過去編 サン・コロナとジン・コロナ(6)
「公務はつつがなく終わったようですね」
神殿長の執務室、という名目になっている大神殿書庫の片隅だった。
枯れ枝にも似た老人と、筋肉塊にも似た少年が向かい合って座っている。
本を傷めないために小さく作られた窓からの陽が、部屋の埃を静かに輝かせる。老人は蓄えた白髭を穏やかに揺らした。
「あの子は人に助けてもらうことができる。それは、神のどんな加護よりも、大きなことを成し遂げる力になる……そのことを、あの子が分かってくれたらよいのですが」
「まだピンときていなそうですよ」
「そうですか。あの子らしい」
神殿長は微笑んで、ジンに茶菓子を勧める。焼き菓子と呼ばれる砂糖の塊をジンはやんわりと断った。
気分を害したふうもなく神殿長は穏やかにうなずく。
「しかし、今回はずいぶん大変だったようですね。無事に帰ってきてくれて本当に良かった。シスターサマーにも、いつもは裏金の追及ばかり任せていましたから、たまには違う仕事をと思ったのですが……」
「気分転換にはなったと仰っていましたよ」
「それならば救われるというものです」
神殿長は少し申し訳なさそうに、しかし心から安堵したという顔で胸を大きく撫でおろす。
淹れられたお茶を一口含んで口を湿らせる。
ジンはゆっくりと口を開いた。
「神殿長。あなたは本当に、サンを次の神殿長にするおつもりですか」
にわかに真剣さを増したジンの声。
神殿長は揺るぎない柔和さと真剣さで向き合う。
「ふさわしいでしょう。あの子にはそれだけの大器がある。もちろん、彼女が否と言えばそれまでですが」
「言うはずがありません」
サンは決して否やと言わない。投げ出したくても逃げ出したくても、飲み込んで引き受けてしまう。
彼女が遠慮せずいられるのは幼馴染のジンくらいのものだ。
「そもそも、サンが聖人というのは本当なのですか?」
「……どういう意味ですか?」
「とぼけないでください。あなたほどのひとが気づかないはずはない」
ジンは歯がゆそうに己の手に視線を落とした。
サンの在り方を、ジンはとっくに見抜いている。
無為に終わるはずの優しさが、奇跡によって実現を果たしている。
だから、奇跡は優しさに使いつくさねばならない。
(『みんなの助けになれるなら、私のことはそれでいいから』って。そんなもの俺に言わせりゃ優しさじゃない)
悔しさにジンは歯噛みする。
「サンの献身は、諦めっていうんです」
自分さえ我慢すればいい。
その自己犠牲には意志も喜びもありはしない。ただ魂まで食い込むような諦念のもと、自分という「機能」を赤の他人に差し出すだけだ。
「サンは、あいつは――肉親に捨てられた彼女は、すべてを諦めることで奇跡を授かりました。義母からの返しきれない愛と恩を、返さなければならない借りと取り違えて。だからあんなにも無心で他人に尽くすことができるんです」
兄として。シスターコロナの息子として。その誤りを見過ごしたくはなかった。ジンはまだ何一つとして諦めていない。
「俺はサンに、なにも諦めてほしくない」
ジンは静かに拳を握る。
だからジンの戦いは今も続いている。サンが自分の望みを見つけて、それを己の目で見届けるまで。
加護を得られない身でも可能な準備――つまりはさらなる筋トレだ。
「問題は」
ジンは顔をあげる。
サンの心根についての告発に、神殿長は動じた様子はない。巌のような静けさでジンの試みを受け止めている。
「そんな覚悟でいるサンが受けている加護の大きさです。信仰心で得られるものじゃない。あれは紛れもなく聖人の力です」
信徒の得られる加護の強さは、おおむね信仰の篤さに準じている。
だが聖人と呼ばれるものの受ける加護の強さは、信徒の比ではない。しかし聖人のすべてが敬虔な信仰心の持ち主とは限らないのが真実だ。極端な例では教義を蔑ろにした破戒僧のような聖人もいるという。
聖人は信仰心に依って加護を賜るわけではない。
聖人そのひとの精神性が神に近しいから、神にも等しい力を持つに至る。
だとしたら――。
「すべてを諦めているサンが真に聖人なのだとしたら。近しい精神性を持つ太陽神は。太陽の恵みを司る神の心根にあるものは……」
「ジン」
神殿長は穏やかに笑っていた。
底抜けに優しく静謐な瞳はジンを見つめている。
「……あなたは信仰に向いていないようですね」
ジンは息を呑む。
神殿長には責めるようすはなく、あくまでも穏やかに、寂しそうに微笑んでジンを見守っている。
「我々は太陽神の恵みを受け取らずに生きていくことはできません。天からもたらされる恵みを拒絶する意味もない。であればせめて、心からの感謝と願いを込めて祈ることが最善です。違いますか?」
「神殿長、ここで宗教観を争うつもりはありません。俺が大事なのはサンだけです」
言下に切り捨てるジンの切れ味に、神殿長は嬉しそうに微笑む。
ジンは机に手を乗せて前のめりに訴えた。
「サンの存在は、太陽神の薄暗いささやかな復讐なのではないですか」
神殿長の穏やかな笑みが、止まった。
「……なぜ、復讐などと?」
「俺には生贄にしか見えないんです。我々の享受するぬくもりが、誰の犠牲によって与えられているのかを殊更に示してみせるための。救われない願いをわざわざ叶えて、無為に長引かせて、無残に削り尽くされるさまを見せるための」
サンは求められる願いに丁寧に応じる。返されることもないままに。
優しさを搾取されている。
太陽なくして生きられないから、という理由で輝き続けることを求めるような理不尽さ。
神ならぬ少女の身にはとても耐えきれないような、無尽の献身を求められている。
神殿長はゆるやかにかぶりを振った。
「神の御心など、我々にはわからない。太陽神はお言葉を授けてはくださりません」
「それも我々の願いではないですか。大陸全土に広がる太陽信仰は教義に差異があります。捧げた祈りが間違っているなど、誰も言われたくはありません。矛盾を解決するためには、正解をなくすことが一番早い」
太陽信仰は統一的な教義や経典がない。宗派は分化され、最悪の場合には一方にとっての信仰が、他方にとって耐えがたい涜神に見えることだって考えられる。
ジンは神殿長を睨みすえた。
「それでも、サンを太陽神の聖人と呼ぶおつもりですか」
「もちろんです」
ジンは拳を握って、
振り上げることをかろうじて抑えた。渾身の力で固く握りしめる。
もし。
もしも、神殿長が、サンを前にして。
太陽神に呪われた哀れな子だ、と告げたなら。
その瞬間こそサンにとっての地獄だろう。
向けられてきた愛も優しさも慈しみも、捧げた祈りも献身も、空よりもたらされる日差しのぬくもりでさえも。
サンを見下す呪縛になる。
「ジン。きみは少々うがち過ぎです。もう少し素直に太陽神の慈悲深さを信じてみてはいかがですか」
神殿長の言葉は思いやりに満ちている。
そうだろうとも、とジンは心中で叫びをあげた。
サンは太陽神に愛された申し子で、太陽神はあまねく世界の人々を愛していて、サンはその優しさを地上に再演する伝道師。
そうであれば救われた。
その世界がもっとも優しくて、温かい。
「でも――でも!」
ジンは頭を抱えてうなる。
だとしても、サンが優しいのは──自分を諦めているからなのだ。
「俺は、サンになにも諦めてほしくない……!」
「それは」
神殿長の声に、ジンは目を開く。指の隙間から温和な老父の顔を見る。
彼は優しさが音になったような声音で言った。
「それは、ジン個人のわがままでしょう?」
ジンは息を忘れて固まった。
あらゆる希望を己から切り捨てて、まるで恵みを与える機械のように。
それあることが彼女の望みであったなら。
「俺は……」
「ジン」
唇を震わせるジンに、神殿長はおもむろに切り出す。
「ジン。もしあなたが本気でサンを助けたいと願うなら──騎士団長になりなさい」
「は……?」
「あなたのような人物こそ神殿騎士に相応しい。わたしはあなたが騎士団長を目指すなら後押しします」
「な……なぜです? 俺は、今……太陽神を批判したのに」
「そのほうがバランスが取れるというものでしょう」
ジンの困惑を見透かして、老父は笑みを浮かべている。ジンよりも遥かに広大なる視座からの言だった。まるで天から見晴らす日輪のように。
ジンは絶句した。予感がした。
きっと神殿長の計らう通りになると。
サンはいずれ神殿長になる。その流れは止められるような表層のものではない。様々な力や思惑が働いて、必ずそうなる。
そしてジンは、もう彼女の右腕として助けになることはできなくなる。神殿騎士団の団長にでもならない限りは。
話を終えた神殿長が、ジンを置いて退室する。
老爺の背中は曲がっていて、干物のように小さく縮んでいる。だがジンごときでは太刀打ちできないほどの存在感に充ちていた。
小さな窓辺に、サンの繰り出した閃光が奔る。また、子どもの信者に頼まれて断れなかったのだろう。
変わりないサンの在り方に、ジンの瞳はますます悩みを深める。
そして。
数ヶ月後、神殿長はこの世の務めを終えて永い眠りについた。
時代が進もうとしていた。
否応もなく。
第一部&オマケ完了です。
第二部、榊と環によるカラマンダ編へ移ります。
宗教の創立を果たした環と榊は、神も救いもあったもんじゃない世紀末荒野に直面します。
それではまた、次回更新時にお会いしましょう。
ありがとうございました!




