榊、開戦を目の当たりにする
マリ。榊が声なくその名を繰り返す。
それが首領なのだろう。神としての性質を存分に利用して、雅を手のひらで転がす大悪党。
重苦しい沈黙が降りるなか、環が疑問を口にする。
「……カラマンダは、なぜそこまで?」
「理由は聖女が知っていよう」
雅は露骨に嫌がらせ目的で、戦意を削ぐ話題の水を向けた。
ぐっと飲み込んでサンは甘んじる。
「カラマンダは貧しい国です」
広大な──広大すぎる国土を持ち、そのほとんどが痩せた荒野で占められている。
広すぎる平地に水源は限られ、食料も産出物もなく、下級労働力を輸出するのみ、という状況だった。
土地そのものの問題のため解決手段もなく、局所的な支援も開発も広すぎる国土に広まらない。
仲間を守る。そのために他人から奪うことすら辞さない。そんな神が生まれ祀られるような環境がそこには広がっている。
雅はあくまでも聖都をせせら笑った。
「誰もが飢えて貧しさに喘ぐ王国から、小さな尾根を一つ超えれば絢爛豪華な白の聖都じゃ。肥え太った豊かな神官が、苦しむ貧者に『神の恵みは遍く等しい』とうそぶいておれば怒り心頭に発するも必然であろう」
「人道支援を欠かしたことはありません! ありません、が……! ……カラマンダは、広すぎます……」
激しかけたサンは悔しげにうつむいた。
砂漠に水をまくような方法では、カラマンダの苦境を覆せない。
雅は無力感に震えるサンを嘲り笑う。
「人道支援など。食卓いっぱいの肉とチーズを余らせてからのことであろう?」
「そんなことはありません! みな、みな倹約し慎ましくしています!」
「だが飢えることはない」
サンは口を引き結んでうつむいた。
ギリ、と苛立たしげに奥歯を噛み締めたジンが大きく一歩を歩みだす。
「八つ当たりを言われても解決しない。神ならぬ我々は万能じゃないし、サンにはカラマンダより先にまず聖都の民を満たす責任がある」
「そうじゃな、余談が過ぎた。妾とて聖女の無力を弾劾するために来たのではないとも」
詰めた距離は軽やかにかわされて、雅はサンに視線を送る。
市民のほぼすべてが太陽神の信者である聖都において、政府よりも権力を持つ大神殿の長。聖女サン。
彼女への要求は、降伏勧告だ。
「要求はわかりました。つまりあなたは、そのマリさんの繰り糸を破ろうというのですね。私とあなたの傲慢で」
にんまりと雅が笑う。
悪辣な笑顔と対峙して一歩も引かず、サンは言葉を続ける。
「戦争になる前に聖都が降伏し、たとえば保有資産のすべてと大陸全土からの寄進の半分を分け与えると宣言する。そうすることでカラマンダ世論の溜飲を下げ戦争を止める。そういうおつもりですね」
「お主の信仰を試さずに済み、カラマンダ兵士が死体の山を築かずに済む唯一の方法じゃ。マリの介入を突き放すにはこれしかない」
サンがうつむく。
長い前髪に表情を隠すサンに向けて、雅は重ねて平和を求めた。
「お主がここでハイと言う。それだけが、多くの人を救う最後の手段なのじゃ」
耐えかねたように、ジンが拳を握る。
「まだ手はあるだろう」
今度こそ、ジンは鍛え上げた巨体を構えて、雅に容赦のない戦意を向けていた。
「ここでお前を仕留めればカラマンダの作戦は瓦解する。ふざけやがって、自分だけ何ひとつ譲らず思うように事を運ぼうってか」
「やめなさいジン!」
叱声。
殴りかかる機先を制した叫びに、ジンは動きを凍らせる。
サンは静かに言った。
「やめてください、ジン。彼女は太陽神の御使い様、御自らが認めた客人です。その客人に無礼を働くなど、御使い様のご慧眼を侮辱するも同じ。許されることではありません」
「バカか!? 体面を気にしている場合じゃないだろ、人命がかかってるんだぞ!? お前自身も!!」
サンは蒼い顔で唇を引き結び、雅に向き合う。
「もうひとつだけ、破滅を避ける手があります」
「憐れな。それは愚行じゃぞ」
「何人をこの手にかけようと、神への信仰を固く持って揺るがず、私が変わらぬ都市の盾であり続ける。攻めることすら無謀とあれば戦争を続けることはできないでしょう」
何よりも──カラマンダよりも。救いを求めて彼女の膝下に集った民をこそ、ないがしろにはできない。
人を殺す宣言だ。青ざめた顔に決意をみなぎらせて、サンは頑なに立ちふさがる。
雅は細く溜め息をついた。
「きっとこの顛末も、マリの手の内なのであろうな……」
次に顔を上げたときには、雅の表情は冷たく嘲笑う邪神のそれになっていた。
「妾の要件はもうひとつある。宣戦布告じゃ。カラマンダは今このときより戦争状態に入る」
一拍の間をおいて場に戦慄が走る。
ひとり雅が口元を隠し、目を細めて妖しく笑う。
「では、よい戦争を」
ジンが雅につかみかかる。
雅は袖を払うようにジンの巨体を一蹴し、炎に呑まれるように消えた。
「だぁ……クソっ。クソっ! なにが神だ、ふざけやがって!」
転がされたまま悔しげに床を叩くジンを傍らに、榊はサンに向き直る。
「どうするつもりだ?」
「何も変わりはしません。振りかかる火の粉は払うだけです」
今にも震えだしそうな顔色なのに、サンは気丈に振る舞った。それが務めだと言わんばかりに。
サンはジンに慈しむような目を向ける。
「ジン。あの女神様をあまり悪く思わないでください。彼女もまた祈りを背負う身。選択の余地はなかったのです」
「敵を気遣ってる場合か!? 相手はお前を狙ってるんだぞ……お前に人殺しをさせようとしているんだ!」
サンは答えず、ジンから視線をそむける。
榊と環を促して謁見堂の外へ歩き出した。
「皆さまはお逃げください。雅様のお言葉が本当であれば、おそらく聖都の正規軍に勝ち目はありません。出国の諸手続きは省くよう伝えます」
「……よいのか?」
多くのことを含んだ環の言葉だ。
サンは柔和な笑顔で封殺する。
「太陽神と関わり合いのない方々が巻き込まれるべきではありません」
端的な拒絶。環は続ける言葉を見い出せずにうつむく。
通路へ出ると、慌ただしく鎧を蹴立てて神殿の正騎士が駆け込んできた。セナとフランも一緒だ。聖女が自ら御所を離れる状況に何事かという顔をする。
正騎士は慌てふためいて聖女の前に膝をつく。
「ご、ご報告します! カラマンダ王国から正式に宣戦布告! 国境線めがけてカラマンダ軍が進軍を始めました!!」
「わかっています。将軍の皆様にも伝えてあげてください」
「は……はい!」
落ち着きを崩さないサンの姿に露骨に安堵して、正騎士は再び駆け去っていく。
その背を見送ったセナが首を伸ばしてサンを見た。
「宣戦布告?」
「はい。カラマンダと戦争が始まりました」
「なんてこと。に、逃げるわよあんたたち。巻き込まれちゃたまったもんじゃないわ!」
即決で聖都を見捨てるセナをよそに、フランは険しい面持ちでサンを見る。
「連中の狙いはお前か」
「さすがですね。その通りです。……数万人の隣人を手にかけさせ、私の信心を揺さぶるつもりのようです」
目を丸くするセナ。
サンは太陽神の信徒であるセナの薄情に嫌な顔一つせず、むしろ同意するようにうなずいた。
「セナ様の言うとおりです、皆さまはお逃げください。これは聖都とカラマンダ、そしてカラマンダ国民を誑かす山賊団との問題です。──ただ」
サンはフランに目を留めた。
真紅のフルプレートアーマーに灰銀色の長髪を流す、美しき無手の女傑。
「あなたが居合わせてくださって幸運でした。いざとなれば、あなたの真名をお頼みするかもしれません」
「ほう? 我の名を知っているか。まあ、聖都の神殿長ともなれば当然だな」
フラン──フランという仮称を名乗る女戦士は、不敵な笑みを浮かべる。
「え、なによ。どういう意味?」
「なに。我が一族に伝わるちょっとした伝統だ。気にするな」
気を引くようなことを言ってフランは笑う。
「我は聖都を離れるわけにはいかなくなった。お前たちだけで逃げろ」
榊が傍らの環を振り返る。
「どうされますか」
環は逡巡を顔いっぱいににじませて周囲を見る。
セナは今にも飛び出して逃げる支度を始めそうだ。
フランはどっしりと構えて余裕を見せる。
ジンは険しい表情でサンを見守り、
サンは唇を引き結んで、巨大ななにかに耐えている。
榊は──相変わらずの無感動で環の動静を見守っている。
もうひとり、今ここにいない仲間……女傭兵カテナもまたどこかでこの戦争に関わっているのだろう。
環は口を開いた。
「もう少しだけ……待ってくれぬか」
好きなもの!
戦争と平和。
ほんのり程度にしか触れてないとはいえ、ミリタリー好きであると戦争残酷物語がザクザクと発掘されてしまいます。
おためごかしの理性や倫理を削り落とした先に、なにがあったのか。知ってしまうと「人間とは。理性とは。正義とは……」と思いを馳せずにいられません。
神も仏もない戦争、とみるか。
最期には神だけが兵士を救う、とみるか。
あまりにも毒性の強い皮肉にゾクゾクします。
(ひとつ言っておきますと、「戦争の極限状態で明らかになるものが人間の本質である!」という立場には批判的です。
ご都合的な重層構造そのものが人間だと感じます)




