雷と戦争の神の伝説〈下〉
金属の軋む音を立てて、その鎧は立ち上がった。
固唾をのんで自動人形を見守るメグは、その隣で気だるげに立つカテナとともに馬屋に集まっている。
できる限りの修理を終え、再起動をテストしているのだ。
膝を伸ばし、背を伸ばし、顎を上げた鉄の巨人はカテナよりも頭一つぶん背が高い。ぐらぐらと揺れたあと、ピンと背を伸ばす。
「ぃやったー!」
メグは感極まってカテナに抱き着く。カテナは体幹の強さを発揮して幼女の突進に耐えきった。
「やった! テツオ完全復活だぞ! 馬車に轢き潰されたときはもうだめかと思ったぞ……ありがとう! ありがとうカテナ!」
「よかったね」
「うんっ!」
大きくうなずいたメグの動きに合わせて、テツオもうなずく。
「この自動人形って、そんなに頼りになるの?」
「もちろんだぞ! テツオは我輩の思った通りに動いてくれて、ばったばったと敵をなぎ倒すんだ。すっごいんだぞ!」
「ふーん」
気のないような声を返しながら、カテナの目は剣呑に細められた。
確かにメグと違ってテツオの体捌きには根底に武の理があり、メグの指示を最適化して実行している。となるとメグと一心同体なぶん、純粋な戦士よりも優れているのかもしれない。
「おっと、忘れちゃいけない。お祈りしなきゃ」
メグがひざまずいて、歪な十字のペンダントを手に瞑目する。
「我が勇ましき雷神、ガーデナーヴァ様。開かれた血路、つながれた希望に感謝します」
カテナは目をしばたいた。小さなメグを見下ろす。
立ち上がったメグが、見られていることに気づいて照れくさそうに笑う。握られる十字型のチャームを見て、カテナはぽつりとつぶやく。
「……雷神?」
「うむ。この十字は剣のモチーフなんだ。本土ではあまり有名ではないようだけど、我輩の地元……島嶼地域の寒村なんだが、そこではちょくちょく信仰されている神様だぞ」
「知ってる」
メグは目を丸くした。
「知ってるのか。珍しいぞ、本土にきてはじめてだ」
カテナはすまし顔で肩をすくめる。
そしてメグを見下ろした。さり気ない風を装って尋ねる。
「なんで雷神を信仰してるの? あなた、戦うタイプじゃなさそうなのに」
「えへへ。雷神様は軍神の性格が強いから、よく聞かれるぞ」
メグはどこか自慢するように十字を掲げる。
「雷神様はな、実在したんだ。彼女は各地の戦場を転々として戦果を挙げた。それは必ずしも理のある方についたわけではなかったから、無差別で気ままで、自分の武にしか興味がないって言われてた」
「そうね」
「でもその裏で、雷神様は不利な戦況でも投げ出さなかったし、どんな窮地でも諦めずに血路を切り開いた。我輩の地元では、希望の神って理解されてるんだ」
「えぇ……?」
思わず声が漏れたカテナに、メグは不満げな顔で頬を膨らませる。
「なんで気持ち悪そうな顔をするんだ。失礼だぞ!」
「だって……ねぇ?」
「だってもなにも! 我輩の地元はそーだったの! むしろびっくりしたのはこっちだぞ。無慈悲な神とか、手段を選ばない勝利の神とか……みんな勘違いしてるぞ!」
「いやいや」
「なんでガーデナーヴァ様をけなすんだ! なにか嫌なことでもあったのか! ……あったんだろうな。傭兵だし」
カテナは乾いた笑みで受け流す。
メグは話を逸らすように鼻息も荒く言った。
「とにかく。私はガーデナーヴァ様を見習って、困っている人を助けるために旅をしているんだぞ。テツオが強いのもガーデナーヴァ様の祝福のお陰だ。私は信徒なんだ。そうだ、私は信徒なんだぞ。私が間違ってない何よりの証拠だ!」
どーんと得意満面なメグと反比例するように、カテナは懐疑的に首を傾げる。
「いや、それはどうだろう……?」
「むきぃーっ! 急にたくさんしゃべったと思ったら、人の信仰の悪口ばっかりか! しまいには怒るぞ!」
ばたばたと地団駄を踏んで怒るメグに、カテナは手を振って謝意を示す。そしてテツオを見た。
テツオが武に通じているのは、神の祝福を与えられているかららしい。強いのも道理だ。
カテナは知らず天神に祈る手を組んでいた。しみじみとつぶやく。
「巡り合わせって言うのは、不思議なものね」
「うむ。我輩も、雷神様に因縁のある人に助けられるとは思わなかったぞ」
のんきにうなずいている雷神の信徒に笑い、カテナは馬屋に背を向けた。メグは虚を突かれる。
「む? どこに行く?」
「ちょっとお酒をひっかけに」
くい、と半円を作った指を揺らした。
メグは目を丸くする。
この出不精が、自ら歩いて酒場で呑もうなど、天地がひっくり返ってもありえなかったのに。
小走りでカテナの隣に追いつき、メグは彼女の顔を覗き込む。
「いったい、どういう風の吹きまわしなんだ?」
ついてくるメグと、彼女の後ろでボディガードのようにガッションガッション追ってくるテツオに笑う。
カテナは空を見上げ、天神に謳うように笑った。
「嵐の前触れなんじゃない?」
「不吉すぎるぞ……よしてくれ。我輩、雨も雷も好きじゃないぞ……」
雷神信仰とは思えない弱気に、カテナはまた笑う。
悪夢を覚悟していたのに、すっきり朝を迎えてしまったような、晴れやかな笑みだった。
§
男がガーデナーヴァに下した死の予言は、半分だけ外れた。
ガーデナーヴァは翌日すぐに牢屋から出されたからだ。
土に額をこすりつけて太陽神に非礼を詫びさせられたガーデナーヴァは、わずかな水で喉を潤し、ひとかけらの穀物を口に含み、島民とともに採集と農耕に勤しんだ。
だが、二日後。
太陽神への礼拝の場で、祈りが足りないと罵倒され、木の棒で滅多打ちにされ、再び牢屋に放り込まれた。
その翌日に解放され、また二日後、同じように難癖つけられて閉じ込められた。
どんな馬鹿にだってわかる。
夕食の場に居合わせないよう、ガーデナーヴァを締め出しているのだ。
「悪辣だな。予想以上に」
ごろりと横になったままガーデナーヴァを見る男の目は、憐れんでさえいた。ガーデナーヴァは唇を引き結んで口を利かなかった。
島民の目が変わってきたのはその頃だ。
ガーデナーヴァは夕食のとき以外にも難癖をつけられ、暴力を振るわれるようになった。ガーデナーヴァの一挙手一投足を島民が見て、せせら笑い、殴る理由を探している。
行き場のない不安と苛立ちのはけ口として、ガーデナーヴァは蔑まれた。
居場所を失ったガーデナーヴァは自然と牢屋にこもるようになった。外に出れば殴られる。ならば自ら閉じこもった方がマシだ。牢屋はいつしか、ガーデナーヴァを守る砦に変わっていた。
そのころには男の態度もまた変わっていた。彼を蔑んだ村人の一人、という目から、哀れな娘を見るものへと。
「……だから、空に虹がかかるのは神でもなんでもなく、空の水分と日差しのバランスなんだ」
ガーデナーヴァの両手に水を注ぎながら、男は世界のいろいろなことを語って聞かせた。
「……昼の空が青くて、夕暮れの空が赤いのも、日差しの角度と空気のバランスだったよね」
「よく覚えているな。俺はそいつを飲み込むのにだいぶかかったんだが」
「この島は、夕日がよく見えるから」
「ガーデナーヴァは賢いな」
男に褒められてガーデナーヴァはくすぐったそうに笑う。
外界の知識に乏しかったガーデナーヴァは、暇つぶしを越えて知識を吸収し、いつしか二人は親子のような関係になっていた。そのころには村人は二人を忘れ、語らいを邪魔するものはいない。
遠く、罵倒の声が響く。肉を打つ音は倉庫まで届くほどだった。
「奪うことに味を占めたな」
呪うように男が言った。ガーデナーヴァは顔を険しくする。
「いま、なんていったの?」
は、は、は……と男は声もなく笑う。
男の声はすっかりかすれ、聞き取りづらいものになっていた。
「ガーデナーヴァ。お前に頼みがある」
「頼み? なに?」
「天神様の洗礼を受けてほしい」
男は真剣な顔で打ち明けた。
きょとんとしたガーデナーヴァは、弾けたように笑う。
「わ、笑うことないだろう! 真剣な話なんだ」
「だって」
ガーデナーヴァは楽しそうに笑いをふくんだ声で男に応じる。
「だって私、もうとっくに天神様を信じているんだもの。それなのに、いまさら天神様を信じてほしいだなんて、ばかみたい。ねぇ、今、私を生かしているのは誰?」
男はばつが悪そうに口をつぐんだ。
日も差さない倉庫で、ガーデナーヴァは海水を漉した水を飲み、海水から選り分けた塩を舐めて生きている。
「それじゃあ洗礼を始めよう」
「痛くしないでね?」
「すぐに済む」
男は憮然として答え、ガーデナーヴァの髪を撫でつけた。
男の手がひどく乾いていることにガーデナーヴァは初めて気づいた。
慈しむような手がガーデナーヴァの後ろ髪を撫で、横の髪を撫で、前髪を撫でた。つ、と水が垂れて鼻の脇を通り、口許まで滑り落ちる。
雨のにおいがした。
「主よ、いと慈悲深き天の父よ。かの迷い子に限りない天神の祝福を」
ガーデナーヴァは濡れる。
濡れる。
濡れそぼつ。
まるで雨に、雲に、天空を巡る空気に溺れていくように。
染まっていく。
ガーデナーヴァは自然と口を開いていた。
「天にまします空の父よ。我が主と仰ぐことをお許しください」
瞬間。
ガーデナーヴァの身体が乾いた。
ぱっと目を開き、自分の身体を見下ろす。濡れていない。鼻筋を伝った一筋の水だけが、顎を伝って滴っていた。
先ほどの溺れそうなほどの水は、まるで天意であるかのように、ガーデナーヴァの体の中に充ちている。
「どうだ?」
男はそろそろと窺うように尋ねた。
ガーデナーヴァは答えず、両手をおわんの形に合わせて高く掲げる。
「主よ。我が天神よ。慈雨の祝福を与えたもう」
祝詞を捧げた。
体の奥底から清らかな風が吹いた。そんな感覚が通り過ぎると、
「あっ!」
こんこんと、まるで手から湧き出るように透き通った水が溢れ、垂れていく。ぱちぱちと白い塩が地面に散った。
海の水だ。海水が漉されて手のひらから溢れている。天神の祝福。神の加護を受けた証。
ガーデナーヴァは紛れもなく、天神の信徒となったのだ。
男は満足げに目を細める。何度も、何度もうなずいた。
「よかった。よかったな、お前は素晴らしい信徒になりそうだ」
男の絶賛に、ガーデナーヴァは照れて鼻をこする。
男はうなずきながら言った。
「お前はもう一人でも生きていける。俺も安心して逝けるよ」
「……え?」
男は微笑んだ。
唇は乾ききっている。手はひび割れがひどい。目は虚ろで、声は聞きとれないほどかすれている。
水だけはいくらでも飲めるのに。
力のない手がガーデナーヴァの頭を愛おしそうに撫でる。
「俺は、もう助からない。ろくに食べないままで過ごしてきた。もう力が入らないんだ。もうじき、死ぬ」
「そ……そんな。そんな!」
ガーデナーヴァの叫び声が、震えた。
「そんなのってない! 勝手すぎる! 私、まだなにも教わってないのに! 天神様のことも、信徒のことも! 私を信徒にしておいて、急に放り出すなんて、そんなの勝手だ!」
「そうだなぁ。すまん。もっと早く、勇気を出していればよかったな……」
ガーデナーヴァの喉が引きつる。
ぽろぽろと、目尻から水があふれた。
ガーデナーヴァは目を見開いた。慌てて頬を濡らす水滴をぬぐう。呆然と濡れる指を見下ろした。
「え、なに、これ。雨……? でも私、なにも祈っていないのに」
男は声もなく笑った。
「そうか。お前の永い人生、ずっと水不足に乾いていたから、知らないのか。それは、涙、っていうんだ」
「なみだ?」
そう、と男はうなずく。そして、悲しげな顔をした。
「そうかあ。俺は、涙すら知らない子どもを置いて逝くのか。それは、口惜しいな……」
「そ、そう! 置いて逝くなんて許さない! それなら……それなら! 私も一緒に……」
ガーデナーヴァの頬に、乾いた手が触れる。
優しい手つきで涙をぬぐった。乾ききった皮膚が涙を吸い取ってしまう。
「なあ。そんなこと言わないでくれ。俺がどうして、お前を信徒にしたと思っているんだ?」
ガーデナーヴァの涙があふれ、あとからあとから大粒のものが転がり落ちていく。あっという間に男の手を濡らした。
「い、きて」
呼吸が荒い。喉が引きつる。満足にしゃべることも難しい。それでも、ガーデナーヴァは口にした。
「生きて、ほし、から……っ! あなたが、いなくても……!」
男は笑う。
もはや見えているかも怪しい目でガーデナーヴァを見つめた
「外へ出ろ。島の外に。世界は広い。霊命種の永い人生、こんな狭い島で過ごしたんじゃ勿体ない。天神の祝福をこんなにも強く得たお前なら……できるはずだ」
「できない。ひとりじゃ、できない……っ」
「がんばって、ほしいなあ」
男は弱々しく笑う。
もう男には、迫り来る死神の指に抗う気さえない。
ガーデナーヴァの目に涙がこみ上げる。肩で乱暴に拭った。男を見つめる邪魔になる。
「頼みが、あるんだ。もうひとつだけ」
「なに? 何でも言って」
「娘と、呼んでも、いいだろうか」
呼吸が止まる。
声も出せず、ガーデナーヴァはうなずいた。何度も、何度も。
男は満面に笑みを浮かべた。優しくガーデナーヴァの肩を抱く。もうそんな力もないはずなのに。
「愛しい子。俺の娘。ガーデナーヴァ」
「カテナで」
ガーデナーヴァは男に頬を寄せて、笑った。
「カテナでいいよ。私、親しい人にはカテナって呼ばれるの。ねえ……お父さん」
「……ああ」
乾ききっていた男の目に、涙が浮かぶ。
その、ほんの微かな水の輝きは、どんな湧水よりも美しいとガーデナーヴァの目に映った。
「カテナ。お前のような娘がいて、俺は誇らしい」
男は目を伏せる。
「海に流れる木くずみたいな人生だったが、最後に、こんなにも誇らしい気持ちになれるなんてな。なあ、天神。天神様よ。もう搾りかすみたいな俺だが、どうかひとつ頼みたい。俺の全てを捧げよう。なに一つ残らず捧げよう。だから、だからどうか。俺の娘に、限りない愛と、祝福を――」
しゃべれたと思っていたのは、男だけだ。
意味のない呼気に唇を震わせ、ガーデナーヴァの涙声すら聞こえず、男はただ満足げな顔でほほ笑んでいる。
「――ぁ――」
男の喉に、声が戻った。
あるいはそれが、天神の手向けだったのだろう。
「ありがとう、カテナ」
「う、うっ。うっ」
カテナは泣いた。泣き続けた。そして顔をあげた。
島の夜空が赤く照らされている。
火事だった。燃えていた。内輪揉めが窮まり、闘争になり、ついにもろともの自殺を始めたのだ。
カテナは細く長く息を吐く。手に水を溜め、顔をぬぐった。濡れたままの顔をあげる。
「我が主、我が天神。天上を統べる御柱よ」
両手を高く広げる。屋根に遮られた空を、その腕に抱くように。膝に乗せた亡骸に天の慈雨を引き込むように。
捧げ、祈り、希った。
「示されよ。主の、お慈悲を」
突如湧きだした雷雲が、天いっぱいに垂れこめる。雷鳴と嵐が吹きすさぶ。
打ちつけるような豪雨に倉庫が軋んだ。雷鳴が地面ごと大気を揺らす。
雷光の閃く闇に、少女はゆっくりと立ち上がった。
「お父さんが眠る場所で……騒ぐな」
霹靂の娘。雷と戦争の神。ガーデナーヴァ。
その伝説は、争いに沈みゆく故郷にたった一人で戦いを挑むことから始まった。
人知れず今も続いている。




