環過去編(2)
「戦か」
ぼんやりと夜空を見上げる。
ぽっかりと夜の真ん中で光る月はまばゆく、星の海にあって輝きの輪郭が際立っている。
男は言うだけ言ってさっさといなくなってしまった。あれからどうにも気になって、夕食後になってもモヤモヤしたまま。こうして縁側で月見に耽る羽目になった。
「どうしましたか」
「稲荷様」
稲荷様がおはぎを置いて隣に楚々と腰を下ろした。大和撫子そのものじゃな。
「稲荷様。戦というのは、どういうものなのでしょう」
戦、とは要するに殺し合いだ。人を憎み、嘆き、怒って恨む。なにも健全なことはない。
しかし、他ならぬ稲荷様が仰ったのだ。「戦争も人の営み」と。その意味が、どうしても分からない。
稲荷様は微笑んでかぶりをふった。少し寂しそうに。
「戦は人にとってとても大切な営みの一つです。その存在は否定できるものではありません」
「えっ」
バタバタと狐耳を振った。耳を疑う。この平和と博愛そのもののような女神の口から、戦は大切?
支持しているわけではありませんよ、と念押ししたうえで、稲荷様は教えてくれた。
「戦は人の持つ『向上心』や『競争心』そして『仲間を思う気持ち』そのすべてがない混ぜになった結果のものです。戦から生まれた技術は数知れず、絶えざる発展の一助となってきました」
「なんと……」
「あくまでも歴史的に見れば、ですけれど。最近の戦争はあまり善くないようです。磨かれる技術は、人間の生得的特性を悪用した『人命の消費』というべき経済活動ばかり……」
稲荷様は苦しそうに笑って誤魔化した。
「すみません。環には、あまり関係のない話でしたね。要するに戦は、人が人であるからこそ起こるもの。無視することはできません」
勧められ、曖昧な気分のままおはぎを頬張った。
甘く柔らかいもち米と小豆の甘皮がふわりと歯に弾ける。しっとりと重い甘さを舌に転がして、夜空を見上げた。
日本という土地は、台風や地震の備えを考えずに生きることはできない。おそらく戦はそれと同じ。自然なことなのだろう。
戦は人にとって重大なものなのだ。
いい意味でも、悪い意味でも。
「ありがとうございます、稲荷様。理解できたような気がします。まだ納得はできませんが」
「それで良いのです。世のすべてを受け入れる必要はありません。より良い形にしたいと、望むことこそ力なのですから。それで――」
稲荷様は優しく微笑む。
「あなたにそのような思慮を促した方は、どなたなのですか?」
見透かされているようで少し照れる。
「村で出会ったのです。武家の氏神と申しておりました」
「氏神……ですか?」
稲荷様は端正な顔を怪訝に曇らせた。
「それは妙ですね。神無月でもないときに、氏神が土地を離れるなんて」
§
「のう、氏神よ」
「……なんだ。またおまえか」
男は堤防の土手に寝転がっていた。
川の湾曲に沿って盛り固められた斜面が雑草に覆われて緩やかに広がっている。
男はぎょろりとした目を動かして億劫そうに体を起こす。隣にしゃがんで声をかける。
「いくつか、聞いてもよいか?」
いなされると思ったが、服についた雑草を払いながら男は意外な返事をした。
「構わねぇよ。おまえと会うのも今日で最後だ」
「ほう? それはまた何故じゃ」
「いくつかあるが――」
傍らに置いていた刀を取ると、漆の鞘を撫でて笑う。
「俺は神様から足を洗うからな」
男を見る。詰め襟の肩をすくませて男は飄然としていた。
「で、聞きたいことってなんだ」
「ううむ、ええとな」
問い詰めたかったが、このお人好しの親切が品切れになる前に聞き出しておかねばならない。考えておいた質問をぶつける。
「おぬしは戦をどう思う」
「どうって、なにがどうなんだ。漠然としてるな」
「つまりじゃな。人を殺してまで求めることを良しとするのか、じゃ」
「愚問だな」
男は鼻を鳴らした。
「俺は神格が低い、辺境武士の氏神だ。そういう邑の世界で何が行われているか知らないか?」
「知らぬ」
「生存の合理化だよ。病気を持ち込む余所者は排斥する。盗みや殺人を働くものは殺す。働けなくなった者は捨てる。だが、多様性を担保しうる有益な余所者は手厚く保護し、集落全体で緊密に協力し合う。──すべてはムラを存続させるためのシステムだ」
村八分や姥捨て山などに代表される、ムラ社会独特の閉じた文化だ。高度経済成長以降の家族モデルとは前提から違う。
そう言って、男は座ってなお高い長身から、見下して笑う。
「自分たちが良く生きるために邪魔な相手など、殺すことになんの躊躇いもない」
冷徹なはずの言葉だが、不思議にすとんと腑に落ちた。
彼は氏神だ。氏子を守ることに死力を尽くす。それがこの男の有り様なのだ。
軍神に近しい権能なら、氏子の無事を戦って得ることは当然の帰結なのだろう。
「だから、おぬしは特攻隊の隊員にご利益を与えたのか?」
「そうだ」
「……すまぬ。問い方が悪かった。改めて訊く」
男の目をしっかりと見つめて、人のそれと同じ口を動かす。
「無事を祈る家族の願いは、お主では叶えられなかったのか?」
男は顔を歪めた。
もしかしたら、笑おうとしたのかもしれない。だがその試みは失敗していた。
「いいや」
男は唇を引きつらせて、唸るように声を絞る。
「叶える願いは俺が選んだ」
氏神が、氏子を死なせる選択した。
抗っても結果は変わらないのかもしれない。家族が息子の無事を願っても、この氏神では叶えられないのかもしれない。特攻隊員が真摯に武勲を祈ったのかもしれない。
しかし、この神は。
「俺は氏子を守ることを放棄した」
己の職分を捨てて、力を振るうことを選んだ。
「あれ以来、俺の神格は右肩下がりだ。武家は血筋が死に絶えて廃絶。限界集落になった土地も、先の大型台風を期に最後の家族が引っ越して山野に還った。だから俺がここにいる」
「……では、最後の質問じゃ。おぬしは、この後になにをするつもりじゃ?」
男は凄絶に笑った。
鯉口を切る。
「いくつかあるが――まずは、余所者を殺す」
「っくぉ!?」
紫電一閃、冴え冴えとした鉄の輝きが風と雑草を裂いて鼻先をかすめる。飛び退っていなければ頭の上半分が飛んでいた。
「ぉお……! そう来ると思って構えておったのに、危うく反応できんところじゃった!」
「反応できるとは思わなかったな」
男は鼻を鳴らして刀を正眼に構える。土手の斜面に片膝を立てた不安定な姿勢なのに、肩はどっしりと水平に安定している。
笑おうとしたが、おそらく引きつって失敗しているじゃろう。男の戦意は本物だ。冬の朝露のような冷徹さが通底している。
「まったく……そんなにわらわが気に入らぬか?」
「言っただろ。獣臭いんだよ、おまえは。よその土地の獣はどんな伝染病を持ってくるか分かったもんじゃない。まして、地球でさえないのなら尚更だ」
「世間の風当たりは冷たいのう」
冗談に男は笑わなかった。
いつでも飛び退れるように重心を整えながら問う。
「わらわを殺したとして、その後はどうする?」
「さあな。いくらか神威を奪って格を上げたら現界する。せっかくの権能なんだ、存分に発揮するさ」
やはり、そうなのだ。予想通りすぎて泣きそうだった。
信者を食い物にして権能を振るった。この男は、もはやそういう神なのだと自分を決めてしまったのだ。
信仰心を私欲のために扱う神――邪神と呼ばれる存在だと。
この男は氏神であることを諦めてしまった。
「たわけじゃな……」
「同感だ」
刀が鞭のように揺れて、しなやかに一閃を振るう。
好きなもの!
悪になることを自ら選ぶタイプの敵。
自ずから嫌なやつより葛藤が深くて好きです!




