榊、村に戻る
とはいえ調査は打ち止めだ。
榊たちに場所を貸し与えられた村娘の家は、最も新しい家だ。村の真ん中に位置している。
誰の目も通る場所。
「さらし者になった気分」
カテナは忌まわしくつぶやく。
日の傾き始めたばかりの空は、山の木々に遮られて夜のように暗い。
鉄鍋を吊るす囲炉裏を囲んで、榊たち一行は車座になっていた。
炭火を火箸で突きながら梛がカテナを見る。
「諾々と引き返してよかったのか?」
「よくはない。よくないけど、村と敵対してまで推し進めることじゃない……」
カテナの表情は暗い。
榊はピクリとも表情を動かさず淡々とした態度を変えない。
「馬が近くに来るのは分かったんだ。捕まえて連れて帰れば円満解決するだろう」
「気休めのつもり?」
「事実だろう。誤認があったか?」
「……ううん。ない。ないけど」
カテナが首をうつむける。
「理由なく帰ってこない馬じゃないから、理由が気になる」
それきりカテナは押し黙った。
もとより言葉数の多い者もいない。囲炉裏で炭の爆ぜる暖かな音だけが響いている。
村娘がおそるおそる、囲炉裏の鉄鍋を開けた。
土の匂いさえ薫るような田舎の煮物。肉と野菜と精一杯の味噌でできた"ごちそう"だ。
「出来上がりました……お口に合えばよいのですが」
「旨そうじゃな」
ほくほくと頬を緩ませた環の言葉に、歓待を命じられた村娘は表情を和らげた。
「同感だ。腹が減って仕方がない。今なら泥であっても美味いと思えることだろうよ」
梛の放言で表情を強張らせた。
怒る気すら失せて環が梛を見やる。
「お主、ひねくれたことを言わねば気が済まんのか」
「そのようだ。己がことながら驚きの一面だな」
いい加減な声で言い、木杓で鍋を器に取る。食欲があるのは本音らしい。
娘が苦笑してうなずく。
「どうぞお召し上がりになってください。我らが神も今日ばかりはお目こぼしいただけることでしょう」
そう言って両手を組んで祈りを捧げる。
環は無頼漢を無視して村娘に尋ねた。
「聞けておらんかったが、この村の神とは何なんじゃ?」
「……狐の神様がいらっしったのも、何かの縁かもしれませんね」
村娘は小さく微笑んで環の頭を見る。環の狐耳は、興味の指向性を示すように村娘を向いている。
「この村が祀っているのは、人食いの大狐です」
環は絶句した。
カテナは息を呑み、梛は片目で村娘を一瞥する。
榊は静かに得心した。
「荒ぶる神を鎮めているのか」
「ええ。だから神の不興を買う行為は固く戒められています。殺すこと、盗むこと、騙すこと。必要以上に獣を狩ってはいけませんし、山の奥には無用に立ち入ることを許されていません」
「それだけなら普通の戒律のようだが」
「そうですね。しかし、それは結果だけ見れば、ということになります。だって、」
村娘は表情を曇らせた。
「だって、私どもの祖先は──神と戦わねばなりませんでしたから』
妖狐ははじめは親切な獣だった。
小さな村の畑を助け、水路を助け、かまど岩の運搬を助けてくれた。
村人と妖狐は幸福な隣人のように良好な関係を築いていた。
村が大きくなるにつれて、気づいた。
近くにも村があることを。
狩り場も同じ。水源も同じ。
やれ、獣を獲りすぎだ。
やれ、引く水が多い。
やれ、下手を打って獣に警戒された。
やれ、建材を横取りした。
増えた村人を養うために、互いに互いが障害になった。衝突は増え、年月とともにトラブルは争いになり、
あるとき。
妖狐は村娘を呪い殺した。
まだ、誰も妖狐を疑っていなかった。誰もが妖狐を信じていた。だから誰もが思ったのだ。
相手の村が仕組んだことだと。
二つの村は、戦争になった。
殴り合い、農具で打ち合い、狩猟具で射ち合った。
二つの村は滅亡の危機に瀕した。
村人を妖狐が嗤う。
──愚かな人間どもめ。
それこそが妖狐の狙いなのだと。
恐れ驚き、戦いをやめた村人を妖狐は襲った。
流血を絶やしてはならぬと言うように、育てた作物を摘み取るように。
大きなあごで、鋭い爪で、村人を切り裂き、食んで、殺していった。
「このまま人数が減っては、村を保つ食料を得ることすらできなくなる。そういう段になって、2つの村人は団結しました。妖狐を討つことにしたのです」
「勝てたの?」
カテナが意外そうに尋ねる。村娘はそっとうなずいた。
「三日三晩かけて戦い、火にかけてようやく斃れたと聞きました。牙をもがれ、爪を折られ、毛を剥がれても、妖狐はまだ生きていたそうです。息絶えるまでさらに三日。残り火が消えるのにさらに三日。断末魔の山彦が絶えるまでさらに三日……ようやく静まり返ったと」
娘が黙ると沈黙が降りる。
口を閉ざしたまま、榊は怪訝に眉を寄せた。
榊の表情に気づかない村娘はうつむきがちに話を結ぶ。
「どうあれ、我々が村の発展を手にしたのはお狐さまのお陰でした。それゆえ私どもは、お狐さまが安らかに眠れるよう、二度と目覚めぬよう、鎮魂を守っていくことにしたのです」
「かの妖狐は……悪逆の魔物であろう。そういうのも神と呼んでよいのか?」
「違うのかもしれませんね。でも、山の獣をいただくのも、畑が無事に実るのも、お狐さまがお怒りをこらえてくださるからです」
そして今日の平穏と明日の恵みを祈り、祀る。
この営みは確かに神のものだろう。
村娘の答えを聞いて、環は静かに、噛みしめるようにうなずいた。
「そうか。──そうか」




