榊、交渉する
ソウジロウ・スドー・アレキサンデル。
そう名乗った領主は柔らかなソファに身を沈める。長身からは絡みついた疲労が透けて見えていた。
品定めするような視線を榊から剥がして、領主はモモカと目を合わせる。
「モモカ。悪いことはやめなさい」
「は、い……」
モモカはいきなり悪事に言及されて、息を呑むように首肯する。望んでいたはずだが、父に目を向けられて喜ぶ気配はまったくない。
領主は凄んでいるわけでも厳しい目をしているわけでもない。むしろモモカを見る目は優しく慈しむようだ。
「……お友達かな」
口ごもったモモカの代わりに、領主が榊を見てそう尋ねた。
お友達と呼ぶには明らかに年齢差がありすぎる。補足を促す問いかけだ。
「冒険者をしている榊といいます。縁あって令嬢の悩みを伺い、後押しするためにお邪魔しました」
ひとつひとつ区切るように、ゆっくりと。そしてモモカを振り返る。
「深呼吸するんだ。そして、言いたいことを思いついた順に言うといい」
榊の言葉にモモカは目を大きくして、胸に手を当てた。深呼吸する。
「お身体は大丈夫なの、お父様」
まずは、案じる言葉を。
領主に向き合ったモモカは、緊張に強張りつつも意を決して口を開く。
「セバスチャンから何も聞いてないなんて思えない。お父様のなさっていることは、わたくしより大事なことなの?」
この半年、個人の範疇で市民に圧政を敷いて野放しにされたモモカは、むしろ心細い顔をしている。うつむいて首を左右に振り、言い換えた。
「……ううん。わたくしより、ではないわ。それは、街を治めるより必要なことなの? そんなに大事なことがあるの? そんなに……」
息を詰めて、声が跳ねる。
涙声で、目に涙をためて、モモカは訊ねる。
「そんなにわたくしを――厄介払いしたいの?」
領主は表情を動かさなかった。
静かに榊に目を向ける。
「……きみか?」
「逆です。直接聞いてみろと持ちかけました」
「そうか、それで突然――なるほど」
領主は納得するように何度かうなずいた。
榊に腰を折って、座礼。
「感謝する」
そして。
「モモカ、おいで」
迷子のような不安げな顔で座っていたモモカに歩み寄り、大きな肩で抱き寄せた。
「不安にさせてしまった、すまない。私は父親失格だな……。モモカ、質問に答えよう。ああ、正直に伝えよう」
強く抱き寄せたモモカから体を離し、モモカの前に片膝立ちになる。覗き込むように目と目を合わせて領主は力強くうなずいた。
「愛しているとも! 私はモモカのことを世界で一番大切に思っている。領民と比べてしまうほどに」
だが――と領主は哀切に目を細める。
「だからこそ、モモカに街は任せられない」
モモカは息を呑んだ。大げさなくらい悲しそうに眉尻を下げて、目に涙を溜めていく。
「私もいずれ現役を退くときが来る。モモカ、きみは不器用だが、優しく素直で正直だ。だがそれは……人としての魅力であって、為政者の才能ではない」
領主は榊を見る。
「長くない付き合いでも、きみにもわかったはずだ」
愛おしそうにモモカを抱いて、抗えない現実を儚むように目を細めて。
領主は言った。
「うちの娘はアホだろう?」
榊はぐうの音も出ない。
「街という利権の塊を制御するのは、激流に棹さすようなものだ。度胸と慎重さ、視野の広さ、ただでは転ばない強かさが求められる。モモカには向いてない。疑う余地もない。騙され、利用されて、街は荒廃し、モモカは憎まれるようになるだろう……」
榊はうなった。
まるでモモカの動きを見守っていたかのような慧眼だ。今でさえ、危惧した通りの萌芽が見られた。
「だが、嫁に出せば」
悔しげなまま、領主は絞り出すように言った。
「モモカはアホだが、素直で可愛い。政治権力を持たない、伴侶の立場なら民衆にも好かれるはずだ」
だからモモカの嫁ぎ先を躍起になって探していたのだ。
セナの言うとおり領主はいい人で、それでいて計算高い。
だが同時に、モモカの父親だった。
「条件に合う人はいましたか?」
「おらんのだ……ッ! 必死に探しているんだが……全くッ!! どいつもこいつもだらしない腰抜けばかり!!!」
「そうでしょうね」
それほど溺愛する娘の相手が、そうそう見つかるはずもない。
領主も領主でアホだった。
「でもっ!」
モモカは突然ソファから立ち上がった。領主を見下ろす。
「確かに解決できるのかもしれない! わたくしが頼りにならないのは知ってるもの! わたくしが嫁にもらわれれば丸く収まるのかも! でも……でも! それじゃやなの! やーなのー!!」
「も、モモカ?」
「だってこの街は! お母様がわたくしを産んだ街なんだもの!!」
モモカを見上げる領主の肩が震えた。
モモカは胸に手を添えて堂々と顔を上げる。
「たとえ向いてなくったって、わたくしはこの街で、この街に生きて、この街のために貢献したい!!」
これまでも。
モモカは政略結婚そのものについて、一言も不平不満を漏らさなかった。自らがそういう立場にあるとわきまえていた。
彼女が望まない結婚を飲み込めた理由は、ただ。
それがひとつの貢献の形だとわかっていたからだ。
決然としたモモカの横顔を見て、領主は見直すように表情を改めた。
「すまない、モモカ。私が間違っていた」
憑き物の落ちた顔で笑って、彼は愛娘を抱き寄せる。
「そうだな。モモカはずっとそうだった。街に入り浸るのが何より好きで、領主の娘に生まれたことを誇りに思っていた。これほど想いの厚い人間を失うなど、街の未来の損失だ。あってはならないことだった」
「お父様……!」
モモカと彼の父は、感極まった熱い視線を交わし合った。
榊は隣で座ったままシレッとうなずく。
「ならば、有効な手は二つですね。アホでなくするか、アホでもいいようにするか」
「……アホでもいい方法なんてあるのか?」
領主は怪訝そうに榊を振り返る。
うなずく榊の姿には、ほんのわずかにも不安そうな素振りがない。
「信頼できる人材を見つけ、右腕になってもらえばいい。あなたにセバスチャンがいるように」
領主は目から鱗が落ちるようにハッとした。
モモカは無防備に榊を見上げて首を傾げる。
「信頼できる人なんて、どうやって見つけるの? 旅?」
「旅は出会いではあるが、絆を深めるものではない。故郷を愛する力は強いものだ。この街で探すほうがいい」
榊はさらさらと答えて、思案するように顎に手を添える。モモカの父に目を向けた。
「モモカは、学校は入れているのですか」
「学校? ……いや、この街は私塾があるだけだ」
「なら建てるべきでしょう。地元と知識人を兼ねた者から選ぶ以上に効率のいい探し方はありません。さらに全市民が識字し、計算し、歴史を知ることになる利率は大きい……搾取したいのでなければ」
「わかった、手を打とう。入学すれば一食摂れる制度にすれば、貧民層も吸い上げられるか」
榊の混ぜた毒を笑って受け流し、領主は即決で政策判断する。それどころか普及させる施行まで考え始めた。やはり知恵が回るらしい。
領主はモモカの肩を叩く。
「モモカ。学校ができるまでの間、旅に出なさい。未来はともかく、今の時代に教養層は限られる。お前の直感で教師を見つけるんだ」
モモカの顔がパッと華やいだ。
「分かりましたお父様!! わたくし、必ずや街のために知恵者を見つけてくるわ!!」
そして父娘の熱い抱擁。
どうやら解決したようだった。
「お二人とも。少々よろしいですか」
榊は満を持して口を開く。
「実は私の仲間が今、誤解から逮捕されていて――」
もはや、交渉に失敗する余地はなかった。
好きなもの!
何も考えていないように見えて、自分の立場を受け入れている貴族。
いわゆるノブリス・オブ・リージュですね。




