榊、混迷した状況に立つ
茜色の空が雷鳴に震える。
空を飛ぶサンは振り返って息を呑んだ。
地上。悍馬にまたがる戦乙女がいる。
青いヘルムから輝きの強い金髪を垂らし、豪槍を体の一部のように担いでいる。
雷霆の娘、ガーデナーヴァ。
不利な陣営に肩入れして戦争の行く末を揺るがす争いの女神。
「戦女神がこの地にいるということは……」
サンは微笑の端に緊張をみなぎらせて、カテナの身動きに目を光らせる。
「私に薙ぎ払われるだけのカラマンダ軍は、すべて、貴女を自陣に招き入れるための生贄だったのですね」
「そんな大層な話じゃない」
対し、カテナは力が抜けていた。
歴戦に裏打ちされた余裕と威圧感が、全く無駄のない自然な所作を生み出している。
「あたしは天神を信じるただの傭兵。それを二千年ばかり続けてきたってだけのこと」
ゆらり、と槍を構える動きは、まるで水でも飲むように馴染んだもの。
彼女のヘルムに埋もれる耳は、先が葉のように尖っている。その形を見たサンは改めてカテナを見た。
「霊命種の長い生涯で残してきた伝説が、時代につれて神格化された現人神。どういう神なんだろうと不思議でした」
「聖女様も、二百年くらいしたらあたしみたいになるよ」
「そのとき私はいませんよ。太陽は沈むものですから」
二人は笑みを交わして、
直後に空を埋め尽くすような光がぶつかりあった。
§
「やめろ! 逃げるんじゃない!」
ジンの叫びは騒ぎに踏み潰された。
聖都城門の前に築かれた交易広場は騎士団の待機場所として利用されていた。その広場に集まっていた聖騎士が我先に逃げ出していく。
騒ぎに駆けつけたジンが止めようとするも、ヒラ神官に過ぎないジンの言葉に耳を傾けるものは居ない。
筋肉の塊のようなジンの巨体を飲み込むほど、混乱は大きく広がっていた。
首を巡らせてジンは目を剥いた。
騎士団長が先頭を切って逃げようとしている。
ジンは駆け寄って肩をつかむ。白髭の顎を殴りつけた。
「騎士団長が逃げるんじゃねぇ! お前が逃げたら誰が市民を守るんだ!?」
初老の騎士団長はジンを殴り返した。ジンが思わず膝をつく鮮やかな拳だ。
騎士団長は年齢に見合わず鍛え上げた体格を誇る偉丈夫だった。シワにたるんだ顔にピンと白髭を伸ばし、鼻息を荒くする。
「綺麗事にしがみついて自分が死んでりゃ世話なかろうが! こんな状況じゃ市民も騎士団もありゃせんわ! 自分で生き延びるしかないのだ!!」
騎士団長は勢いよく踵を返す。立ち去る彼に手勢の何人かが続く。逃げていった。
片膝をついたまま愕然と見送ったジンは、はっとして振り返る。
広場では騎士団に混乱が広がっている。騎士団長が逃げ出したことを受けて、慌てて逃げようとする騎士もいた。
傍らには、砕かれた城門の石材で潰れた家屋。騒ぎに転んで怪我をした者もいる。今まさに住民にも混乱は瞬く間に伝わっている。
ジンは鼻で大きく息を吸う。
「他人に頼ってる暇はない。今統制を失ったら、それこそ聖都は終わりだ」
ジンは立ち上がった。
胸に拳を当てて目を伏せる。
「神殿長。俺はあなたを分からずやだと思っていました。ですが一方で、あなたは正しく敬虔な太陽神官だった……本当に正しく」
尊敬と失望を等量含めたつぶやきを口にして、ジンは上背を伸ばす。大きく息を吸って口を開いた。
「──うろたえるな!」
レンガ敷が震えるほどの大音声。
意表を突かれた騎士たちがジンを振り返る。その視線に胸を張って立ち、ジンは朗々と声を張る。
「太陽は今もまだ見守っている。不安に囚われて聖騎士の使命を見失うな! 今すべきことはなんだ?」
顔を見わせる聖騎士たち。本当にわかっていない顔だ。騎士団長はどんな指揮を取っていたのか、ジンは不安を飲み込んで声を上げる。
「我ら騎士団、太陽の恵みとともに人を助け、神殿の栄光を守り、以て太陽の輝きの確かなることを知らしめるべし!」
騎士団に入団するとき誰もが諳んじる宣言だ。
息を呑む何人かの騎士は、前神殿長の支持者だろう。ジンはその者たちを中心に目を巡らせる。
「聖女サンに任せてばかりでは、信仰の執行者たる聖騎士の名折れだ。信仰者たらんと思うならば信仰を示す場を求めよ。──前神殿長がいつも仰っていた言葉だ」
聖女は確かに太陽神の優しさを顕している。
では聖騎士はどうなのか。
ジンは両手を広げた。白く美しかった聖都が、ただ一撃にて城門を砕かれ、粉塵に煤けている。
「聖都は危機に陥っている! 今こそ信仰を示すときじゃないのか!」
聖都の民は太陽信者だ。
彼らは太陽神の恵みを受けたいとだけ望んでいるわけではない。ただ享受したいと思うだけでは信者とすら呼べない。
神に奇跡を賜る信徒や聖人には劣るとしても、信仰心は確かにある。
「隣人を助けよう。怪我人に手当をしよう。恐れる人を励まそう。まずはそこからだ。聖騎士の訓練は人を救うためにある」
いつの間にか、広場の混乱は静まっていた。
聖騎士たちはジンを見て待機している。
ジンは胸に拳を当てた。
「誇りを示そう。その胸の飾りは、神と、そして怯える市民に掲げるものだ」
聖騎士の所属を示す太陽の意匠に誇りを託して、騎士たちの気を引き締める。
よし、と強くうなずいてジンは声を張り上げる。
「まずは被害状況の確認と市民の避難が最優先だ! 神殿に誘導しよう。それと可能な限り城壁を修復して、防衛陣地を構築することも大切だ。敵を市内に入れるわけにはいかない! 第一、第二隊は人命救助! 第三以下は壁の修理がいいんじゃないか?! 急げ!」
ジンが提案なのか命令なのか曖昧な号令を発する。
何人かは不服げな顔をしたが、ほとんどの騎士は素早く行動に移した。
騎士団長が失踪して行動指針を失った以上、正式な命令は降りてこない。騎士団はジンの号令に従い動き始めた。
「騎士団長、向いておるかもしれんの」
ジンが驚いて振り返る。
稲穂色の髪から狐耳を揺らす小柄な少女。
環だった。
環や榊、セナとフランが勢揃いしている。広場の隅で見ていたようだ。
「環さん。それに榊たちも。いつの間に来ていたんだ」
「先ほどからの。立派な発破じゃった」
「よしてくれ。柄じゃない」
顔をしかめるジンに笑い、環は榊を振り返った。榊は意味を正しく察してうなずく。
環はジンを見た。
「ジンや。この戦争、わらわたちも手伝うぞ」
ジンはほっと息をつく。安心に顔が和らぐのを隠せていない。
「あくまでも被害を低減させるためじゃ。聖都に所属するわけでないぞ」
「何でもいいさ。とにかく時間も人手もノウハウもない。どうすればいいか、知恵を借りたい」
環はフランを振り返った。この中で最も戦いに熟練していて、そして何やら聖女に頼られる底知れない実力者。
灰銀髪を垂らす全身鎧の女戦士フランは、肩をすくめた。
「我とて軍を指揮したことはない。だが今の指揮で間違いはないんじゃないか? 市民は避難させねばならないし、城門の補修と防戦の準備は急務だろう。我ならもう少し城門の修理を優先させるが……」
「騎士団は戦いに慣れてない。巻き込まれる市民を確実に減らしたほうが安心する」
「大神殿の他には避難所になる場所もないのだろう? 市民に優しい戦争をするなら、あれ以上はないな」
フランの太鼓判に、ジンはほっと肩を落とす。
「それならこの方針のまま、作業を急がせたらいいんだな。職人街から大工と男手を借りるよう指示を……」
ジンは途中で言葉を切った。
環がしきりに耳を動かして落ち着きを失ったからだ。顔に不安をよぎらせて、高い市壁にざっくりと空いた空白を見上げる。
「どうした?」
「妙な音がするのじゃ」
「サンとカテナじゃなくてか?」
今なお、サンとカテナの戦いは天を揺るがし神鳴りを響かせている。
だが、環は頭を振った。
「その音に紛れておったが、全く別の音じゃ。さざなみのような──地鳴りかの?」
さざなみ、山の盆地で? 風の音、地鳴り──違う。
思い至った榊は顔をあげた。
「軍靴だ。敵が動いた、迫ってきたんじゃないか?」
「馬鹿な! この短時間で!?」
ジンが驚愕に瞠目する。
セナはさっと顔色を変えて、目と耳、そして四肢に加護の輝きをまとわりつかせた。軽やかに駆け出すと跳躍。家々の屋根を飛び渡り、そして市壁へと飛び乗った。
振り返る彼女の表情は硬い。
敵が迫りくる。
§
雅が薄く笑う。
「マリめ。期待はするなと言っておきながら、本当に神霊の助けを借りおったのか。これで大いに楽になるわの」
山の斜面に陣を張ったカラマンダ軍の本陣に雅はいた。
傍らには褐色の青年将軍が腕を組んで部隊を見下ろしている。
カラマンダ軍の兵士たちが聖都へ進んでいた。
道も山麓も関係ない。雅という神に与えられた健脚と怪力を最大限に活かした強行軍。
「どうじゃ、将軍。このまま一気に攻め滅ぼせるか?」
雅の無邪気な問いにも表情を動かさず、将軍は厳しい視線をカラマンダ軍と聖都から外さない。
「城壁が破れるとはこれこそ神の采配。崩れた一角から一気呵成に攻め立てれば、早晩勝利も得られましょう」
「うむ」
「しかし……惜しい。時間が足りません」
将軍は口惜しげに空を見上げた。
斜陽が染め上げる茜色の空は、東の端から藍の気配が強まっている。
「夜は指揮や命令が通りづらく、私も状況の把握が難しい。敵味方の判別に時間がかかり、夜の闇は無用な混乱を誘います。夜の作戦行動はできません。この時間からでは、包囲するのが限界でしょう」
「そうか。簡単にはいかぬのじゃな」
「敵も味方も必死ですからな」
淡々とうなずいた将軍だが、ふと目を空に向けた。
遠雷のような轟きと、空に雲が湧き起こるような衝突。神の怒りを示すような閃光と、天地に走る稲光。
太陽神の力を受け継ぐ聖女を、互角に抑え込む謎の神だ。
雅をも上回りかねない神通力に将軍は眉をひそめる。
「あれは味方なのですか?」
「どうかの。味方となったかどうか、まではわからぬ。人の心は水心。神と呼ばれようが、あれは今を生きる人間の一種に過ぎぬ」
将軍の心配に反して、雅はカテナを恐れる気配は微塵もない。
かといって勝つ自信があるようでもなく、むしろ敵対するはずがない、という確信に満ちているようだった。
「聖女と争うことに否やはないようじゃ。であれば、妾たちはそれに乗ずるだけのこと」
「……そうですね。そのとおりです」
将軍は重くうなずく。
神という不確定要素が、常に盤上を支配する可能性を秘めている。見えているものだけがすべてではない。
勝つためには、打つべき手をすべて打たなければならない。
「抜かるかよ。敵にはまだ太陽神とは別の神がおる」
だからこそ、雅の忠告に将軍は眉をひそめる。
「雅様と同じく狐の小神……その神は、そんなに侮れないものなのですか? 話を聞くに、人間でも討ち果たせそうな力の弱い神でしょう」
とても聖女サンと渡り合えるとは──聖女サンと互角に戦う雷神ガーデナーヴァに勝てる神格だとは思えない。
ガーデナーヴァを危険視していない雅が、その小神を気にかけるのはずいぶんと噛み合わないことだった。
雅は将軍の認識にうなずいて応える。
「たしかに、弱い。おまけに甘いし青臭い。単純な脅威とはならぬじゃろう。じゃがな」
雅は目をすがめて聖都を見据えた。
その一角に確かにいるはずの環を。
「……あやつは、なにかやらかす。そんな気がしてならぬのよ」
将軍は結局、理解することはできなかった。
理解できないまま瞑目して首肯する。
「雅様がおっしゃるならば──その小神を確実に殺すよう、命じておきましょう」
太陽が山の稜線にかかる。
夜までは、まだ時間がある。
好きなもの!
戦記物のクロッシング視点変更。
事態の広がりと進みを視点者のミクロな体感で、しかしダイナミックに描くことができて、すごく興奮します




