過去編 サン・コロナとジン・コロナ
鐘楼が等間隔で鐘を打ち、朝の到来を告げる。
鐘の音が染みる閉め切られた部屋で、天蓋つきのベッドに少女が眠っている。
掛け布団もかけず、寝間着のネグリジェはへそまでめくれて形のいいお腹が見えている。安らかを具現したように眠りに蕩けた寝顔は、年齢を一回り幼くみせるほどあどけない。
静謐と幸福に満たされた、家具まで慈しむような静かな寝室。
「サン。サン! 朝だぞ、起きろ! 掃除の時間までに着替えられないぞ!」
生活の喧騒そのもののようなノックが打ちつけられた。
「う、うにゅん……」
まゆをひそめた少女は寝返りを打つ。日差しに輝く埃が穏やかに降り落ちた。
どかどかと扉を打っていたノックは、ドアノブをひねる。
「開けるぞ。サン、起きろ! 朝だぞ!」
遠慮のない力でドアを開けた。ベッドでむずがる少女のまゆがさらに寄る。
「うるさぃ……」
「おう。すまん」
ぱくんと口を閉ざして、少年は足を止める。
彼は大きかった。身長はもちろんのこと、肩が、さらに首が。胸板が。腕回りが。全身に筋肉の鎧を着こんだかのように大きい。執拗に鍛えられていた。
静かに待った彼は、少女に起きる気配がないことを見て口を開く。
「起きろ、サン」
「……さっき眠ったばかりですよぉ……」
「お前は寝ていても時間を数えられるのか? しっかり一晩経っているぞ」
ベッドに歩み寄った少年――ジンは、眠るサンを見下ろす。
「起きろ」
「うぅ。はい」
サンはしぶしぶ身を起こした。
ふわりと跳ねる髪は日差しを抱きしめたような金糸色。ぼんやりと開ききらない瞳は晴れ空のような青色で、柔らかな肌は陽だまりのように透き通っている。
「おはようございます、ジン」
「お早う、サン」
ゆるゆると締まらない挨拶を交わして、二人は笑いあった。
§
白いローブに着替えたサンが宿舎の階段を下りていく。
宿舎の庭先で日課の掃除を既に始めていた神殿の徒弟たちは、サンの姿を見るなり姿勢を正した。
「おはようございます、聖女様。お寝坊ですか?」
「うぅ。あまり言わないでください。朝は苦手なんです」
気恥ずかしそうに口許を隠すサンは、挨拶もそこそこに急ぎ足で神殿へ向かう。
次に道で行き会った神官が両手を合わせてお辞儀をした。サンは足を止めて丁寧にお辞儀を返す。その後もすれ違う神官が口々に挨拶し、一つひとつ応じているために歩みは遅々として進まない。
やっとの思いでたどり着いたサンは教会を見上げる。
首をめいっぱい空まで上げて、ようやく尖塔のてっぺんが見えた。神殿は巨大な威容を天に轟かせている。
「大神殿……相変わらず大きすぎます」
ふと目を教会正面の壁に向ける。
起こしてすぐ先に行ったジンは、すでに掃除に合流している。肩筋と背筋を盛り上がらせて大きく腕を動かし、壁を雑巾で拭く。その大きな動きとて、大きすぎる神殿の前では蟻に等しい。
それでも磨くのは、人の歩みで舞い上がった埃を落し、いつでも美しい玄関を保つためだ。
開け放たれた大扉を覗き込んでみれば、災害時に避難所としても機能する巨大な礼拝堂の床一面に徒弟たちが這っている。毎朝こうして掃除に励んでいても、とても終わり切らないのが大神殿だ。日取りを決めて順番に建物全体を掃除して回る決まりになっている。
外壁は手の届く高さより遠くはほとんど諦められていた。天の慈雨が磨いてくれる。
「床も雨が磨いてくれればよろしいのに」
「まあ。いけませんよシスターサン。そのようなことを仰っては」
「し、シスターサマー! ごめんなさい、そういうつもりじゃないんです」
いつの間にかサンの隣に妙齢の女性神官が経っていた。
サマーは夏の森のような明るい緑の瞳をにっこりと笑ませて、大神殿に目を向ける。
「神殿は平穏で満たされていなければなりません。我々は嵐から逃れる信者を、温かく受け入れるためにあるのです。その神殿に雨が吹き込んでいては……困ってしまいますでしょう」
悪戯っぽく笑うサマー。
サンは肩を縮めて恥じ入る。
そんな彼女に、サマーはふと思い出したかのように声をかけた。
「シスターサン、朝の礼拝が終わったら執務室を訪ねてください。大司教から話があるそうです」
「話……? 私にですか?」
サンは首を傾げてサマーを見上げる。
と、そこに。
「聖女様だ!」
朝の礼拝に訪れた幼い子供たちが駆け寄ってきた。
嬉しそうにはしゃぐ子どもたちは、サンを取り囲んでしまう。
「聖女様、ホタルやって!」
「はい、いいですよ」
サンが手のひらを開くと、そこに蛍火のような光の球がふわりと浮いた。
すごーい、と子どもたちは歓声を上げて喜ぶ。
「聖女様、ビームやって!」
「はいはい」
ずびンッ、とサンの指から白光が閃く。細く鋭く天に伸びた。
「聖女様、太陽の手やって!」
「はいはい」
サンの右手が真っ赤に輝く。
「聖女様、スローモーションやって!」
「はいはい」
サンの周囲でフラッシュが焚かれ、閃光に遮られて動きがコマ落としのように見える。
子どもたちのリクエストに応じているうちに、朝の礼拝に訪れる人の数は増えていき、サンの周囲の人垣はだんだん大きくなっていく。
「聖女様!」「聖女様」「聖女様……」
「あの、私そろそろ行かないと……え? オタ芸ダンス? えっと私の話聞いてます?」
いつしかサンは押し寄せるリクエストにもみくちゃにされていた。とても掃除どころではない。
リクエストに律儀に答えて回っているせいで、徒弟たちがとっくに掃除を終えていることに気づくこともできず、サンはいつまでも信者のなかに取り残されている。
人ごみに翻弄されるサンが目を回していると、
「はい終わり! そこまで! 朝の礼拝が始まるぞ。早く礼拝堂に入れ!」
ガンガンガンガンガン、とバケツを打ち鳴らしてジンが群衆に分け入ってくる。
「また出たな筋肉ダルマ! 俺たちの聖女様をいつも強引に連れ去りやがって」
「あいにくだが時間は時間なんでな。落第神官の烙印をつけさせたくなければ、お行儀よくシスターサンを神殿に返せ」
ジンはムキムキした体で苦も無く人混みに押し入って、サンの隣に歩み寄る。
掃除で筋肉を使ったためか、むわっとした熱気が筋肉からほとばしっていた。
「ジン……」
「さあシスターサン。礼拝の時間です、行きましょう」
抱え上げてサンを肩に座らせ、すいすいと人混みを押しのけて出て行った。
筋肉もりもりマッチョマンと肌を合わせたい人は多くなく、若い女性がすれ違いざまに腹筋に触れてきゃあきゃあと黄色い声をあげるほかは、自主的に道が開けられた。
汗のにじむ暑苦しい筋肉の塊を尻にして、サンは顔をしかめた。
「むさくるしいです」
ジンは苦笑した。
近くに人がいないことを確認して囁きかける。
「助けた相手に向かって失礼では? シスターサン」
「ふん」
つんとそっぽを向くサンに、ジンは苦笑を深くする。
怒るはずもない。サンがへそを曲げているのは、ジンが他人行儀でサンを遇したからだ。ジンもそれを承知していて、だからわざと怒って見せている。
「人前で気安く呼び捨てにできるわけないだろ、聖女様」
「べつに私……そんなにすごい人間じゃないんですけどね」
「そう思えることがすごいよ、俺から見れば」
ジンが肩をすくめると、肩に座っているサンの細身はぐわっと持ち上がる。慌ててジンの頭をつかみ、サンは恨みがましい目で見下ろす。ジンは笑って受け流している。
ジンは礼拝堂の壁を見上げた。
ステンドグラスが大神殿の中央に飾られている。太陽の図柄。
「さすがは、信徒をも超えた奇跡の担い手……太陽神の聖人ってところだな」
「もう。だから、きっと何かの間違いですってば」
そう不貞腐れるサンの姿は、しかし誰の目にも隔絶して映る。
降り注ぐ朝日が彼女の金髪に散らされて、後光のように輝きをまとう。白いローブにすら日差しは離れがたく付き添うように、サンは光輝いて見える。
光に愛されているかのように。
信仰を越えて、神に限りなく近い精神性を持つ信徒の中の信徒。神の祝福を一身に受ける神意の代行者。
聖人。
大陸全土にあまねく信仰される太陽神の力をその身に宿す、事実上の世界の頂点に君臨する神威の使い手が、筋肉の肩に座っている。
この頃のサンはまだ神殿長を担っておらず、聖女であることを受け入れてられていなかった。
§
「公務……ですか?」
執務室とは名ばかりの、書庫の片隅に設けられた区画。そのまた片隅の応接用のソファでサンは首を傾げる。
日も高く上った朝の盛りの喧騒も、静かに管理された書庫までは届かない。活発な朝の空気だけが時間を伝える石の部屋で、滝のようなひげを蓄える老父と相対している。
神殿長は震える首をうなずかせた。
「シスターサン。いずれ神殿長を受け継ぐあなたです。慣らす意味でも始めてみては、と思うのです。いかがでしょう」
物腰柔らかに頼まれて、サンは顔を曇らせた。
助けを求めるように視線をさまよわせても、周囲にいつもの大柄はいない。
サンの視線はテーブルを撫でる。
積み上げられた決算書類や嘆願書が山を成している。
聖都と呼ばれるこの都市において、市民と信者は同じ意味を持つ。信仰の長と政の長は事実上同じだった。聖都の行政府は、神殿の方針に否やを唱えることができない。
権力の大きさは責任の重さだ。
執務をこなす専門の神官を多く擁してなお、神殿長にしか判断のできない案件はあまりに多い。そのすべてをこの老体が背負っている。
サンは唇を引き結ぶ。困ったように顔をうつむけた。
「……分かりました」
答えて、顔をあげる。
「未熟者ですが、精いっぱい頑張ります」
「それがよいでしょう。大丈夫、難しいことはありますまい。あなたにならできますとも」
神殿長はしわにたるんだ頬を微笑ませる。
老いに濁った瞳に、気弱なつくり笑顔が見えているとは、サンにはとても思えなかった。
(だって)
サンは声に出さずに口の中でつぶやく。
(言えるわけないじゃないですか。神殿長様が背負っている仕事をひとつ下ろそうとしているのに)
責めるような視線を神殿長に向けないよう、顔をうつむける。お辞儀に誤魔化して、立ち上がった。
(いやだ、なんて。自信がないからやりたくないなんて。言えるわけ……ないじゃないですか)
サンは聖人だ。
本当なら信仰を鍛える徒弟に混じってシスターの真似事などする必要はない。
とっくに神殿長の座を譲られても、なんの支障もなかった。聖人とは、神意の代行者とはそういうことだ。
義母が。
捨て子だったサンを拾ったシスターコロナが、サンをシスターに加えさせた。
すぐにも神殿の長に、と盛り上がる大人たちを、まだ子どもなんですよと一喝して。
そのコロナが生きていたのも五年前までのこと。
九十歳の大往生だ。娘たちと息子たちに囲まれた、誰もが憧れるような安らかな最期だった。
コロナの子どもたちで、末期のときに育てられていたのは二人だけ。サンと、そして。
「よう」
筋肉の塊が書庫の外で待っていた。
当時と見違えるような姿になり果てた義理の兄弟は、しかし当時と変わらず気さくに挨拶する。彼はサンの表情を見るなり、複雑そうに口を曲げた。
「……その顔を見れば、なにを言われたのか分かるな。ま、神殿長もいきなり無茶は言わないだろう。気楽に構えろ、な?」
うつむくサンの肩を優しく叩いて、ジンはサンを励ました。
同い年とは思えない偉丈夫の大きな足を見て、サンの肩がますます落ちる。
まだ子どもなのに。
その言い訳の城塞も、いずれ腐れて落ちると知っていて、それでもサンはその陰に身をひそめる以外の方法を知らなかった。
(聖人だからって。なにも特別なことなんか、ないのに……)
弱音は誰にも吐かれることなく、再び飲み込まれてサンの奥に沈んでいく。
シスターサンとシスターサマーは我ながら最高のネーミングだと思いました




