榊、山賊と勝敗を決する
「来るぞ!」
榊の叫びをかき消すように。
ぶちまけられた魔物呼びの香水に誘われ、百鬼夜行が湧き立つ。
全方位から襲撃されるまさにその時、
「環様」
榊は環に声をかけた。
すでに跳ぼうと身を屈めていた環は、片耳を半分だけ榊に向ける。
蜂蜜色の瞳が見つめる先で、森に野火がほとばしる。フランの火焔が魔獣の群れを薙ぎ払っていく。
しばしの余裕を見て取って環は榊を振り返った。
「なんじゃ」
「今一度だけ、チャンスをください」
榊は苦味を噛み殺すような顔で言った。
うつむき、環は唇をかむ。
もう何度――。
もう何度、このやり取りをしただろう。
もう何度、環の助けを拒んだだろう。
環は思わずこぼしていた。
「そこまでわらわに頼りたくないか……?」
悔しさと寂しさを抱えた声。
榊は表情の苦さを増して、
「はい」
それでも首肯く。
「この程度の敗北で、この程度の窮地で。環様に祈りたくありません」
環は不貞腐れたように口を尖らせる。だが、肩を落とした。
「――わかった。任す。一回だけじゃぞ」
「感謝します」
深々とお辞儀。
頭を上げると同時に、榊の四肢から熱のない炎が翻る。
祈りの結実たる炎の色に、環は困惑した微笑を堪えられない。榊の背を見上げて尋ねる。
「刀は要るか?」
「無用です。あの切れ味では殺してしまう」
手も足も出ずに負けた相手に対して、なおも手加減を期すその傲慢。すべては環が殺生を好まないがためだ。
狐火を手足に這わせ、榊は悪漢に立ち塞がる。
背後は見ない。いずれ劣らぬ女傑たちを慮る必要がない。
「――各個撃破など、させるものか」
榊が拳を握る。
炎が両手両足から吹き上がる。
加護に燃え立ち構える榊が、山賊の前に立つ。
「フン」
豪鬼はあざ笑った。
「お前を潰してから向かえばいい。手間が一つ増えただけだ」
「そうだろうな。俺はそれが気にいらない。だから――抗う」
交錯。
榊は打ち掛かり、拳を――放たず、構えたまま迫る。
「!?」
前回同様、榊の拳を捕まえようと構えていた豪鬼の手は空振りする。
が――逆の手に握る斧をコンパクトに斬り上げる。
榊は半身を返して斧をすり抜け、豪鬼の胸郭に貫き手を打った。目を剥く豪鬼は歯を食いしばり、追撃に備えて野太い腕を防御に構える。
榊は落ち着いて流れるように。
豪鬼が守りに掲げた腕に手を添えると、押し上げると同時に鳩尾へ肘鉄を打ち込む。
「ごぼ……!? この、素人がッ!」
振り払われた裏拳を掻い潜った榊はカウンターにボディブローを刺し込む。環の加護がこもった一打は重く山間に衝撃を響かせる。
呼気に血の混じった豪鬼が、榊をにらみつける。
榊は昏い真顔で動じない。
攻め手には応じ手を。
受け手には搦め手を。
言葉尻をなぞっただけの見様見真似で、榊はフランの与えた指導を実践する。
大振りな斧をかわした榊の回し蹴りが、大男の首根を揺らす。
が、
「粋がるなッ!」
巨体に見合った大きな鉄拳に殴り返される。
顔面がひしゃげるような殴打に、榊の両足は完全に地面を離れた。たっぷり二メートルは飛んだ榊はたたらを踏んで後退り、ターンして転倒を踏ん張る。
赤くなった鼻をこすり、榊は息をつく。
なんという怪力――なんという天意。
あの男は紛れもなく、彼の神に認められている。
榊は怯まない。
意地でも神に頼らない。その覚悟を拳に握りしめて、豪鬼を見据える。
榊の知る「神」は助けない。
目の前にいるから助けられるような「不公平」は、受け入れられない。目の前にいなければ助けが得られないような不条理は。
なによりも。
環の気高さ優しさを、榊自身が支持していると証明したい――第一の信徒ここにありと胸を張れる自分でもって。
困ったらすぐに頼り、幸運な助けを待つような信仰にはしたくない。
(……俺は、我が儘なのかもしれないな)
榊は胸のうちで苦笑する。
自分で思っているより遥かに榊は我が強く、理想の女性に求めるハードルが高く、おまけに身勝手なようだ。
環が拳を握りしめて歯がゆさに耐える時間を、他ならぬ榊が強いているのだから。
それでも――榊は自分が間違っているとは思わない。
なぜなら、稲荷神の御言葉だ。
――信仰は神と信者の対話によって作られる。
「人が神に祈り、歯を食いしばることができるのは……今このときに助けが得られるからではない」
困ったときに頼れる助けは、救いになり得ない。ただ便利で寄りかかるだけだ。
環は言葉を呑んで榊を見つめる。加護の証に四肢を燃やし、先頭に立って環の在り方を探し求める榊の背中を。
榊は立つ。真っ直ぐと。
「この先に天祐があると信じられるからだ」
榊が負けても環がいる。
どんなに苦しくとも、最後まで環の加護がついていてくれる。
だから榊は拳を握る。立ち上がる。
四肢に加護が宿り続ける限り。
豪鬼がチラと目だけを逸らす。絶えず迫るはずの魔獣を間断なく焼き尽くすフランを、ひょろ長のナイフ使いは攻めあぐねている。カテナの槍に弾かれた投げナイフがほど近い幹に突き刺さり、
榊が迫っている。
腕を固めて守りに入る豪鬼に拳を打ち込む。
分厚い筋肉に剛健な骨格、さらに身体強化の加護も合わさり、まるで打撃が響かない。安易な反撃を嫌い様子見に留まる豪鬼に攻めかかるも、いくら殴ってもビクともしない。榊は間合いを開けた。
「フゥ。あぶねえ、あぶねえ。油断も隙もねぇな」
余裕を崩さない豪鬼に榊は問う。
「お前は、なぜ山賊をやっているんだ。なぜ襲う。なぜ奪う」
「隣人を助けよ、という教義があってな」
斧を肩に担ぎ、豪鬼はニヤリと頬に笑みを刻んだ。
「仲間のためなら、俺はなんだってする」
その信念に祝福で応えている。彼が信じる神は、そういう神なのだ。
榊は目をすがめる。
轟と狐火が燃え盛る。熱のない炎を棚引かせ、榊は豪鬼に拳を構えた。
「貴様の神を認めない。貴様の信仰は――俺が挫く」
フランの火焔が奔り、相対する二人の向こうに迫った熊のごとき魔獣を灼く。
引く炎を追って飛び込んだ榊を、
「見え見えなんだよォ!」
豪鬼の薙ぐ斧が迎えた。
低い軌道。滑り込むには斜面が危うい。飛び越えるには近すぎる。
榊は跳ねて身をねじる。宙返りの背を舐める斧を越え、豪鬼の眼前に着地した。
「チィッ、コイツ――……!?」
「悪く思うな」
瞠目する豪鬼の顎を、榊のアッパーカットが打ち抜いた。
地を離れて浮いた豪鬼の両足が、
一歩下がって踏みしめる。
見下す視線に榊の総身が震える。
確実に仕留めた一打。確かな手ごたえのあった一撃を、豪鬼は耐えた。
全身で拳を振り切った榊の体は伸びていて、身動きする余地がない。
指導。
――攻めるな。攻めれば隙ができる。
豪鬼の腕がハンマーのように榊の頭蓋を叩きつける。
上半身が折れる寸前の勢いで榊は土に沈んだ。
榊は負ける。いつも通りに。
「榊ぃ!」
「――まだッ!」
前のめりに勢い込んだ環を、土にくぐもった叫びが止める。
榊は土を掻いて跳ね起きた。
切れた頭皮から血を流し、白目が赤く染まるほど衝撃にうっ血して、立ち上がるなりふらついた。豪鬼が即座に蹴り飛ばす。吹き飛ばされて転がった榊は、膝を突いて中腰に構える。
負けても挫けても諦めない。
初めて豪鬼の目に怯えがよぎる。
「なんだお前……そこまでするか?」
「当然だ」
榊は立ち上がる。衰えることを知らない環の炎を四肢に宿し、拳を握る。
刀を借りることもせず、さほど得意なわけでもない戦いを続ける。
「俺の神は、そうするだけの価値がある」
榊の願いは。
環を善き神にすることだ。
なぜなら――
環はすでに、十二分に善き神だからだ。
ひょろ男のナイフが跳ね上がる。カテナの鋭い呼気が響く。
フランの炎が燃え猛る。残る魔獣を焼き尽くす。
仲間の援護を待てば榊の勝利。
それを座して待つ二人ではない。
再度の交錯。
榊は拳を振りかぶり、足から力が抜けたように沈み込む。豪鬼の目が喜悦に緩み、斧を持つ腕が力感に膨れあがった。加護がなくとも怪力だろう膂力が斧に込められて、
淡々と見据える榊の瞳に、豪鬼の笑みが凍った。
フェイント。
渾身の一撃を誘い込んだ榊は炎の尾を引いて身を翻し、強烈無比な斧撃をいなす。
「環様を目の当たりにしてなお他の神に縋る、見る目のなさと愚かさを」
握った拳が炎に燃える。
「嘆いて悔いろ――!」
振り下ろす勢いが乗ったままの豪鬼の体に正対するベクトルで。
殴打が鳩尾を打ち据えた。
戦闘の中で進化するアレ。
定番ですよね。大好きです。
今後も榊はそうなるんじゃないかなと思います。




