過去編 大狐
森が燃えている。
赤い、熱い、黒い光に照らされながら。
身を揺する。うなる。牙を振るう。
爪の下でボキリと骨の折れる音。人が死ぬ。
取り囲む人間の目、目、目。
すまぬ。すまぬ。許してくれ。
どうか未来のために死んでくれ。
があ、と喉から声がほとばしる。
背に、熱くて冷たくて重い鉄具が突き立てられた。
すでに背中や肩に、ところ狭しとあらゆる刃物が突き刺さっていた。農具や武器や大工道具が。
全身の毛が己の血で重たかった。
目の前はもう暗かった。
争いはいやだ。悲しいのはいやだ。戦いたくない。
牙を人間の腕に突き立てて、引きちぎる。爪をおろせばぐちゃりと潰れる。
人間の目がさらなる怒りと殺意に燃えあがる。森の炎よりもぎらつく光。そのすべてが大狐を映している。
なぜ、こうなってしまったのか。
わらわは、みんなに安心して暮らしてほしかったはずなのに。
どすん、と体が揺れる。体に野太刀が突き立てられている。
ああ。
足に力が入らない。
まぶたが重く、閉じていく。
取り囲む人間たちが見つめている。自分たちが討ち倒した敵を見届けている。
ああ、これでどうか。
仇敵を討ち果たしたお前たちは。
どうか、心安らかに眠ってほしい。不安な夜を過ごすことのないように……。
§
ようやく、言葉にも慣れてきた。
「お狐様ー! 荷物運ぶの手伝って!」
「こら、くだらない用事を頼むんじゃない!」
子どもの大声と村人の叱声にぐるぐると喉を震わせて笑う。
「いや構わぬ。手伝うぞ」
そう答えて、四肢を伸ばして立ち上がる。歩く前に、昼寝で癖のついた毛を身震いして立たせていく。
「いつもすみません、お狐様」
「なに、よいのじゃ。代わりに、わらわにまた人間のことを教えてくれ」
子どもの荷物──山ほどの木の実と薪──を子どもごと背負ってやって村を歩く。
「しかし……わらわの言葉遣いは、これで正しいのか? 他に使っておるやつを見たことがない」
「あってるよ!」
子どもがわらわの背中で声を上げる。
「本で読んだ。偉い人はそんなふうにしゃべるんだよ。お狐様はお狐様なんだから、偉いしゃべり方をしなくちゃだめなんだ!」
「よく分からぬのう」
「子どもがすみません、お狐様……」
「よい。通じるなら上出来じゃ」
わらわは鼻を鳴らして上機嫌に笑い、村の中央に立つ木材の骨組みに目をやった。
「今度はなにを建てておるんじゃ?」
「竈小屋ですよ」
「ほーん? まったくわからぬ。面白いのう」
「面白いんですか?」
「うむ。人間はとても面白い。成し遂げることも面白いし、手段を生み出すのが面白い」
村を見渡す。
山林の只中にあって、まるで別世界のように唐突に、切り開かれた平地に家々が建ち並んでいる。山の在り方とは異なる規範が、山の一角に『村』という形を成していた。
これほどの大きな変化を生み出す生き物を、わらわはついぞ見たことがない。
それをこの小さな手々で成すというのだ!
「お主たちが次に何を成すのか、わらわはとても楽しみでならぬ」
§
近くにも村があった。
これまで手伝ってきた村と違い、ずいぶんと貧相に見えた。貧しかった。
家は少なく、畑は荒れ果て、狩り具の類も素朴なもの。人々は目に見えて飢えていた。
「どうしたのじゃ。畑は、肉は。水しか飲んでおらぬのか」
「畑が病にかかってしまって……狩りはなにも捕れなくなって久しく……もう、種籾も食べてしまいました」
つまり、彼らは生存に失敗したのだ。
「ならば仕方がないの。山の恵みは等しく与えられ、山の厳しさはみな等しく奪い去る」
それが山の、世界のルールだ。飢えた村人はうなだれた。
(憐れじゃのう)
彼らの末路は単純だ。
空腹に狂った生存本能が共食いを起こすか、飢えに冒されて毒性の食物を口にするか、はたまた衰弱を突かれて山の獣に食われるか。
飢えた動物がたどる結末だ。
「……肉があればよいか?」
ひょいと山をひと駆けして、鹿の一匹を獲ってやった。
「畑はどこじゃ? 耕作などわらわにかかれば爪のひと掻きじゃ。種籾さえ残っておればやり直せよう」
飢えと病に苛まれ、死を待つばかりだった村人の顔に生気が取り戻されていく。
「種籾は……まだ、倉に半分だけ……!」
「お守り代わりの蕎麦の種が、家の棚にあったはず!」
にわかに活気づく村人はそれぞれアイデアを出していく。この苦境で必要なこと。今、最も求めるべき効果的な一手。
彼らの叡智が目まぐるしく回るのが見て取れる。
(わらわは──甘いかもしれない)
山の掟、自然のルールに逆らう行いだ。野生を生きる動物の行いではありえない。
だが終わっていく人間など、驚くほど普通で退屈でつまらないものだ。今さら見るほどの新鮮味もない。
それなら、わらわは彼らの成すところを見たい。
(だからこれは、身勝手な、わらわのための行いじゃ)
§
「狐様! お狐様ー! またいらっしゃらないかな」
「呼んだか。ふう、ふう」
「お狐様。最近お見えになられませんね」
「まあの、わらわにも色々あるのじゃ」
「そうですか。そうですよね。私どもの村はお狐様のお陰様で、人足、木材、石材ともに潤沢となりました。お手間をかけることも減りましょう」
「そうか? では何用で呼んでおったのじゃ」
「最近、森の獣がずいぶんと減っておりまして。なにかご存知ですか?」
「はて。山火事もなく、土砂崩れもなく、至って平穏に見えるがなあ?」
「左様ですか。ならばよいのです。それともう一つ。あたりに、怪しい人間がいると聞いております。良からぬ影を見つけたらお気をつけください」
クク、とわらわは笑った。
「何を言う。わらわの足ならばこんな山などひと駆けじゃ。山に住まうものはみな善良で勤勉じゃと知っておるよ」
「それならば……よいのですが……」
§
「どうしたのじゃ? 深刻な顔で額を突き合わせて」
「……まさか、他に村があったとは知りませなんだ。困っておるのです」
「困る? なぜじゃ?」
「この小さな山に村二つです。狩り場も同じ。水場も同じ。彼らが獣を取るたびに我らの取り分が減るのです」
「狩りの上手いやつが獲る。それでなんの不自然があるのじゃ?」
「獣の縄張りや警戒心の緩め方が、我らで測りきれないことになります。狩りが難しくなるのです」
「そんなもん考えながら狩りしとるんか、人間は」
「捕れるからと獲りすぎてもいけませんからね。山の恵みは等しく、獣の数には守るべき均衡があります」
「ほーん……よく分からぬのう」
「最悪、狩り場は遠出をすることで賄っていますが。水場の公平な分配を提案したら怒り出しましてね。いやまったく彼らの傲慢さには参っております」
§
「公平な分配に文句をつけたと聞いたぞ。本当か?」
「まさか! 公平であれば文句など言おうはずもない。彼らは己に清水を引き、我らに獣の水場を押し付けて、『水量は等分ぞ』と言い放ったのです。とんでもない侮辱だ! 彼らはともに生きようというつもりがない!」
§
「彼らが狩りをしくじったせいで、獣の縄張りが大きく移動した」
「彼らが大雨に乗じて清水を崩したのだ、許せない」
「土が痩せてきたのは彼らのせいだ」
「石が足りないのは彼らのせいだ」
看過できるはずもない。彼らが肥えれば家族が飢える。
遠い同族より目の前の家族を優先するのは当然のこと。
彼らさえいなければ。
彼らさえいなければ。
わらわは、見捨てるべきだったのか?
§
「お狐様、お狐様! この大変なときに……お狐様っ!!」
「すまぬ、遅れた。隣村の娘が産気づいて、難産じゃった」
「……」
「なにがあったのじゃ?」
「お狐様!」
「よせ」
「いいえ村長! ……お狐様、何故いらしてくださらなかったのです! なぜ隣村ばかり贔屓なさるのですか!
お狐様がいらっしゃらないばかりに! 私の妻が死んでしまった!!」
§
……なんだか、疲れた。
すっかり気が滅入ってしまった。
§
彼らは競い合うように建物を建て増し、水車を築き、人口を増した。
一瞥ではとんと分からぬほどの土木工事を発明して、見違えるように発展していった。
初めは辛抱強く付き合っていた。
互いに互いの技術を盗んで高め合うさまが、素晴らしく面白いと思っていたからだ。
心労を押し殺し、面白いのだと己を慰め、騙し騙し。
だが――あれは効いた。
助かるはずの娘が死んだ。
とんでもない! よく考えてもみろ、なぜ助けてもらえると思っていたのだ?
本来ならば助けが得られようはずもない。
もともと死ぬはずだった娘が、そのとおり死んだだけのこと。
感謝こそすれ、責められる謂れはないはずだ。
――だが。
枯れた花に目を向ける。
あの娘がくれた花壇から、花畑が芽吹いていたのに。二つの村を駆け回るうちに世話をしそびれてしまっていた。
――助けられたはずだった。
確かにわらわが居合わせてさえいれば、助けられたはずだったのだ。
寂しさと苦しさと悔しさと悲しさが、身悶えするほど身を焦がす。何度、星空に吠えることをこらえただろう。
「お狐様」
ねぐらに訪問客が現れた。
「どうした、もうここまで来るのは足腰が苦しいのではなかったか?」
「ええ、そのとおりです」
村の長老となった老爺は、座ることすら苦しそうにねぐらにの隅に腰を下ろした。
「ご健勝でなによりです」
「……すまぬな。しばらく顔も見せないで」
長老は首を左右に振った。
「みな、あなたには感謝しています。あなたは我々の親であり、隣人であり、そして何よりの恩人だった。みながあなたを愛している。誰もがあなたをかけがえのないものと思い慕っているのです」
「面映ゆいの」
彼は寂しく笑って。
「二度と我らの里に近寄らないでください」
そう言った。
「我らは失敗したのです。あなたに頼るべきではなかった。あなたの与える優しさと恵みを、諾々と享受してはいけなかった」
「なにがあったのじゃ」
「……なに。つまらないことです」
長老は透明な微笑みを見せる。
「我らは失敗し、何も成すことができなくなった。もうあなたに見せるべきものはなにも残っておりません。あなたを落胆させたくない。どうか、もう里には近づかないでください」
そして長老は帰っていった。改めて里には近づくなと念押しをして。
§
「放おっておけるか、ばかたれめ」
里を遠巻きに見た。
だが様子がおかしい。ずいぶん人の数が減っているし、食料も足りていないらしい。そのくせ誰も食料の確保を計画している様子はない。疲れた顔で一心不乱に、不要なほどたくさん「猟具の予備」を準備している。
隣村を見て、悲鳴を危うく飲み込んだ。
長老が囚われている。
「山に分け入ったな」
「お狐様に頼んだのだろう、我らの破滅を」
「我らを殺すことを!」
長老はただ凛然と黙し、暴力を受けている。殴られ、打たれ、突かれている。
「打って出よう!」
彼らが叫んだ。
「お狐様がやってくる前に」
「我らが恩人の手を血で汚させる前に!」
「あの不届き者たちを皆殺しにして、我らの愛するお狐様に、二度と不遜な行いを頼むことのないように──」
§
慌てて戻った。
「村長はまだか」
「我らの愛するお狐様だ。忠告を聞いて去ってくれるといいのだが」
「状況は逼迫している。彼らはお狐様を頼りかねない。もしかしたらお狐様は断りきれないかもしれない」
「お狐様の為に死ぬのは構わない。だが我らはお狐様を愛している。お狐様の御手を血で汚させるようなことがあってはいけない」
「戦争を終わらせよう──」
§
彼らは戦っていた。
縄張りの重なる生き物の必然として、なんの不思議なこともなく争った。
だが加えて、彼らは抗っていた。
大狐という誘惑と。
なぜ彼らは「相手こそお狐様を頼る」と思い込んでいるのか。
彼ら自身の頭に常にあるからだ。狐を頼るという選択肢が。それに抗い、かつ抗えなかった未来を想像すればこそ、彼等は敵こそ愚を犯すと確信する。誇り高き己たちでなければ抗い得ないほどの誘惑だから。
彼らはみな愛していると言った。きっと間違いなくそうなのだ。
そしてだからこそ戦った。己の危惧する選択に己が負けてしまわぬように。
馬鹿なことだ、と牙の内側で笑う。
愛するなど幻想だ。獣は獣の論理によって、己を利するために他者に恵む。愛などという幻想は人間の発明したものだ。
もう、見守ってやることはできなくなった。
なにも成せなくなった、と長老は言う。
最後に成したもの。わらわに向けてくれたもの。確かに見届けた。
そして。
わらわの知る人間なら必ず、また立ち上がることができると信じている。
そのためには、いくつか条件を整えてやらねばならない。
たとえば、既存の共同体を保てぬほど数が減るとか──
§
大狐は人間をひとのみにした。
噛み砕き、血を絞り、そして凄絶に笑った。
「愚かな者どもだ。まさか獣を信頼したのか?」
§
二つの村が滅亡の危機に瀕していた。
そのとき彼らは苦しみながら、決断を下した。
我らを害する大狐を討つ──
滅びかけた我らがそれぞれ行って敵うはずもなし──
我ら一丸となって、かつて愛した化けぎつねを、討たねばならぬ──
好きなもの!
約束された悲劇。
どうにもならない感じが好き。




