過去編 サン・コロナとジン・コロナ(5)
「神に……見放された……?」
「なんだって!?」
ジンが押さえ込む魔獣が暴れ始めた。がちんとジンの鼻先をかすめるように牙が噛みあう。生ぬるい吐息に歯を食いしばり、ジンは大きな手で剣を握りなおした。押し切るように、顎の根を裂いて魔獣の頭を斬る。潰していく。勝ち割った。
脳天を失った魔獣の体が煙に爆発して散った。
「っ、はぁッ! はぁッ! サン!」
ジンに呼ばれたサンは身を引く。まるで無力な少女が大柄な男に怯えるように。
傷ついたように顔をゆがめたジンは、深呼吸した。感情を押し殺す。
「サン。落ち着け。状況を整理して確認したい。加護が使えなくなったんだな?」
「……ぁ、その、……はい」
「なにひとつ使えないのか?」
サンは震える息を呑んで、恐る恐る右手を広げた。
蛍のような光が浮いた。日光のような優しい輝き。太陽神の加護に疑いない。
「……まったく使えないわけではないようです」
「なるほどな」
応じながらもジンは草むらに剣を向ける。今、魔獣に襲われたらひとたまりもない。
大きな背中を見上げてサンは眉をぎゅっと寄せる。突然あふれそうになった涙をこらえる。
「私、私も……なにか……!」
「あぶないから下がってろ」
反論の余地もない。サンは膝から下が消えたような心地で後じさりする。
そんなサンの背に、手が添えられる。
「……シスター・サマー……」
サマーは強張った顔を微笑ませて、サンに耳打ちする。
「ツー、トン、トン、ツーのリズムで光を灯してください」
サンはサマーを見上げる。サマーは温かい手で支えた。
「なにがあったか分かりませんが、大きな加護は扱えなくなったのですよね。でも、光を放つことはできる。それなら助けを呼ぶのが最善でしょう」
私は加護を賜れませんから、とサマーは寂しげに笑う。
「光信号で助けを求める合図です。警備兵が見つければ救援を出してくれるはずです。赤い狼煙をあげることもあるのですが、暗いと見えづらいですからね」
教会は災害時の避難所も兼ねている。市民の緊急指導は神官が請け負うことだ。
サンは助けを求める側ではなく、求められる側だ。だから思いつきもしなかったし、知らなかった。ジンを恨めしげに見る。
「そんな合図があるなら教えてくれればよかったのに」
「俺だって思いつかなかったよ。目の前のことで精いっぱいだ」
サンの視線に応じてサマーはうなずく。
「もっと早く教えるべきでした。聖都を頼りましょう」
サンは手を掲げ、信号を市壁に向けた。朝日も弱い薄明の空に、心もとない光線走る。
(なんて弱い光――)
サンは絶望しそうな心を支えて、手を掲げなければならなかった。
(警備兵が見ているかどうか、本当に光が見えているのかも分からない。見ていたとして、助けがいつ到着するか……聖人ならみんなを助けなきゃいけないのに)
光が細く弱くなる。
サンは懸命に腕を高く伸ばして、少しでも見やすいようにと励む。
光は陰に紛れるように弱く、明滅さえも制御しきれない。
張り裂けそうな失望に、サンの目にも涙がにじむ。
「サン」
もどかしげに見守っていたジンが、サンの体に腕を回した。
抱き寄せる。
大きな熱に全身を包まれたサンは、目を白黒させた。そして状況に気づいて悲鳴を上げた。
「な、なにしてるんですか!?」
ジンは武骨な筋肉に似合わない優しさでサンの背中を引き寄せる。サンの耳元にささやいた。
「逃げてしまおうか」
サンの呼吸が止まった。
「二人だけなら切り抜けられる。このまま全滅するなら、同じことだ。いや、もしかしたら魔獣は俺たちを追ってくるかもしれない。魔獣を子どもたちから引き離して、みんなで逃げおおせられるかもしれない」
「なにを……」
サンの喉は震えた。
「なにを、言っているのですか……? そんなの、希望的観測ですら」
ジンは彼以外の何物も感じさせることを許さないまま、静かに耳打ちする。
「お前に聖人なんて向いてないと思っていたんだ。ずっと。お前は優しいから。誰もの期待に応えようと頑張ってしまうから。そんなお前の味方であるべき太陽神すら、お前を助けないっていうのなら、……もうお前を放っておけない」
サンの口から吐息が漏れた。
言葉にならないままサンの腕から力が抜ける。
優しさでサンを埋め尽くしながら、ジンは言う。
「お前につらい思いをさせるくらいなら、俺はお前をさらっていく」
神殿を捨てる。
夢にも思わなかった選択が、にわかに目の前に立ち現れた。誰よりも信頼できる人の姿を取って。
「太陽神殿はいいところだと思っているが、だからって信じられるわけじゃない。俺が信じているのは太陽神じゃない。お前なんだ。お前だけだ。だから俺は太陽神の加護が得られない」
「なにを……言っているんですか。子どもたちを見捨てるつもりですか?」
「お前には代えられない」
息が詰まる。サンは喘ぐように細く息を吸った。
溢れるほどの優しさで窒息してしまいそう。
「どうして、そこまで」
「おかしいか?」
「当たり前です。そんなの、ジンらしくない……」
「俺はかなり自分に正直に生きているぞ。だからお前のそばにいる」
声が出ない。ジンの選択を否定する意思も権利も、サンにはない。
「――でも」
気配。
ジンを突き飛ばして、太い腕を振りほどいて離れた。振り返る。
魔獣が草むらから躍り出てきた。子どもを見ている。愉悦に口の端をゆがませて、牙を剥いて爪を振り上げて、小さな命を引き裂こうと猛っている。
「サン!」
伸ばされたジンの手を、避ける。
地面を蹴って飛び込む。子どもたちの前に。
魔獣が振り上げる爪の前に。
――でも。
魔獣と子どもの間にたどり着いてから、ようやくジンを振り返った。
ジンは大きな手を開いて、悲痛にはらわたを引き裂かれたような顔で、サンの名を呼ぶ口の形のまま。転びそうなほど腕を伸ばしている。
言えなかった気持ちを、サンは心の中で言葉にした。
(でも私は、ジンに寄り添ってほしくない)
だって、聖人だ。
サン=コロナは聖女と呼ばれる人間だ。
たとえ力がなくたって、子どもを守るために立ち向かう。最後までそういう存在であり続けたい。
(シスターコロナに見いだされ、神殿ぐるみで私に目をかけてくれて、多くの人が私に望んでくれている。それを無碍にできるほど私の心は強くない)
聖人だから、は話が逆だ。
(私は私の意志で誰かのために、聖人たちと同じように戦って――たとえ、その果てに身をすり潰してしまったとしても)
そういう自分を貫きたい。
(ああ、そうか――)
サンは気づいた。
サンが太陽神の聖人となったのは、なにかが特別だったからじゃない。
運命とか天命とか、生まれつきの奇跡でもない。
ましてや、サンが「聖人の役目」を果たしおおせるから、などではあり得ない。
(ただ、私のこの気持ちを、神様が救ってくれたからだ)
胸に温かい炎が宿る。
まるで陽だまりのように温かく、太陽のように熱く滾る、まばゆいばかりの強い意志。
眼前に迫る爪。
眼球に風すら感じる刹那、サンの口は開いていた。
「加護を」
それは現実を侵す。
魔獣の爪が溶け消えた。
サンの胸元から、腕から、髪先から、うねりをあげて焔が吹き荒れる。
差し伸べた炎の手が魔獣の頭を握るとなれば、握られるよりも早く焼き尽くされる。魔獣の体は溶け崩れた。
まるで夜に君臨した太陽のよう。
まばゆく、温かく、鮮烈な光が人の形を成して立つ。
「太陽神よ。私に今ひとたび、子どもたちを守る力を!!」
祈る。
誰かのためではなく、己のためでもなく、神殿のためなどではありえない。
ただ、
あるべき未来をこの場に引きずり出すために。
あってはならない未来を、この場から蹴り飛ばすために。
サンは太陽神に祈りを捧げる。
仲間を二匹も殺された魔獣たちが、怒りに唸り殺意を吼えて、四方から一斉に飛び掛かる。
夜の闇そのもののような影の奔走を、
「――プロミネンス」
太陽は、ただ吐息のひと吹きで、塵すら残さず消し飛ばした。
無為に終わるはずの献身が、神の加護によって実現を果たす。
それこそが奇跡。
それこそが聖人。
サン・コロナの真実だ。
サンはゆっくりと息を吐く。
全身に絡みついていた太陽神の文様が引いていく。輝きは収まり、サンは少女の姿に戻っていった。
唖然とする子どもたちを振り返る。
「みんな、怪我はありませんか?」
沈黙が返される。
驚きと怯えが、子どもたちの顔に残っている。
その畏怖を丹念にぬぐい取るように、サンは温かく微笑んだ。
「もう大丈夫です。私が守りますから」
朝日が差した。
山の影から払暁が差す。払われていく夜の気配に、ようやく子どもたちは救われたことを理解して。
わあ、と決壊したように泣き叫んだ。
サンに殺到する。囲まれ、抱き着かれて、サンはもみくちゃにされていく。
いつも通りのその光景を、ジンは立ち尽くして見つめていた。




