榊、宿屋の厄介になる
「ごめんください」
宿屋の門戸を叩いた男は、ひどい風体をしていた。
イージージャケットやデニムは泥だらけのうえ、靴や裾は汚水に濡れている。下水のかび臭い悪臭が頭のてっぺんからつま先まで臭っていた。
男は背中に小柄な少女を背負っている。往時なら柔らかく鮮やかだろう稲穂色の髪は汚泥がかかり、白い巫女装束も汚水まみれだ。
「うぅ……臭い……くしゃい……うぐ、ひっく」
男の背中に顔を押し付けて、少女はすすり泣いていた。
あまりにも。
それはあまりにも臭すぎた。
「門番にご紹介いただいた宿屋は、こちらで正しいでしょうか。ゴブリン退治を終えたので、お風呂をお借りしたいのです」
榊と環の惨状だった。
-§-
話を通してくれていたようで、民宿の女将は真っ先に脱衣場に二人を通した。
一部屋割り当てられた脱衣場は板張りの床と格子状の棚、洗面台などが揃っており、やや手狭なことを除けば銭湯そのもののようだ。
板の引き戸を開けた榊はうなる。
「浴場は一つしかありませんね」
「これだけ広ければ問題なかろ。早く流してしまおう」
と言って、榊の下から浴室を見た環はさっさと腰紐を緩めた。
「おぬしも早う入れ。染みついたら大変じゃ」
「はっ……いえ……んむ?」
柄にもなく戸惑う榊を見て、環は「あ」と手を止める。
「すまぬ、一緒は気になるほうじゃったか? ならばわらわは後でよいが」
「まさか。環様を後に回すなどありえません。……環様がよろしいのなら、お背中お流しいたします」
「わはは。裸の付き合いじゃな。聞いたことあるぞ」
環は屈託なく笑って小袖を脱ぐ。丸めてカゴに収めると、肌襦袢にも手をかけた。なにも気にしていない態度だ。
しばらく環の背中を見ていた榊だったが、振り返って背を向けて、
「……では、失礼して」
服を脱ぎ始めた。
肌襦袢を羽織った姿の環は、首から下げていたえんじ色の巾着を持つ。稲荷神社の刺繍が入った稲荷様のお守りだ。中からから木札を引っ張り出した。
焦がしたての臭いが煙る焼き印は、相変わらず100ptと刻まれている。
環は弱ったように耳を伏せた。
「ドラゴンもゴブリンも解決したのに、ぽいんとが増えぬのう。徳が積み足りぬのじゃろうか」
「信仰ポイントですか」
上半身裸に脱ぎながら榊は思い返す。
稲荷神は確かに善行を積んでポイントを溜めろと言った。だから環は冒険者を選んだのだ。人々の困りごとを手伝うために。
だが同時に稲荷神は榊に言った。「口だけの信仰告白も、形だけの礼拝も意味がない」と。
「そのポイントは単純な善行の数ではなく、信仰の集まり具合なのではありませんか」
「信仰の?」
「ええ。その100は私ひとりぶん、ということです」
ポイントの単位がもともと不明瞭なため、多いのか少ないのかわからなかった。だが榊一人で稼げる点数なら、決して高い数値ではない。
「んん、そうかもしれぬ。であれば、布教活動ということになるのか?」
「信者を増やすのは……少し大変かもしれませんね」
榊はつぶやく。
「記憶がなく、ご神徳に自覚がないのでしょう? なんのご利益があるかわかりませんが信仰してくださいとは、とても」
「うあ。そーじゃなぁ」
くしゃっと困り顔で環が嘆いた。
稲荷神の五穀豊穣や商売繁盛など、現世利益だけが神ではない。仏教やキリスト教のように、生きる心構えと死後の利得を説くのも宗教だ。だが環は何もない。
だから、今の環のまま布教に血道をあげるくらいなら徳を積めと、稲荷神はアドバイスしたのだろう。
「神格かぁ」
肌襦袢を脱ぎながら、環は天井を振り仰ぐ。
「わらわは、何者なのかのう……?」
その答えを榊は持たない。沈黙を守るしかなかった。
「先に入っておるぞ」
環がひと声かけて浴室に入っていく。
榊は下着を残すかどうか迷った末、
「汚水が染みているからな」
パンツを脱いだ。
タオルは巻いた。
浴室は丸石に木材で壁を張った素朴なもので、洗い場と檜の浴槽があるばかりのシンプルなものだ。シャワーはなく、洗い場に据えられた樽に湯が流れ込んでいる。
小さな背を向けた環が木桶でザバリと湯をかぶっていた。
「ぶふぅー! うへぇ、ヌメヌメしおる」
「環様、お流しいたします」
「お。では頼む」
環は笑った声を上げ、裏返した桶に腰掛けた。
幸い洗い場に鏡はない。背中を覆い隠す濡れた長髪と、ちょこんとはみ出した細い肩。腰から垂れる狐尾が榊の見える全てだった。
手桶に湯を汲むと、環の頭に傾けて丹念に湯をかける。伏せられた耳が落ち着かなげにムズムズと揺れていた。
固形石鹸で頭髪用と体用が網に入って壁にかけられている。榊は頭髪用を手に取って、丁寧に丁寧に泡を立てる。きめ細かく、角が立つように。
「いや、ずいぶん時間かけるの」
「すみません。では、失礼いたします」
じゅうぶんに泡立てたことを確認すると榊は恐る恐る環の頭に指を触れさせた。
水を吸った環の髪はコシが強く、芯のしっかりした髪質が指に絡む。脂のにじんだ髪を揉みほぐし、指の腹で泡をなじませていく。
「んん、くふ。ばか丁寧じゃな」
「かゆいですか?」
「いや、気持ち良いぞ」
その言葉を裏付けるように、環の耳はのびのびと垂れていた。泡が耳に入り込まないよう細心の注意を払い、榊は環の髪を優しく揉み洗いする。
まるで赤子を洗うような繊細な手つきで榊は、
(――嗚呼――!)
髪を揉むごとに至福の表情で足を震わせている。
(おお、神よ! ――世界は美しい!)
感無量な声を押し殺して、指使いに一分の乱れを伝えることなく感激に打ち震える。
背後の事態にまるで気付かない環は呑気なものだ。
「毛先のほう、よく洗ってくれ。下水についてしまったからの」
「仰せの通りに」
無警戒に頭を許している。
榊は下心など微塵もない、我が子を慈しむよりも愛情深い手つきで全裸の環を洗髪している。タオルに揺れも緩みもない。
だからといって危険性は変わらず、別ジャンルの危うさがあった。
(環様、万歳! 稲荷様に栄えあれ!)
「んむ……?」
ぴくりと環の耳が揺れた。
「なんじゃ、うなじがむずがゆい」
「このあたりでしょうか」
榊はすかさず指を添えて優しく掻く。
だが環の尻尾は粟立った。
「ふおぁ、なんじゃ? 離せ!」
慌てて離れる榊。
榊の触れた場所を拭うように、環の細い指が玉肌を手繰る。
「すまぬ。なにやら悪寒がするようになったの……? んん、榊、後は自分でやる。背中流すのはまた今度じゃ」
「はい、わかりま」
半歩動いた榊の足が滑り、突こうとした手は石鹸まみれで大いに滑った。膝を強打する。
「……っ、っ! っ!?」
「今すごい音が――むあ、泡が! 泡が目に入った!!」
声もなく苦悶する榊を他所に、環はきゃあきゃあと悲鳴を上げて手桶を探す。とても榊を振り返る余裕などない。
榊は床に這ったまま、すべて悟ったような声を漏らした。
「霊験あらたかなる稲荷大御神、御方のご威光は未だ健在なり……」
「なにをつぶやいておる?」
「すみません環様、所用ができました。先に出ています」
「お、おう? 後でちゃんと洗うんじゃぞ」
榊の祈りは通じたのだろう。然るにこれは天罰である。
神は奇跡を示されたのだ。
-§-
環が上がるのを待って、榊は風呂を済ませた。湯上りの榊はゆったりとした浴衣にスリッパを突っかけ、宿の奥にある広間に入る。
大きな調理台を備えた台所には勝手口があり、土間が広く半地下のような形で作られている。環はその土間に据えられた桶で服を踏み洗いしていた。やってきた榊に気づいて耳を揺らす。
「おぉ榊、あがったか」
「環様、なにをしておられるのですか!?」
怒鳴られて環はびっくりした。
「え……洗濯じゃけど」
「環様のおみ脚を汚れに浸すなどとんでもない!! ただちに片付けます。環様はどうぞ、もう一度入浴してくださいませ」
「そ? そうか?? そこまで言うなら任すが、風呂はもういいかのう……」
縁框に腰掛けた環は、思案げに台所を見上げる。
「夕飯の支度でも手伝おうかの」
浴衣の裾を折り上げていた榊がギュルンと血走った目で振り返った。
「とんでもない! それも私が!!」
「えぇー……? じゃあ、えっと、どうしよう」
「どうぞお休みになられていてください。一日ずっと山を歩かれてお疲れでしょう」
「お主が言うのか?」
山歩きに加えてドラゴンやゴブリンとの戦闘を果たした男を環は半眼で眺める。
「そうですよぉ。夕食の支度は任せてくださいな。そのお代は頂いてるんですから」
榊の背後、廊下から入ってきた女性がふんわりと声をかけた。
三十路に差しかかった頃合いながら肌は整って若々しく、黒髪をお団子にひっつめて浅葱色の着物に割烹着を重ねている。化粧っ気のない顔にホワっとした笑顔を湛えて、環にコロリと小さな球を手渡した。
「はい環ちゃん、お着物の汚れ取り。お天道様の祝福つきだからキレイになるわ」
「おぉ、ありがたい。かいめんかっせいざい? がないみたいじゃからのぅ。難儀しておったところじゃ。ほれ榊」
「は。では引き継ぎます」
球を沈めた桶にじゃぶじゃぶと踏み込んでいく榊に、女将は小さく首を傾げた。
「冒険者さん、さっきは大丈夫でしたか? 地震。お風呂で転んだりしませんでした? 晴れているのに急に雷も鳴って、わたしびっくりしました」
服を踏んでいた榊はハタと止まる。
「それは、申し訳ございません」
「……? なぜ冒険者さんが謝られるのですか?」
「私が湯上がりの環様のお召し替えを手伝いましたので」
「???」
微笑を保ったまま困惑する女将。床の縁に腰掛けて足をブラブラさせている環と顔を合わせた。
環は慣れたもので平然としている。
「たまに、よくわからない男なのじゃ」
「そ、そう……?」
懲りるということを知らない榊は顔を上げて彼女を見る。
「夕食を準備いただけるというのは」
「ええ、はい、任せてくださいな。門番くんの紹介ですもの、腕によりをかけちゃいます」
「門番くん?」
環は繰り返して首を傾げたが、榊は気づいた。なるほど、よくできている。この女将と門番は宜しくしていて、宿に当てのない旅人を紹介しているのだ。
しかし、それでも繁盛しているとは言えず、ゴブリン退治の支援をしていても今日の客は榊たちしかいない。冒険者が不足しているという話は深刻なのだろう。
それはそれとして、いい年をした男をくん付けで呼ぶのはどうなのか、と榊は口を開いたが、個人の自由だと思い直して口を閉ざした。
「さて、それじゃあお夕飯の支度をいたしますね……」
と女将が立ち上がり、
「ぐぷ、こほッ! ごほっ! けほっ!」
突如として激しく咳き込んだ。
背中を丸めながらも、慌てた榊たちに片手を向けて制している。
「けほっ! んん、こほん。ごめんなさい。急に大きく動くと咳が出ちゃって」
「風邪かの?」
「そんなようなものかな……大丈夫ですから。構わないでくださいましね」
「よいと言うのなら、そうするが……」
心配だと顔に大書して環はおろつく。
「ふふ、大丈夫ですよ。あ、ところで」
台所に向かいかけた女将は、手を合わせて振り返った。こみ上げたのか、小さく咳払いをしてから、二人を見る。
「明日のお着物、ありますか?」
「あ」
環は青くなった。
榊が平然と言う。
「この一着をお貸しいただければ。環様のお召し物は明日なんとかします」
「えっと……さすがに、寝間着を貸すのはちょっとぉ……」
女将は困惑したように言う。榊はさほど驚きもせずうなずいた。
地球でさえ産業革命が広く浸透するまでは着物は貴重品だった。
この世界はどうも機械生産の版図は広くない。服を織る繊維は昔ながらの手作業か、それに類する生産体制なのだろう。着物は貴重品なのだ。
「蔵の方に古着があるから、それをお譲りしましょうかしら。市に出すつもりだったのだけれど、どうせなら知っている方に使っていただきたいわ」
「ありがたいのですが、しかしそれは申し訳が立ちません」
「お気になさらず。どうせ手放すものですから。お代は今後もご利用いただくということでどうかしら」
にっこりと微笑む女将に、榊は顔を曇らせて環を見る。
環は目をぱちくりとさせてやり取りを見守っていた。稲荷神のお膝元でいっぱいに庇護を受けて過ごしたから、客のない旅館が貴重品を友人でもない客に譲る異常性を把握できていないのだ。
純真な目を受けた榊は女将を振り仰ぐ。
「では、女将さえ宜しければ後払いにしていただいて、買い取ります」
「ふふ、はい。分かりました。お優しいんですね、冒険者さん」
「まさか、とんでもない」
榊は微笑んだ。
「優しいのは環様です」
好きなもの!
本編を見てくれ……それでわかる……
NOタッチは不文律だぜ、紳士諸君?




