榊、聖都の試練に屈する
太陽神の御使い──炎を宿す大鴉は、緩やかに翼を広げて岩棚に降り立った。
霊妙な瞳は、変わらず地を這う者どもを見下している。
「まさか……あやつ、本気ではなかったと言うことか!?」
うろたえる雅を肯定するかのように、御使いは翼を広げた。
炎をはらむ翼が白光を放つ。
日光の強烈な輝きは直視に耐えない。光が熱を伝播して肌を焼き炙る。
「なんという──こんな、これほどの……! 太陽神とは、大陸全土の信仰を集めるとは、これほどの力を持つことなのか……!?」
雅はうめいて顔を背けた。
御使いとは、「神ではない」ことを意味しない。
御使いは「神の力の一部」を引き写す。もとが大きければ、たとえ一欠片であっても他を圧する力になりうる。
もはやすべてが白に塗りつぶされていた。
白熱に苛まれて感覚器官が意味をなさない。雅は立ち上がることもできなかった。
なのに。
その光が、翳った。
「……環様。さらに、さらに。お借りいたします」
榊が立ち上がっている。
もはや五感が機能していないだろう状態で。
太陽に飛ぶ英雄のごとく、自ら身を灼きながら。
「よせ、」
雅は虚ろにつぶやいて、その直後に我に返った。
「よせ榊! 無駄じゃ、神としての格が違いすぎる。環の神格では太陽神の一割にすら勝てぬ! ……環ィ! 貴様の信徒であろうが!! 早う止め──」
振り返って、初めて雅は気づいた。
この光は後ろまでは届いておらず。
環は叫び続けていた。おそらくは、榊を止める言葉を。
灼熱の熱波に声すら溶かされている。
榊が燃やされる。絶対に死ぬ。
榊は鴉を前にして立ち尽くした。
「あなたの願いには私が必要なはずだ」
環の耳朶には、声にならない祈りのことばが届いている。
「雅の手段。見境なく加護を与えて手駒を増やすのは、手段でしかありません。その点を持って雅が邪神なわけではないでしょう」
「雅は雅を信じるものを連れて行く。仲間を傷つけないという雅自身の意志のために。そこに信者の意思はありません。だから雅は邪神なのです」
「環様。私はあなたを信じています。あなたが殺せと言うならば、誰をも殺してみせましょう。きっとそこにはあなたの正義があるはずだから」
信じている。
その重みに環は自身の胸をつかんだ。着物を握り、目元を歪める。
「あなたは、どこへ向かわれるのですか」
神の進む先。
教義──ドクトリン。
八咫烏の攻撃の手は止まっていた。
彼は攻撃を通して問うている。環はどこへ行くつもりかと。
何を成すつもりなのか、と。
「信念を示せ、と御使いは云った。示していないのはわらわだけか」
焦る気持ちを飲み込んで、環は息をついた。目を伏せる。
榊の信仰心は篤い。それは無限の信者の影だ。
進めと言えば、太陽の猛火に向かってでも進軍する。
戻れと言えば、どんな好機でもなげうつだろう。
榊の心のままに──とこれまでは言えばよかった。その榊自身が、環の憧れる未来を目指してくれていたからだ。
だから環は、榊について行くだけでよかった。環の行く道を榊が代わりに探していたから。
だが環は神だ。
榊のためだけの神であり続けるわけにはいかない。
環を彼らの神と認めた狐村の民もそうだ。環はもはや信者を擁する一柱の神となっている。
これからも、より多くの信者に信じられることを目指し続ける。
それこそが環の憧れる神の姿、善き神の姿なのだから。
「……そういえば。稲荷様は一度も己を"善い神"だと云ったことはなかったの……」
環は自嘲気味に微笑んだ。
稲荷神を善い神だと勝手に認定したのは環だ。
では善い神となるのを諦めるのかといえば。
──それはできない。
環は即座に切って捨てる。どちらでもない中庸の神として世界を見守るには、環は世界を知りすぎた。
善い行いは奨めたいし、悪い行いは諌めたい。
善き神とは、「"善なる"神」になるということは、
つまり、善悪の物差しを信者の手から取り上げることを意味している。
──善しと信じた行いが、悪しと誹られることもある
「"善き神"とは、邪神になることも受け入れるということなのじゃな」
環は顔をあげて鴉を見た。
鴉の太陽光は消えていた。
§
(行け、と言えば榊は飛び込むのであろうな)
環は内心で考えて苦笑する。そして榊は鴉の反撃で殺されるのだろう。行いに対する覚悟を問うための因果応報だ。
「榊、下がれ。あれには敵わぬ」
「は」
御使いは追わなかった。
冷厳と燃えるような瞳で環を見ている。
「御使いよ。わらわは聖女に逢いたい」
──だめだ、と言ったら?
「どうしてもか?」
答えない。瞳だけが環を映している。
環はじっと見据えた後に、ふっと榊に目を向けた。
「帰るぞ榊」
「はい」
榊はボロボロに干乾びた身体を引きずって鴉に背を向ける。環に向かってくる。
固唾を飲んで見守っていたジンは、急な展開に目を剥いて環を見た。
「おい、試練を投げ出すのか」
「そうじゃ」
環は当然と応じた。
「しょせんは他の神。わらわを手助けしてくれると言うなら頼るが、恃みにしてはならぬと思う。わらわは導かれる者であってはならぬ」
目の前にやってきた榊を見上げて、
「……あっておるか?」
念の為に確認している、という表情を取り繕う。
榊は微笑んでうなずいた。
「ええ。その判断を支持します」
ちょっと肩の緊張を緩めて環はうなずいた。そしてボロボロの榊に手をかざす。
(──以前は、治癒に失敗した)
榊と出会ったばかりの頃。
重傷を負った榊の傷を癒やそうとして、どうしても叶わなかった。
(あれは、わらわが榊の無事を願ったからじゃ)
神は奇跡を恵む側だ。逆ではない。
環が、環の理由によって、榊に無事を授けてやる。それこそが神の──邪神のもたらす治癒だ。
「榊。祈れ」
「いつでも祈っております」
瞬間。榊の全身に淡い光が湧いた。
色の薄い、陽炎にも似た炎が榊の肌を撫でていく。消しゴムでもかけたかのように榊の傷が消え去った。
「──好し」
「有難うございます、環様」
榊はようやく目を開く。
灼けていたまぶたは以前と遜色なくまばたきができる。完全に怪我が治っていた。
環はホッとしたように相好を緩める。そして鴉に背を向けた。
「帰るぞ榊。用を果たせぬなら長居は無用じゃ」
「はい環様」
「お、おい! 本当に帰るのかよ……」
振り返りつつもジンは二人についていく。三人の影が岩棚を離れ、山を降りていった。
取り残された雅は御使いを見上げる。
「妾は会えるのか?」
ちらりと見下ろした鴉は翼を広げた。
熱のない無風の羽ばたきを打って、鴉は害意を見せず空の彼方へと飛び去っていく。
「……ふん。賢明なことじゃな」
平坦な声でつぶやいた雅は、人影のなくなった岩棚を見る。そして己の胸を撫でた──榊に押しつけた胸を。
「……ふん」
拗ねたように鼻を鳴らした。
§
山道を降りる榊たちを見つけて、セナは立ち上がった。フランも続いて腰を上げる。
「榊! 無事!? あの大鴉はどうなったの?」
「待っていたのか。先に帰っていればよかっただろうに」
「あんな鴉を見てのうのうと帰れるわけないでしょ! 試練ってなんだったのよ。戦い? それとも禅問答でもした?」
「あれは……何がしたかったのだろうな」
首を傾げながら下山する榊たちが、山道の入り口に立てられた二本柱の間を抜ける。
その瞬間、目の前に蜃気楼が立ち上った。
『みなさん、お疲れ様でした』
チーズを思わせる軽やかな金髪、ミルクを思わせる柔和な白い肌。
聖女サン=コロナそのひとだ。
サンは、労るように榊と環、そしてジンに目を向ける。
『御使い様から合図がありました。試練を乗り越えたあなたがたを神殿にお招きしましょう』
「えっ?」
声を上げた環。サンが心配そうに眉尻をさげる。
『どうかいたしましたか?』
「いや、わらわ、試練を途中で投げ出して降りてきたんじゃが……」
ええっ!? とどよめいたのはセナだけだ。
目を大きくしたサンは、しかしすぐに頭を振った。
『御使い様にもお考えがあってのことでしょう。御使い様はみなさまを許すとおっしゃっています。あなた方がお見えになるならば我々は歓迎します』
「妾も相乗りさせてもらうぞ」
雅が洒脱に榊にしなだれかかった。
どわあ、とジンが真横に現れた雅に驚いて飛び退る。
「どっから湧いた!?」
「失礼よの。図体の割に肝の小さい奴め。普通に歩いて追いついただけじゃ」
雅は環に噛みつかれないうちに榊から離れる。そして蜃気楼のサンを向いた。
「妾も御使いの許可を得た」
サンはおおらかにうなずく。
『山賊の守護神であっても、試練を乗り越えたなら客人です。歓迎いたします』
サンの言葉にセナこそ目を剥いた。
「山賊と知ってて受け入れるの?! 人質に取るつもりかもしれないわよ!」
『そうかもしれません。ですが、御使い様のご判断を私は信じます』
サンは軽やかに微笑む。
危機判断を放棄している、という様子ではない。そのうえで信に足ると決断している。
果断即決の態度に、セナは二の句を継げなかった。
榊は環を振り返る。
「環様。いかがされますか?」
環はしっかりとうなずいた。
霊峰のふもとから聖都の大神殿を見る。
「──征こう。せっかくの好機じゃ。恩恵に与らぬ理由もない」
好きなもの!
主人公にとってネガティブな真実を、否定しないで飲み込んで、だからこそ次に進める! って展開。
勝てない敵には勝てない。
不都合な正体を無化しない。
むしろ、「だからこそ」を求めていく。
そんな強さにグッときます。




