雷と戦争の神の伝説〈上〉
どろどろと、泥濘のように憎悪と殺意がわだかまっている。
「主よ」
戦は長引き、平原の草は死体と血に成り代わられていた。暗雲の垂れこめる戦場は幾度目かの正面衝突に備え、両軍ともにひと時の休息に身を浸す。血を拭き、傷を塞ぎ、再び立って敵を倒すそのために。
その、東軍。
丘を見晴らす崖先に立ち、戦乙女が祈りを捧げる。
「主よ、天を統べる我らが御柱よ」
ヘルムからこぼれるしなやかな長髪は、光を押し固めたような金色に輝く。
すらりと細い肩にプレートメイルを当て、軽く削り込んだ胸当ても、腰回りを覆う装甲も、薄く軽い天銀製だ。
女性的なたおやかさがありながら、凛とした相貌は弱々しさの一切を拭い去るほど勇ましさだけで作られていた。
ナイフで切り開いたように薄く開かれた相貌は、蒼穹よりも澄み切った碧眼。
「我が主。天上を覆いし天神よ」
桜のような唇が伸びやかに祝詞を謳う。
両手が解かれ、高く高く伸ばされた。空を抱きしめるように。
「示されよ。主の、お慈悲を」
天の祝福が閃いた。
視界を覆い尽くすほどの強大な雷が、平原の彼方、敵の陣地を打ち砕いた。
悲鳴と崩落が天を渡って彼女の立つ崖まで届く。さもありなん、空は分厚い雷雲で覆われている。太陽神の愛深き眼差しさえこの戦場には届くまい。
戦乙女の背後から精悍な馬が寄り添った。顔や背を鎧に包んだ悍馬を撫でた彼女は、その背に括りつけられた槍を取る。
醒めるような蒼に色づいた豪槍を軽やかに手遊び、石突を地面に突く。
カーン……と鐘を突くよりも鮮やかに音が戦場に鳴り響いた。
「天意は示された! 友よ立て! 今こそ勇気を示すとき! 神が我らを見ているぞ!!」
おお、と地鳴りのような呼応の叫び。
東軍の兵士たちは疲れも忘れ、我先にと武器を取って駆け出した。負傷兵は鎧を忘れ、救護兵は包帯を切る鋏を掲げて。
それはまさしく狂奔だった。
戦い、踏み潰し、勝利に至る狂乱だ。
気圧された敵軍は戦場に出ずして怖気づき、敵兵はみな背中を見せて逃げ惑い、あるいは膝を突いて命乞いをする。
もはや正面衝突ではなかった。追撃戦だ。背中を刺すだけで手柄が転がり込んでくる大漁の潮目だ。
自分がもたらした成果を見渡し、戦乙女は満足げに頷いた。槍をもうひと回しして持ち上げる。馬の鞍に引っかけ、手綱を手首に絡めた。
「さて、行こう」
道を歩くような気軽さで馬の背にひらりとまたがる。
空よりも青い眦は、壊走する敵陣をきりりと見据えている。唇が弧に釣り上がり、笑みを形作った。
「蹂躙だ」
悍馬はいななき、蹄を鳴らして駆けだした。
金貨をたんまり詰めた雑嚢を手に、彼女は領主の館を辞す。
酒場にも武器屋にも立ち寄らず、街で最も外れに位置する安宿にまっすぐ帰った。
宿とは名ばかりの、納屋の親戚のようなボロ家だ。曲がりなりにも併設された馬屋で愛馬の世話と手入れをして、それから二階の部屋に戻っていく。
「あ、カテナ! お帰り、だぞ」
「ただいま、メグ」
ベッドに腰掛ける幼女に声をかけて、カテナはヘルムを脱ぎ捨てる。ついで雑嚢もぽいっと放り捨てた。
床が抜ける寸前の重い音で軋み、幼女が目を丸くする。
雑嚢の口からこぼれた金貨に悲鳴を上げた。
「ちょ、なんて扱いをしてるのだぞ!? それ金貨だぞ!」
「欲しければあげる」
「欲しいけどいらない! 金貨を恵んでもらうほど落ちぶれてないぞ!」
へえ? とカテナは片眉をあげた。少しだけ楽しそうにメグを横目で見る。
「じゃあ、拾ったあとの生活費とあんたの相棒の材料費、耳を揃えて返してくれるんだ?」
「……現ナマでもらうほど落ちぶれてないぞ……」
「そ。いいけど」
カテナはどうでもよさそうに言って、薄汚いベッドに突っ伏した。
メグは呆れた顔で彼女の隣に腰掛ける。
「なんでそう達観してるのだ。稼いだばかりなのだろ。宴会のひとつでもしてくればいいのに」
「やだよ、そんなの」
ベッドに沈んだまま、くぐもった声をあげる。
「中途半端に騒いだら、終わった後が寂しいじゃない」
メグは唇を曲げてカテナを見た。
カテナは凛々しい風貌も台無しの堕落しきった姿で、つんのめるようにベッドに顔を突っ込んでいる。
戦場を駆け回って勝利に直結する手柄を上げてきたとは思えない。
「ほらカテナ、鎧くらい脱いだ方がいいぞ。それじゃ寝づらいぞ」
「んーん」
もう呼吸以外したくない、という頑なな背中に呆れたため息をついて、メグは匙を投げるようにベッドを降りた。
「我輩は部品の工作が終わったから、テツオの修理に戻るぞ。夕飯はまた買ってくる。食べたいものがあれば聞くぞ」
「にく」
「またか。わかったぞ。お金を少し借りるからな」
うー、と返事だか唸り声だか寝言だか分からない声を聞いて、メグは雑嚢に紛れた財布から銀貨を取って部屋を去る。
カテナはピクリとも動かない。盗まれる心配をしていないというより、本気で盗まれても構わないと思っているようだった。
少女の軽い足音が廊下を過ぎ、階段を降りて、宿の主人と二言三言の会話をして馬屋に出て行く。
頑なに動かなかったカテナが、メグの足音が届かなくなると同時に置き上がった。這うように窓辺にすり寄る。窓枠にもたれかかって、板窓の隙間から馬屋を覗き込んだ。
工具箱を両手で抱えるメグがいる。重そうに荷物を床に置くと、カテナの愛馬に挨拶をして鼻先を撫でて、馬の荒い鼻息に怯えた。気を取り直して工具箱を開き、腕まくりして挑みかかる。
馬の隣でうずくまる鉄の大男。彼女の相棒にして武器。自動人形に。
蒼い瞳でじっと見つめていたカテナは、溶けるようなため息をついて窓から離れた。
手袋を取り、胸当てを外して、肩当てに手を伸ばす途中で諦めたように横になる。疲れ切った顔で目を閉じた。
まるで悪夢を見るとわかって眠るような。
あるいは逆に、悪夢からほんの一瞬逃れるような。そんな眠り方だった。
夢さえ見ないまどろみに沈む。
§
島は貧しかった。
麻の着物さえ一張羅だ。擦り切れた襤褸を体で結び、あるいは草を編んで体を覆った。オシャレなんて発想さえない。服は体を守り、日差しや寒さをしのぐ防具だ。
ガーデナーヴァは畑で鋤を振る。日陰に座る裸の子どもが、虚ろな目でガーデナーヴァを見ていた。ガーデナーヴァの手の中で、乾ききった木の柄が砕ける。
バラバラになった柄が手のひらからこぼれ、土に落ちていく。
耕しても耕しても、不毛だった。
乾いた砂はカラカラに乾き、風にさらさらと崩れていく。植物の根づかない枯れた土が、村のすべて、ガーデナーヴァの知る世界だった。
ガーデナーヴァは空を振り仰ぐ。
遥か彼方まで青い空。天を覆う蒼穹が嘲笑うように乾いた日差しで突き刺してくる。焦らすように、弄ぶように、じりじりじりじりと熱と乾きと飢えと光で、体を透して命を直接刺しえぐっていた。
どうか。
村のシャーマンが祝詞を謳う。
どうかどうか、我らに恵みを。水と食べ物を。子どもたちに飢えぬ明日を、
――太陽神よ。
馬鹿な、とガーデナーヴァは罵倒を口の中で転がした。
太陽神が我らを救いたもうものか。空を見ろ。島を見ろ。我らを干し、乾き殺そうとしているのは、まさにその太陽ではないか。
ガーデナーヴァは歯を食いしばり、柄の折れた鋤をつかむ。
天に掲げ、振り下ろした。ざく、と深々と大地に牙を立てる。
乾いた荒地は耕されない。
ガーデナーヴァは滅多打ちに殴られ、砂浜沿いの倉庫に捨てるように投げ込まれた。
皮膚が裂けて血のにじんだ肌に砂を塗りつける。生傷をさらすより、砂で覆った方がまだしもマシだ。菌さえ繁殖しない不毛の土なら、かさぶた代わり程度にはなる。乾いた砂を塗りつける手が、悔しさにきつく握られた。
病にさえ見放された不毛の地。
わずかな水源を捨てて新天地を探しに行くには、島の外は遠すぎた。
船を作ろうにも細く乾いた島の木々は木材にならず、遥かな海原には見える影などひとつもない。海の魚は毒を抱え、食べた者はみな死に至る。島の底に鉱床があるせいだ。
乾いた砂と、岩と砂浜と、荒れる地獄の海。
最果てに暮らすガーデナーヴァたちは、先細る未来に身を寄せ合っていた。
せせら笑うような潮騒が倉庫にわんわんと響く。倉庫とは言うが、保管するものなどこの島にはない。砕けた漂流物と錆びた鉄片、腐った木が転がるだけの空の建物。ただのゴミ置き場、ただの牢屋だ。
唇を噛んだガーデナーヴァの耳に、聞こえた。
「ばかなやつだ」
鼻で笑うような声。
ガーデナーヴァは体を起こして倉庫の奥に目を凝らす。
垢と泥で黒くくすんだ影が腰掛けている。
そういえば、こんなやつもいたな。ガーデナーヴァは他人事のように思った。
「聞こえていたぞ。島民が唯一すがっている、最後の頼みが太陽神だ。その礼拝をサボるなど、ばかな霊命種もいたものだ」
斜に構え、島民の信仰をあざけるようなその男こそ太陽神を軽んじている。
ガーデナーヴァは思い出した。
彼は遭難者だ。神の祝福を一身に受ける信徒でもある。
問題は、彼の主が太陽神を軽んじる異端の神だったことだ。
「父なる天神に祈りを捧げれば、これこのとおり、俺のように生きながらえることもできただろうに」
男は言う。確かに彼の言う通りだった。
ガーデナーヴァが忘れ果てていたように、村人もまた男を閉じ込めたことすら忘れている。村人でさえ足りていない食料を、余所者に分けようはずもない。男はとうに餓死していなければおかしかった。
「どうやって生きながらえているの」
「天の恵みだよ」
皮肉げに笑い、男は手のひらを向けた。垢にくすんだ体と一続きとは思えないほど、その手のひらは白い。
男がぶつぶつとつぶやくと、
「あっ!?」
ガーデナーヴァの驚声に男は笑う。
彼の手からは、透き通った水がこんこんと湧き出ていた。ぱらぱらと音を立てて散らばる白い粒が、手からこぼれた水たまりに浮いて溶けていく。
ガーデナーヴァは跳びかかるように男の前に飛びつき、その足元の水を舐めた。砂が混じっていて咳き込む。焦るガーデナーヴァを男が面白がるように見ていた。
水をこぼして掬おうともしない男を、ガーデナーヴァはにらみつける。
「もったいない!」
「惜しいものか。俺は無限に水と塩を作れるぞ。海が涸れ果てでもしない限りはな」
ガーデナーヴァはまじまじと男を見た。
信じられない。水は島の岩場から浸みだす、ごくわずかな真水しかない。
海の水は、畑を枯らし人を涸らす毒の水だ。海水からこれほど透き通った真水がつくれるなど、ガーデナーヴァの常識ではありえなかった。
「この島では勉強できないか? 海の水は空で雲になり、雨になり、大地を潤す。大地に降った水は山を通って川になり、また海に還っていく。お前たちがありがたがっている湧水と、お前たちが忌み嫌っている海の水は、元をたどれば同じものだ」
「まさか」
笑おうとして失敗した。まさか。
でも、男は現に生きている。
男は不意に顔をあげた。倉庫の屋根から煙が見える。広場で供されるわずかな食事。三日に一度の夕飯だ。
男が顔を下ろしたのが、夕闇に浮かぶ白い目として分かった。
「あいつらは、もうお前を助けないだろう」
「え……」
「口減らしができたからだ。育ち盛りの子どもと引き換えに増えた自分たちの分け前を、自ら減らすことはできないさ。お前の罪は日増しに増えて、この牢屋から出ることはできず、いずれ飢えて死ぬだろう」
ガーデナーヴァは男をにらみつける。
男はくつくつと笑った。
「床に額をこすりつけて頼めば、水と塩を分けてやる」
「私に近寄るな!」
ガーデナーヴァは男を蹴り倒して、倉庫の隅にうずくまった。
男は倒れたまま笑った。
好きなもの!
不毛に抗う人々。
この地球上では、人が住むには過酷すぎる場所で暮らす人々がいます。凄まじい「人の力」を感じます




