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環過去編(3)

 軍神の刀がわらわに向かって振り下ろされる。

 寸前に、指を向けた。


「燃えろッ!」


 男の眼前に火焔が翻る。

 男は目を見開いて、機敏に炎を避けた。焦げ付いた服の袖を払っている。その渋面を笑う。


「あいにくじゃがな。ただでやられるほど、弱い神格でもないのじゃよ」

「獣風情が」


 男は忌々しげに吐き捨てた。


「おまえはなんの神だ? なんの権能があって俺の邪魔をするつもりなんだ」

「むぐ……」


 口ごもった間隙に鉄の刃が差し込まれた。体をひねって危うく(かわ)す。

 すぐ目の前を駆け抜けた刺突の刀が、眼前で刃を返す。斬られる前に狐火を炸裂させて吹き飛ばした。熱の余波で鼻頭がヒリつく。

 男は舌打ちしながらも弾かれた刀の勢いを逃がす。

 間合いを取った男への追撃の手を、伸ばせなかった。


「わらわは――」


 何者かと問われれば、何も答えられない。

 神としては半人前で、ご利益も権能も、逸話さえも何もない。日本の土地に根づいてすらいない。

 だが。


「人が悲しむのは(キラ)いじゃ」


 ひとつだけ、はっきりしていることがある。

 神なるこの身にも願いがある。"より良くしたい"と抱く意志がある。


「人を(おびや)かすことは、わらわが許さぬ」


 わらわは、稲荷様に憧れている。

 彼女のように優しく温かい『善い神』に――なりたいのだ!


「人の安寧はわらわが守るッ!」


 男はピクリと片眉を上げ、口の端を上げた。剣先をわずかに上げる。


「へえ? じゃあ、どうするっていうんだ。なんの神でもないおまえが!」

「わらわは、わらわは……!」


 手のひらに生んだ炎を火の粉と散らす。

 顔を上げると、眼前に迫る男の刀。

 動かぬまま狐火の爆発で剣戟を逸らす。が、


「同じ手を食うか!」

「うひぃ!?」


 旋回した男の横薙を仰け反って避けた。後れ毛がいくらか持って行かれた。たまらず狐火をデタラメに起こして牽制して飛び退る。


「こんな手品で止められるものかよ!」


 たまげた。男は燃え盛る炎を踏み潰して追ってきた。


「えぇ……? 熱いじゃろ!?」


 狐火や人魂のように生成しているこの火は、熱いし燃える。神でもなんでもお構いなしに焼く。

 おそらく生前、火事やら炎やらに縁があったのだろう。

 男は皮肉っぽく笑う。


「地獄の業火の予行演習だと思えば、ぬるま湯みたいなもんだ」


 呆れた。要するにヤセ我慢なのだ。

 土手の斜面に立ち止まり、男に相対して構える。あやつの足は日本人離れして長い。逃げても一方的に追いつかれるだけだ。ケンカなんてするもんじゃないの。

 刀を構えて姿勢を落とす男に声を向ける。


「どうして、そこまでするのじゃ? 邪神になりたいわけでもなかろうに」


 他者を害するのが好きというガラではないのは、短いやり取りでも充分に伝わる。

 男は無理やり唇を歪めて笑った。


「いいや、なりたいのさ。中途半端に庇護するくらいなら、自分の本分をハッキリさせたほうがいい。俺は戦寄りの権能だ、人を殺して名を上げるのが俺の在り方だ」


 ムカムカする。やりたくもない悪行にどうして責任感を持ってしまうのか。

 やりたいことはもっと他にあるのだろうに。たとえ力及ばずとも、その微力を尽くしたい願いがあるんじゃなかったのか。

 むかっぱらが立ってきた。


「わらわは、お前みたいのが相当に嫌いじゃ!」

「奇遇だな。俺もだ」


 男は刀を振って正眼から上段に構えを移し、傾けた刀を強く握った。たたっ斬る構え。男が笑う。


「だが……おまえと話すのは、嫌いじゃなかったぜ」


 はァ?

 唖然とした。さんざん斬り結んで、果し合いが進んで、この期に及んでなにを()かした?

 堪忍袋の緒が切れた。


「き……さまは……! 自分が何をしたいのか! ハッキリせんかぁあああああ!!」

「そっくり返すぜ、なんの神でもない狐!」


 魔法のような縮地の歩法で男がいきなり眼前に迫る。刀が風を縫って振るわれる。面打だ。


「喝ァ!」

「うわっ!?」


 叩き折った。

 爆炎で加速させた手刀で横合いからぶっ叩くと、刀はあっさりと打点で折れて吹っ飛んでいった。

 破片で頬を切る。目を閉じずに男を見据えた。

 構造上強い武器じゃないというのは、男も自ら語ったところだ。どうやら真実、合戦向きじゃないらしい。そんな思考を流しながら腰を落とし半身に構え、勢いの余った男の懐に肩をぶち当てて襟をふん掴み、投げる。

 男の長い足が空を巡って土手に叩きつけられた。


「かは……っ!」


 呼気を漏らした男だが、機敏に体を返して手を振り切った。土手を転がり落ちていく。間合いを取られた。


「あまくみるなー!」

「くそガキが!」

「ぎゃふん!」


 追撃で飛びかかったが、中腰の男にいなされた。一本背負いで土手に投げ捨てられ、ごろんごろんと首と背中が痛んで目が回る。

 ばあんと冷たい粘体が顔を包んだ。仰天したが、キーンと痛む耳と鼻から水だとわかった。川まで転がり落ちたのだ。ふらつく頭でなんとか立ち上がる。砂利がヌメつく。

 ビシャビシャと落ちる水も、びったりと重たく肌に張り付く髪も構わず、叫んだ。 


「知らんわ!」


 折れた刀を手に土手を滑り降りてくる男を、かっかと熱い双眸で睨みつける。


「わらわがどんな神なのかなんて、わらわが聞きたいわっ!! 本分だのご利益だの、ンなしち面倒臭いことなんか知ったことか!」


 逆ギレだ。だがわらわは悪くない。こいつが悪い。


「とりあえず今! この状況ではなあ!」


 火焔を全身からほとばしらせる。水蒸気でむあっと空気が膨らんだ。歯を剥いて男を見据える。

 矢尽き刀折れ、なおも戦おうとする、かつて神だった成れの果て。


「お前をとっちめるのが、いっちゃん手っ取り早いんじゃ――!!」


 水蒸気爆発に乗った踏み込みで、

 振り下ろす刀の柄を押さえこんで躱し、

 ぎょろりと鋭い目を(みは)る男の鳩尾めがけて拳を握り、


「ばーーーーーーか!!」


 渾身の力で打ち抜いた。

 男は飛んだ。




 §




「環」


 夕食の席。湯豆腐を前に、すりむいた鼻や腕のカサブタが気になって撫でていると、稲荷様に声をかけられた。


「信者は欲しいですか」

「えぇ……?」


 予想外すぎて返事ができない。

 てっきり氏神とケンカしたことを怒られるのかと思ったのに、稲荷様は今の今まで話題にもしない。それがかえって恐ろしくて、帰ってからずっと落ち着かない。食べ始めて今も砂を噛むようで味がせぬ……。

 ともあれ信者?


「それはまあ、いないよりは、いたほうが」


 神ならば信者は必要だ。祈りと願い、そこに込められた力のひとしずくを(すく)うことで、神威の権勢は保たれる。

 誰にも信じられない神など、そこらの精霊と変わらない。

 稲荷様は湯豆腐に出汁を継ぎ足しながら唇を揺らす。


「私が間違っていました。環、あなたには自分のなかにしっかりと抱く理想がある。神としての己を確立するためにあなたに必要なのは、思索ではなく行動でした」


 よく考えて、と促していた稲荷様がそんなふうに言って微笑んだ。

 箸をくわえて止まってしまった。もしかして、ちょっと褒められた?


「くわえ箸」


 ピシャリと叱られた。そうじゃった、箸をくわえるのはマナー違反じゃ。

 でもそうすると、稲荷様から見てあの氏神とケンカしたことは、怒るほど悪いことじゃなかったのか。なんだか面映ゆくて畏れ多い。


「ケンカはいけません」

「考えが読まれておる?!」

「見ればわかります。あなたの落ち着かない耳と尻尾を見れば」


 んばっと尻尾を膝の上に回してつかむ。ムズムズしてすぐに放した。ふりふりと振ってしまっている。

 呆れ顔の稲荷様は気を取り直すように咳払い。


「ともあれ、彼が道を誤らずに済んだのは、あなたが体を張って引き止めたおかげです。褒められた手段ではありませんでしたが、彼との交流を通してあなたも成長できたようですから。今回はお目こぼしをしているだけです」


 話題にしないことこそ答え、ということだ。

 なるほどと思い湯豆腐を頬張った。昆布だしの淡い塩味に豆腐の甘みが引き立てられて、極めて美味。トロトロの絹ごし豆腐に頬が綻んでしまう。醤油や薬味がまた格別よな。

 表情を緩めた稲荷様は、袖に手を添えてお代わりの豆腐を鍋に沈める。


「あなたは、あなたがどうなりたいか、自分で見定める必要があります。私のようになりたいのなら、それも結構。あなたは日本の神ではありませんし」


 稲荷様はすまし顔だ。日本じゃないからってアリなんだろうか。稲荷様の分社がわらわの世界に立つだけなのでは。

 豆腐おいしい。


「いずれにせよ、あなたはもう一度、今度は神として世界を見る必要があるでしょう」


 んくっと熱い湯豆腐を飲み下す。

 生前の記憶はほとんどないが、薄ぼんやりとした印象は残っている。それを神の立場からあらためよと。


「……つまり旅でしょうか」


 こくんと顎を引く稲荷様。

 三蔵法師みたいなものか。仏法の原典を天竺まで求めたように、わらわは己自身の神性を確かめる旅にでるのだ。


「ちょうど、あなたに相応しいと見込んでいる人がいます。誠実な、信頼できる男です」

「なんと」


 稲荷様にそうまで言わしめる人間が存在するとは。

 見込んでいるということは、まだ常世に渡っていない……今まさに生きて仁徳を積んでいる途上なのだろう。それであまねく日本を見守る稲荷様のお目に留まるとは、一体どんな傑物なのか。

 わらわの顔の少し上あたりを一瞥した稲荷様は、ちょっとだけ気まずそうに唇を尖らせる。


「あまり期待しないでください。とくに気高くもなく、わりと生きぎたなく、さして善人ではありません。いえ、信頼はできますよ」

「……信頼できるんですかそれ」

「……ええ、まあ。行動が一貫しているという意味で、信頼することが可能です」


 なるほ……ど……?

 さすが、日本の神は慎み深い。わらわには言わんとすることがよくわかんない。


「彼が浄土に渡る際にもちかけてみるつもりです。まだ若いのでしばらく先になると思いますが」

あいわかりました。委細滞りなく仕度致します」


 稲荷様は「期待するな」などと仰るが、その彼女の目に留まる人物だ。期待せずにはいられない。

 見たことのない人だけれど。旅の伴を請けてくれたらいいな。

 そんな祈りを心に捧げて、尻尾で畳を叩いてしまう。


「彼が死にました」


 稲荷様が旅立ちの報せを仰ったのは、その二日後のことだった。

 好きなもの!


 ヤケになって吹っ切れることで、一番根っこの動機がハッキリする展開。熱い!

 迷える優しい女神にも、川原で殴り合った過去があるというのもエモいポイントですね。

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