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不毛の軍靴

 黒い石で積み上げられた岩山の尾根を、軍隊として登るのは骨だ。

 重い装備を背負っているし、前の人間が登るまで待たなければならないし、待ってから一歩を出して体を持ち上げなければならない。

 動きは遅々として滞留し、深刻な渋滞が引き起こされる。


「訓練はしたが、なかなか速くならないものだな」


 尾根を越えた先に、陣地が構築されていた。

 サーコートを羽織った鎧姿の青年が立っている。浅黒い肌に刈り上げた黒髪、唇の端を縦に裂く古傷を撫でながら隊列を見守っていた。

 軍の主要な人員は山越えを終え、今は陣地を補強する補給部隊の護送だ。

 ロバがいればマシだろうが、人間以外を養う糧食はない。


「不足があるかの?」


 艷やかな声がして、青年ははっと振り返る。

 狐耳をやんわりと揺らす、絹のような髪色の美女。山歩きに適さない紫紺の着物で岩間に佇んでいる。


「雅様。不足など、とんでもございません」

「状況はどうかの、ルガ将軍? 妾は戦争には疎くての」

「は。上々です」


 青年将軍は振り返り、山麓にかけて隊列を組むカラマンダ軍を見る。

 色とりどりの鎧、装備。ヘルムをかぶる者かぶらない者。同じ旗のもとに集った、歩ける程度に栄養状態のいい五万人。

 カラマンダの全軍だ。


「促成訓練のわりには十分な速度で尾根を越えることができました。休息を取らせ、装備を確かめ、隊列を整えています。すぐにも進軍できましょう。これは驚異的な進軍速度です」


 青年将軍は山脈に抱かれる盆地を見渡す。

 そそり立つ霊峰から左右に裾野を伸ばす暗褐色の山脈、その一角にカラマンダ軍がいる。

 そして彼らの臨む先には、白亜の牙が大地を突き破っている。

 大神殿を頂きに掲げる、愛すべき聖都だ。

 聖都を眼下に収めて青年は顔を歪ませる。


「──舐められたものだ」


 聖都の周囲に広がる緩やかな丘に、聖騎士団が塊となって隊を展開している。予備役を招集していない最低限の常備軍だろう。千人程度の騎士団が、平地に並んで恵まれた装備を誇らしげに掲げている。

 首を伸ばしてそれらを眺めた雅が首を傾げて将軍を見た。


「挑発でもされておるのか?」

「馬鹿げた光景です。聖都は壁に守られた城塞都市。彼らは盾を守っているのです」


 城を出て野戦の陣を組む聖騎士を見て、雅は「ああ」と納得した。


「ま、それも仕方がなかろう。連中は戦争するつもりで来ておらぬ」

「……確かに、そのとおりです」


 将軍は苦々しく唸る。

 目を凝らせば見える距離。仰々しく戦列を組む聖騎士のはるか前方に一人、少女が立っている。

 聖女サン。

 たった一人で戦争の抑止力となり、信者を守る盾となる神子。

 聖騎士たちは、聖女ただ一人を矢面に立たせていない体裁を整えるために立っている。


「あれでは、展開する聖騎士はむしろ少女を逃さないために武器を構えているようです」

「同情は無用ぞ。我らはこれより、あの娘に蹂躙されに行くのだから」

「わかっています。故郷を守るために、あれは越えねばならない障害です」


 青年将軍は追憶に浸るように目を伏せた。

 彼がカラマンダ王国のどこの出身なのか、雅は知らない。だが、どこであろうと変わらないだろう。

 カラマンダにある景色は、どこまでも広がる不毛の荒野だけだ。


「やれるか?」

「何にかえても、やり遂げます」


 ふぅと呼吸を整え、青年将軍は配下の部隊に目を向けた。

 伝令兵が駆け寄ってきている。


「総員、配置完了いたしました!」

「よし。──では雅様」


 将軍の傍らに立つ雅は、妖艶に笑みを釣り上げる。

 将軍は胸に拳を当てて頭を垂れた。


「どうか我らを守りたまえ、どうか我らに力を与えたまえ、どうか我らが故郷を救いたまえ。どうか、どうか。我らに、勝利を」


 祈りを捧げる。

 心地よさそうに目を細めていた雅は、ぎらりと双眸に力をみなぎらせた。同時に波紋のように部隊すべてに無形の迫力が広がっていく。

 それはただ一人の例外もなく、地位も身分も関わりなく、ただ「カラマンダ軍の一員である」というだけで認められ、赦される、神からの承認だ。

 青年将軍はまなじりを見開き、牙剥くように気炎をあげる。


「征くぞ! カラマンダに繁栄を!! 全軍前進!!」

「全軍前進!」


 呼応はさざなみのように打ち広がり、勇壮に踏み揃う足音が山を踏みしめる。

 巨大な獣がのっそりと身体を起こすように。

 湛えられた湧き水が堰を切って溢れ出すように。

 居並ぶ軍隊が動き出す。


──その矢先。


「動いたぞ、将軍ッ!」


 雅の警句と前後する一瞬で、

 世界が白く飛ぶ。

 足元をひっくり返すような激震がカラマンダ全軍を襲った。

 すべてに遅れて、凄まじい轟音が雪崩を打つように響く。鎧同士が打ち合う騒音や悲鳴が空気を占める。

 たまらず膝をついた将軍が顔を上げる。


「何があった!? ──……っ」


 絶句した。

 五万人規模の全軍が一人残らず這いつくばり、衝撃に耐えている。一挙に統率を失った。

 膝を屈する全軍を見下ろして、天から後光が降り落ちる。光差す空を見上げて、将軍はギリッと歯を食いしばった。


「──聖女……ッ!」


 風をはらむ金髪に、思いつめた碧い瞳。繊細に金糸を編み込んだ白い神官衣がひるがえる。

 空に浮かぶサンは、全身から揺らめく陽炎を立ち上らせてカラマンダ軍を見つめている。


「これは警告です」


 朗々と、陽射しが岩に染み入るような確かさで、サンの声が山間に響く。


「みなさんを傷つけるのは私たちの望むところではありません。お願いです。武器を収めて引き返してください」


 できるものか。そんな罵倒を返すことは誰にもできなかった。

 カラマンダ軍の前方。

 右から左へ一本の線を引くように、山に亀裂が走っている。溶岩が亀裂から垂れて固まっていく。

 今の衝撃は、熱線で山を引き裂いたものだ。

 あれがカラマンダ軍の隊列を薙ぎ払っていたら──。


「どうかお願いします。考え直してください。ルガ・ウィルシュタットさん」


 将軍は声を詰まらせる。

 サンの目はしっかりと青年将軍をとらえて、はっきりと名を呼んだ。


「サルジス・ローガンさん、お婆さまが心配されています。エルミー・グリーンさん、お子さんがお母さまにあなたを自慢しています。……」


 青年将軍──ルガだけではない。

 聖女サンは兵士の一人ひとりに目を向けて、呼びかけている。彼らの個人的な領域にまで踏み込んで。


「黙れ!」


 ルガは立ち上がって吠えた。

 呼応して鎧の隙間から紫紺の炎が吹き上がる。決意が熱を持つような、雅の加護だ。


「我らはすでに不退転の覚悟を持って、聖都を討つと決めたのだ。今さらそんな甘言など侮辱ですらある!」


 言いながらルガは部下に手を差し出して示す。素早く応じた部下はルガの手に弓矢を手渡した。


「なにより我らには──帰るすべが既にない! 引き返すほどの物資がなく、我らには前に進むしか道がないのだ!」


 背水の陣。だが背後に広がるのは水ではなく不毛の大地だ。そこに今も多くの同胞が息づいている。

 キリリと弓を引き絞り、つがえられた矢は聖女の童顔を狙う。


「この戦場から去れ、聖女よ! 用があるのは神官を僭称する腐ったクソ虫どもだけだ!」

「ルガさん」


 聖女の目は、相変わらず悲しげで、いたわるように。


「妹さんのことは、私も悲しく思います」


 ルガが目を見開いた。


「──黙れェえええええッ!」


 憤怒とともに放たれた矢は、聖女の一瞥で燃え尽きる。

 ルガは血走った目で二の矢を手にとって、ぐっと己の手を抑え込む。矢を無駄にする衝動を飲み込んだ。

 聖女は何者にも触れられない空の高みからカラマンダ軍を見下ろし、悲しげに息をつく。


「これ以上侵犯するようであれば、私たちは相応の手段でみなさんに応じます。あなたがた一人ひとりが、良心の声を聞き届けてくださることを望みます……」


 言い残して聖女は飛び去っていく。本当に警告するだけのつもりなのだろう。

 そして警告を実行する力を持っている。

 聖女の姿が遠くかすんで消えてからしばらく経ってから、ようやく副官がルガ将軍を見上げた。

 拳を震わせるルガは、断ち切るように目を伏せて息を吐く。


「…………落ち着け。全員立て! 武器を壊したものはいないか? 怪我をしたものは衛生兵の元へ。斥候を出して道の状態を確かめろ。大隊長各位は陣地に集合だ!」


 ルガ将軍は落ち着いた声で指示を四方に送る。呆けていた者もようやく血が通ったように動き出す。

 息を吹き返した軍を見渡して、ルガ将軍は宣言する。


「明日、改めて進軍する!」


 ルガの宣言に三々五々の返事。

 出鼻をくじかれたカラマンダ軍は、すっかり気勢を削がれていた。 

 聖女の圧倒的な力を前に、前線指揮官らも動揺を隠せずにいる。方針の確認が必要だな、とルガ将軍は目をすがめる。


「将軍……恐れながら、ここで足踏みは……」

「わかっている」


 副官の進言に、ルガ将軍は見もせず応じる。

 食料がない。

 台所事情の厳しいカラマンダ軍にとって、戦果のない物資浪費ほど忌まわしいことはない。

 聖女を抜きに考えても、これから攻城戦が控えている。通常の戦争以上に、兵站確保は急務だった。


「補給部隊を編成しろ。予定より多く人員を割く」

「……っ!」


 副官は顔を強張らせた。

 ルガ将軍は追認するように顎を引く。それでようやく副官は応を返して立ち去った。


「補給とはよく言ったものじゃの。要は略奪じゃろうに」

「……人の心は弱いものです。己が間違っていると思いながら突き進むことは難しい。少なくとも善人にとっては。だから文言は繕わなければなりません。実態が非道であればあるほどに」


 聖都をにらみながら言うルガ将軍の横顔を見上げて、雅は着物の裾で口元を隠す。


「将軍よ。聞いてもよいかの?」

「……妹のことですね」


 ルガ将軍は視線を落として額を抑える。

 ルガが将軍の任に就き、同胞に「死ね」と強要させるだけの、暗い怒り。


「……私の村は、聖都の援助を受けられる場所にありました。私の村には学校があり、給食を食べることができて、太陽神の教会が建てられていました」


 カラマンダ辺境で望みうる最上級の暮らしだった。だからこそルガ将軍は国家の要職に就いている。


「妹は」


 ルガ将軍は言葉を途切れさせる。

 こみ上げる苦い悔恨と復讐に耐えかねるように。


「……妹は、人道支援のためやってきた神官に身体を売っていました」


 売春。

 支援員による小児買春が行われていた。


「ほんの十にも満たない妹が! 神官に、薄汚い男に股を開いていたんだ……!」


 ぎちぎちぎち、と力を込めすぎて拳が震える。拳から紫炎が漏れる。


「あのとき俺は……見て見ぬふりしかできなかった……! 貧しかった! 妹の稼ぎが、家族を養うために必要だった!」


 ルガ将軍は目を見開く。かつて目撃した光景が、今まさに目の前で繰り広げられているかのように。

 幼いその時から変わらない怒りと屈辱のまま、この地に立っている。


「人道支援だと……!? 貧しさを盾にとって無法を働いておきながら、よく言えたものだ……!」

「お主の理由はよくわかった」


 雅は静かにうなずいた。そして聖都に目を向ける。

 美しい白亜の牙城がそびえている。

 聖騎士は、仕事は済んだと言わんばかりに聖都へ撤退していた。

 その聖都。

 聖都にいるはずの()()

 雅は目をすがめる。


「さて──お主は、誰の味方をするのかの」

 好きなもの!


 褐色の青年将軍。

 なんかもう絵面だけで強そう。


 最近コメディ成分がすっかり鳴りを潜めてしまいましたね。すみません、今エピソード(戦争編)は陰鬱としそうです。

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