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環過去編(1)

「泣いているのですか」


 目を開けると、白い衣に覆われた双つの豊球がある。その向こうに女性の細面があった。整った容貌に茶色の虹彩が凛と際立っている。

 美人がいた。

 ぱちくりと瞬きをして美貌を見つめる。後頭部で髪を押し上げる暖かい太ももの感触。はたりと狐の耳を動かすと彼女のお腹に触れている。

 膝枕をされている。

 わらわは人間のそれと同じ口を動かした。


「わあ」

「わあ、とはなんですか」


 まったく、と呆れた稲荷神が背を伸ばす。薄衣の羽衣にくるまれた豊満な胸が遠ざかっていく。

 わらわは寝ていたらしい。

 膝枕からむっくりと起き上がると、自分の手が視界の端をかすめた。

 両手をじっくりと眺める。

 きめ細かに張った白い肌。毛がなく、うすい爪が指先を覆い、手の甲に指の筋が浮いている。人間の、子どもの手。

 羽衣の裾をはたはたと直しながら、稲荷様は小首を傾げる。


「なにか、悪い夢でも見ましたか?」


 はてと首を傾げながら頬をぬぐって、指が濡れたことに驚いた。

 涙の流れた跡がある。


「……よく覚えておりませぬ」


 夢を見た、のだろう。内容は忘れ果てた。判然としないが、ただ力不足と悲しさに閉ざされた漠然とした感覚だけは残っている。

 昔のこと……だと思う。

 わらわは稲荷神御ご自身の手によって、神の座に魂の階梯を引き上げられた。俗世の狐であったころをいまひとつ覚えていない。必要でもないのだろう。

 手から顔をあげて外を見る。


 武家屋敷のような立派な庭園には鹿威しのある池や松の木があり、しっかりと角を切り揃えた垣根の向こうに雄大な山の稜線がかすんでいる。朝の青が爽やかに空に広がっていた。


 はて。

 なぜ稲荷様のお膝で寝ておったのであったか。

 隣に座る稲荷神は小さく首を傾け、答えをくれた。


「……朝ご飯にしましょうか」


 寝足りない朝、朝食を待っている間にうとうとしてしまったのだ。



 神に食事は必要ない。

 神として定着すれば食事も必要なくなるらしいが、まだ生き物の感覚が抜けていない。気分だけの飢餓感に苛まれる。

 まだまだ、神としての位は低い。


 頂く朝食は日本食そのもの、焼き鮭に味噌汁にお漬物。炊き立てのご飯は一粒一粒がふっくらと立っていて甘くておいしい。さすが豊穣の神を兼ねるだけあって、稲荷様は料理上手でもあった。

 居間の畳に、ちゃぶ台を介して向かい合って舌鼓を打つ。稲荷様は料理上手で料理好きだが、お世話になりっぱなしも困ったものだ。


「環」

「むぐ」


 口に含んでいた最後の一口を慌てて飲み込んで顔をあげる。名を授かってしばらく経つが、まだ慣れない。

 稲荷様は目を伏せて上品に箸を揃えながら、薄く唇を震わせた。


「そろそろ、決まりましたか? あなたはどんな神になりたいのか」


 返事に窮して、誤魔化すように鮭の骨に残った筋を選り分ける。その質問は難しい。

 答えは決まっている。「稲荷神のような善い神」だ。

 でもそれは「自分自身」という神ではない。稲荷神になりたいのなら、独立した神でなく、稲荷神に神威を返して習合してしまえばいいのだ。事実、現代の稲荷神はいくつもの権能を取りまとめている。

 ふう、と息を吐いた稲荷神は正面からじっとわらわを見つめた。


「環」


 観念して箸を置き、襟を正して視線を受ける。


「あなたは人に、人の世に、どんなことを為したいですか」

「……善いことを」

「たとえば、どんな?」


 困る。良いことは良いことだ。悪いことをしないことだ。

 でも稲荷神は半端な答えを許してくれないだろう。

 すうっと背筋を伸ばした稲荷神は、後光さえ差すような凛然とした居住まいで言葉を紡ぐ。


「ひとの信仰こそ神の本質です。そしてひとは、神威や利益のない神を崇めはしません」


 稲荷神はもとは秦氏の氏神であり、時代が下るとともに信者とご利益の範囲を広めていって、日本を代表する神の一柱にまで至った。まさに神道を体現する神だ。


「ええと……たとえば、人々が安心して暮らしを送れるような」

「どんな暮らしですか? 農業? 商売? 戦争さえも人の営みと言えましょう」

「えぇ……? それは、安心して眠れるような、その、ううんと」


 困惑していると、稲荷神は苦笑して頭を振った。


「意地悪をしました。すみません。ですが、大事なことです。どうか、よく考えていてくださいね」


 きっと、ちっとも意地悪ではないのだろう。

 わらわは自分を決めかねているのだ。


 §


「うぅん。分からぬのう」


 食後の腹ごなしを兼ねて、表の参道を散歩する。

 なんとかいう常世の国で俗世からは隔たれており、今でも古い日本の原風景らしきものが広がっている。稲荷神はこの光景を指して「古臭い時代に取り残された望郷の写し絵」などと不満げだ。さすが最先端の経済界に信仰される商売の神だと思う。

 でもわらわは好きだ。緑の豊かな山も、土を踏み固めた素朴な道も、黄金の稲穂揺れる田園風景も。


「お、新入り神じゃん! おーす!」

「おーしゅ!」


 (わらべ)たちが泥遊びのなか手を挙げてくる。手を振り返して挨拶する。元気なものじゃ。

 彼らは幼くして死に、再び現世に戻るのを待つ子どもの霊たちだ。幼い子どもは半神であり、見えざるものを見るという。これでもかなり数が減ったと、稲荷神に教わった。

 通り過ぎようとして、ふと思い立って振り返る。


「のう、おぬしら」

「ん? なんだよ狐神」


 狐の神ではないが、わらわは稲荷様の神使と眷属を合わせたようなものだし、大きく間違っているわけでもない。


「おぬしらは、どんな神が欲しいと思う?」

「神って欲しがるものじゃなくない?」


 閉口する。一瞬で論破された。

 年嵩(としかさ)のほうの子どもが呆れ顔で手についた泥を振り飛ばす。


「まだ決めてないの、自分のご利益」

「いや……わらわが決めるもんじゃない気がしてのぅ……」

「ふぅん? べつに、自分で決めちゃっていいと思うけどなー。自分の得意なこととか、好きなこととか。なになら助けますーっていう宣言なだけだろ。稲荷様だって、祈ったからって商売に絶対成功するわけじゃないんだし」


 絶句する。またもや論破された。

 神道の神はご利益を与えるが、約束も保証もしない。神の力をもってしても助けるには足りない、ということが当たり前に起こるのだ。

 わらわも神が万能であるという価値観はしっくりこないものがあるし、この多神教の特質について違和感はない。

 が、しかし、それで利益を名乗るのは無責任ではあるまいか?


「難しく考えることないんじゃねーの。ま、異世界の神はしらねーけどさー」


 話し相手に飽きてしまった子どもは仲間のほうに走って泥遊びを始めてしまった。

 ヒントになるんだかならないんだか。わらわが日本の神じゃないからってプチ薄情じゃな。


 しょんぼりして散歩を再開する。

 川に沿ってぶらぶら歩いていると、木陰に寝そべる詰め襟の男がわらわを見た。


「あん? 誰だ、おまえ」

「稲荷様にお世話になっておる、最近神になった異郷のものじゃ」


 自己紹介をしつつ、男を見る。

 青白い肌に目はぎょろりと鋭く、足はビョーンと長い。立つとすごい大きいだろう。ざんばらな髪もあって、なんだか武士崩れのようだ。

 男はふんと鼻を鳴らすと、


「獣臭い」

「えぇ……? お風呂には入ったぞ」


 スンスンと自分の腕を嗅いでみる。当然自分の鼻のなかにも同じ空気が詰まっておるのだから臭いなど分からない。


「体臭じゃねえよ。魂だ。お前の格は獣臭い」

「なんじゃ。紛らわしい」


 それなら納得じゃ。わらわは元々ケモノじゃった。俗世から足を洗い切れていないのは、お腹の幸せな満腹感がこれでもかと教えてくれる。

 男は忌々しげに舌打ちして目を剣呑に細める。


「獣がいっちょ前に神様気取ってんじゃねえよ」

「その文句は稲荷様に向けるとよい。わらわは自分の務めを果たすだけ故な」


 稲荷様の名を出すと男は顔を歪めて口を閉ざす。高位の相手に頭が上がらないのはどこも同じだ。


「ちっ、興醒めだ。気持ちよく寝られやしねぇ」

「そもそもこんな時間に寝るのはどうかと思うぞ。働き盛りの時間じゃろう」

「んなもん、農民どもの話だろう。武士は囚われねぇ。夜んなる前に終わらせりゃあ何でもいい」


 立ち上がった男はやはりスラリと異様に大きく、腰にベルトで吊るした刀を直した。


「ほう、おぬし武士か。初めて見た」

「正しくは武家の氏神だがな」

「刀か。格好いいな。ちょっと見せてもらえぬか?」

「おまえ、俺が気に入らないって言ったの覚えてるか?」


 忘れるほど阿呆でもお気楽でもない。こちらから歩み寄らねば絶対に打ち解けぬ手合いであろうが。特にこやつ、土地を守る氏神ゆえ常世の国に来る機会は多くなかろうし。

 氏神は鼻を鳴らして刀を遠ざける。


「触らせねぇよ。見せもんじゃねぇ。なにより刀は武器以上に武士の魂だ。あえてこの武器を持つことで気位と地位を示してんだよ。天皇の三種の神器、西洋王権のレガリアと同じだ」

「そうなのか? 戦では刀は消耗品と聞いたぞ」

「構造上あんまり強い武器じゃねぇからな……合戦したら折れもする。戦の主役は弓だよ。刀じゃない」


 なるほど。刀は結局、実戦にも使えないことはない身分証というわけか。


「そういうの、()いのう」


 男は胡乱げな顔をした。


「なにがだよ」

「武器だが、他人を傷つけるためでないのじゃろ? それは好い」

「あながち人を傷つけないってこともねーんだが。切り捨て御免とかあったしな」

「む……そうなのか。残念じゃな」

「まあ、実質的には権威付けのための特権だ。でなきゃ豪商にコテンパンにされちまう」

「武士も苦労したんじゃな……」


 ついしんみりとしてしまった。

 男は鼻を鳴らして、長い足をミョンミョンと歩かせて立ち去った。

 別れの挨拶もない。

 そもそも気に入らない相手と立ち去る前に長話をしたのだから、とやかく言うこともなかろう。なんだかんだ神というのはお人好しじゃ。




 ところが翌日また会った。


「またおぬしか」

「そりゃーこっちのセリフだ。獣臭いと思ったら……」


 男は嫌そうな顔をして、わらわを見あげる。

 大きな木が村のハズレにあったので枝に登って寝転がっていたのじゃが、この根本も男の昼寝スポットだったらしい。

 枝にかけた腕に顎を載せる。そういえばテレビで観たライオンの昼寝がこんな姿勢じゃったな。


「のう。氏神ってなにをするんじゃ?」

「なにって……土地の守護やら子孫繁栄やらが分かりやすい利得だが……要するに土地を見守る長老であり、祖霊を導いて供にする神なんだよ」

「ふむ。武家の神と言うたが、氏子には農民もおったじゃろ」

「まあな。武家ってのはつまり支配階級だ。善政は民を助ける。武家を善いものにすることは民衆を守ることでもあるんだよ」

「まだるっこしいのぅ……」

「そうでもねぇよ」


 男は肩をすくめた。


「俺の神格は、高くない。できることはたかが知れてる。これと定めて力を集中させるほうが、結果的にはいいんだ」


 思わず体を起こして男を見た。彼は嫌そうな顔で見返してくる。


「なんだよ?」

「ちょっと感動した。おぬし、分をわきまえてできることに注力した結果なのじゃな。民を想う気持ちは本物か」

「ぶん殴るぞ」

「なんでじゃ。褒めたのに」

「おまえに褒められる謂れはねぇ」

「素直に受け取れ。へそ曲がりめ」


 ふんと鼻を鳴らす男は、しかし満更ではなさそうだった。


「俺は、(いくさ)寄りの権能なんだ」

「ほう?」

「もともと武家に代々祀られてた氏神だからな。いざ鎌倉なんてあった頃にゃ、俺は武勲の神に成り上がったもんだ」

「なんと」

「だが時代が下ると農民の氏子も増えた。武士は荘園の守り手から支配階級へと変わり、やがて知識階級にまで成った。……俺は、古い時代の武士だ。戦い以外は向いてないんだよ。だから神格が低い」

「おぬしは軍神なのか?」


 男は肩をすくめる。


「そんな立派なものじゃない。軍神なんて今どき流行らねえよ。誰も求めてない。――あぁ、でも一度だけあったな。軍神みたいな力を振るえたときが」

「ほう? それは?」


 男はなんとも奇妙な笑い方をした。

 悲しそうな、泣くのを我慢しているかのような、しかしどこか楽しげな。

 奇妙な笑顔で。


「戦争だ」


 言った。


「特攻隊に選ばれた嫡男を庇護した。見事に、敵の戦艦の土手っぱらに突っ込んだよ――」




 好きなもの!


 詰襟の旧軍人。

 おっさんとお兄さんの境界な人が詰襟で軍刀を佩いてるとエモい。

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