意見や気持ちが言えなくなり、悪循環になってしまっていた。
……あの頃のわたくしは弱かった。
嫌われたくなくて、自分の評価を落としたくなくて、とにかく周囲の人間の顔色を窺って生きてきた。
多分、王太子はそういったわたくしの態度を見て、苛立っていたのかもしれない。
……そうよ、レイチェル。
もうあの頃みたいに我慢するのはやめようって決めたのはわたくし自身だ。
顔を上げてエヴァルト様を見る。
「わたくしは魔族に不満はありません」
エヴァルト様が頷いた。
「エヴァルト様にも不満はございません」
「そうか」
エヴァルト様が少しだけ嬉しそうに微笑んだ。
わたくしのこんな言葉で喜んでくれる人がいる。
「以前にも話しましたが、わたくしはイングリス王国の王太子の婚約者でした。そして捨てられました」
寂しさや悲しさなんてものはない。
ただ、あるのは怒りと憎しみ。屈辱感。
捨てられるだけならきっと我慢出来ただろう。
つらいと思っても、笑顔で王太子と聖女の仲を応援し、もしかしたら原作通りになっていたかもしれない。
しかし現実は違った。
聖女ユウリはわたくしを国の害になると糾弾し、誰もが、元婚約者だった王太子や家族であるはずの公爵家までもがわたくしの死を望んだ。
守るべき者達だと思っていた民も、わたくしの死を望み、わたくしは処刑された。
わたくし自身は何もしていなかったのに。
まるで存在自体が悪だと言うように。
本来ならば貴族はきちんと裁判にかけられ、厳正な法の裁きを受けた上で刑に処される。
だが、わたくしは『聖女の言葉』と『憶測』だけで作り上げられた嘘の罪によって刑は執行された。
「誰かを信じることが怖いのです」
エヴァルト様が「そうだろうな」と返事をする。
「家族と婚約者に裏切られ、ありもしない罪で処刑されたのだ。他者を信用出来ないのは当然だろう」
だが、とエヴァルト様が少し眉を寄せた。
「私はあなたを裏切るつもりはない。その家族や婚約者とは違う。……と、言っても信用するのは難しいか」
そう言って、エヴァルト様が手を少し上げた。
魔力が流れてふわりと魔法式が現れる。
「これは契約魔法だ。重要な約束を交わす時に使われる」
「契約魔法……」
「ああ、契約魔法で約束を交わした場合、その約束を破ると罰を受ける」
確かに似たような魔法が人間にもあった。
それは神殿を通して行うものだったが。
「もし私があなたを裏切るようなことをした場合、復活の際に受けた魔力を全て返し、あなたに魔王の座を譲るというのはどうだ」
エヴァルト様の言葉にギョッとする。
「わ、わたくしは魔王の座はいりません……!」
「そうか? もし私があなたを裏切れば、あなたは魔王となり、自由に魔族を動かすことが出来る。まあ、そう心配せずとも私はあなたを裏切るようなことはない」
エヴァルト様がおかしそうに低く笑う。
「あなたが妃となるならば、この契約を交わし、あなただけを愛すると誓おう」
……信じたい。
まだ出会って二ヶ月しか経っていないけれど、この二ヶ月、わたくしは毎日エヴァルト様と顔を合わせ、話をしてきた。
もしかしたら王太子よりもずっと沢山会話をしたかもしれない。
家族よりも、王太子よりも、エヴァルト様は信用出来ると思う。
だってこの人はわたくしをきちんと見てくれる。
公爵家や王太子と違うことはよく分かった。
「エヴァルト様、わたくし、わがままなんです。結婚した方にはわたくしだけを見てほしくて、愛してほしくて、きちんと話し合える仲になりたいのです」
「それはわがままではない。当たり前のことだ」
エヴァルト様がわたくしの手を取り、優しく握る。
「だが、それがわがままだと言うのなら、あなたはもっとわがままになるべきだ」
真紅の瞳に見つめられる。
「魔族は正直な者が多い。あなたが自分の気持ちに正直になるのは何もおかしなことではないし、むしろ、魔族らしくて良いだろう」
「確かに魔族の方々は正直者が多いですね」
「そうだ、そして私はそんな魔族の中の王だ」
片手に契約魔法を展開させてエヴァルト様が言う。
「私の運命、レイチェルよ、私はあなただけを愛し、あなたを裏切ることはなく、あなたの意思を尊重すると誓おう。長い時を私と共に生きてはくれないだろうか?」
……エヴァルト様と生きる……。
不思議と嫌な気分は全くなかった。
それどころか、きっと、妃になればこれからもエヴァルト様や幹部の方々と楽しく過ごせるだろうと簡単に予想がついた。
そのくらい、この二ヶ月はわたくしの人生の中で楽しく、自由で、穏やかな日々だった。
そっと契約魔法に手を伸ばす。
「わたくしでもよろしいですか?」
エヴァルト様が首を振る。
「あなただから良いのだ」
契約魔法に魔力を流す。
わたくしとエヴァルト様の魔力が一つの魔法を完成させる。
「わたくしも誓います。エヴァルト様だけを愛し、裏切らず、その意思を尊重します。……エヴァルト様を愛しても、いいですか?」
「ああ、私も、あなたを愛したい」
魔法が完成すると、その魔力がわたくしとエヴァルト様の中に半分ずつ流れ込んできた。
それは不思議な感覚だった。
エヴァルト様にぐいと手を引かれる。
悲鳴を上げる間もなく、エヴァルト様の腕の中に抱き寄せられた。
「ありがとう、レイチェル、私の運命」
額に柔らかく口付けられた。
「愛しい我が妻よ」
その言葉に、死者のはずなのに体温が上がる。
もう一度エヴァルト様はわたくしの額に口付けた。
「どうか、私があなたを愛するように、あなたも私を愛してほしい」
「はい、エヴァルト様」
……今度こそ、信じたい。
エヴァルト様を信じてみよう。
「わたくしはエヴァルト様の妃になります」
* * * * *




