第10話 月蝕
『あぁ、なんと哀れな女だろう』(戯曲「スターリング」第三章~英雄の貌~ 暗夜王の台詞より)
人は死を目前にした時またはそれに準ずる恐怖を体感した時、過去の記憶を蘇らせることが起こる。痛みや恐怖から苦痛を身を守るために幸福だった記憶を反芻するためであったり、また過去の体験から生き残る術を手繰り寄せるためでもあるという。
時にそれは奇跡と称され、勇気と謳われ、生存本能と呼ばれるもの。
―― 走馬灯と、人は言う。
奇しくも、オリヴィアにも同様のことが起きた。彼女の時間はフランツとオリヴィアが出会う数ヶ月前に遡る。厳密に言うならば、婚約破棄をした当日のことになる。
「……ツークツワンク」
カツン、と駒の冷たい音を聞いて、オリヴィアは言葉を零す。
※ツークツワンク…チェス用語。自分の手番によって、状況が悪化すること。
「あら、本当ですわね」
地図の上に置かれた駒たちをのぞき込んで、ミモザが驚いたように言った。
「どこからでしょう?」
アイビーが情報を見返す。パラパラ、と紙の擦れる音が聞こえる。
(どこから?)
地図を見渡す。今後起こりうる最悪の未来が見てとれる。だが、そのどれも耳にした情報から考えられる行動。
どこが情報を流したのか。情報ばかりが錯綜して、後手に回っている印象だ。
他国との関係にしても、内部の派閥争いによる情報戦だとしても、シナリオが綺麗に出来上がっているような、だから尚更、"婚約破棄"という結果が異質に見えてしまう。
国同士の争いに色恋沙汰が関係している、と言わんばかりだ。
── "手"が綺麗すぎる。
「この盤上は作られた物」
誰かの意図で作られたシナリオに、踊らされている、とオリヴィアは確信した。
「大事なのはこれから起こることではなく、誰がこうなるように動いたのか、遡らなければならないわ」
一手、一手、オリヴィアは駒の動きを巻き戻していく。ミモザとアイビーはその様子を静かに見つめていた。
ポトリと、オリヴィアが手にしていた駒が床に落ちる。
「オリヴィア様、落としましたわ。……オリヴィア様?」
転がり落ちた駒を拾い上げ、ミモザはオリヴィアに振り返る。
彼女は両手で顔を覆い、小さく震えて呟いた。指の隙間から見える表情は、恐怖そして絶望。大きく見開いた琥珀色の瞳は、小刻みに揺れていた。
「…嗚呼。そんな、なんということなの」
遠くで女の嗤い声がした。
――…
大きな水飛沫の音の後、恐る恐る眼を開く。一人穏やかな世界に吸い込まれ、騒がしい外の世界から遮断された感覚になった。落ちた反動を利用して、遊泳場の底を蹴る。
(思った通り。ここは、あまり深くない)
水面に向かって顔を上げると、月の光を反射し、波が揺らめいていた。大きく両腕を使って、水を掻き分け、遊泳場の縁に捕まって顔を出すことができた。
「っ、はぁ…はぁ…、つめたい」
浅い呼吸を繰り返しながら、足を伸ばしていくと指先に底が触れる。水温は低く、休息に体温が奪われ、体の芯が震える。寒さというより、痛みで心臓が締め付けられているようだ。腰よりも高い位置で波打つ水面から身体を持ち上げ、芝生に転がるように這い出た。
――― あぁ、なんて■■■なことなの。
腹の底から湧き上がるどす黒い感情は、怒りか憎しみか、情けなさか。一瞬でも、あの男に抱いた感情は過ちだった。冷水を浴びせられたように、オリヴィアの感情は昏く、深く、氷のように冷え切っていた。
『久しぶりの舞踏会ですもの。髪のお手入れをして、綺麗にしていきましょう』
『帽子に隠れるから、そこまでしなくていい、ですって?淑女ならば、見えぬところほどこだわってくださいませ。わたくしたちの自慢のご令嬢ですもの』
侍女のミモザに結ってもらった髪は、跡形もなく崩れてしまった。
『寄宿舎時代のご友人に?……わかりました、なんとか繕いましょう』
『オリヴィア様、少し痩せられましたか?もっと栄養のある物を用意させましょう。……いえ、けして仕立て直したくないというわけではなく。』
裁縫が苦手なアイビーは、この日のためにミモザに針仕事を習ってくれた。美しい刺繍もシルエットもすべて水に濡れて、見る影もない。
『オリバーか、なるほど。考えた物だな?』
何か月ぶりの再会だろうか。二度と会えずに過ごすのだろうと思っていた彼。
表情は見えずとも、その仕草と声色から彼の心情が嫌でもわかってしまう。……楽しんでいるのだ。元婚約者と遭遇した年下で生意気な貴族の女が、男装して元婚約者の今の相手である女性に絡まれている状況を。
(何か応えてもきっと言い訳だ、とか意地っ張りで可愛げがないとでも言うのでしょうね)
減らず口には、罰を。彼の足の甲を、オリヴィアは踏みつける。何か呻いていたが、お互い何も聞かなかったことにする。
「失礼、フランツ殿」
最後に別れた時と同じように、彼女は微笑む。何も気落ちすることはない、楽しめばいい、そんな風に彼から背中を押されたような気がした。
(人を小馬鹿にしたような言い方をするけれど、裏を返せばどれも気遣いのある言葉なのよね。女嫌いという噂は、言葉遣いが原因なのかしらね)
その後も、エリザベスとオリヴィアの間に割って入ったりと、フランツは勘定なしにオリヴィアを身を挺して守った。
たとえ言葉遣いは意地悪であっても、そのどれもが真っすぐで嘘偽りない物であることには違いなかった。
エドワーズやエリザベスを毛嫌いした結果であっても、オリヴィアをからかう気持ちがあったとしても、その行動の一つ一つがオリヴィアの心の傍に寄り添ったものであった。
(孤立無援だったあの場所、ただ一人、私の隣にいた人)
『君も身体に気を付けることだ』
『……顔がよく見れなくて残念だ』
私を悲しませまいとした彼を傷付け、あんな"顔"をさせた。
手袋越しに感じる温もりはとうに冷え切っていたが、力強く掴まれた感触が残っていた。
しっかりしろ、そう言われたような気がして、震える身体を奮い立たせるように、左手をきつく握り締める。その口元は以前のように貼り付けた笑みはなかった。
――…
「っほんっとーーーーーに、申し訳ない!!」
金髪ツインテールから音が出そうなほど頭を繰り返しさげているのは、彼女の寄宿舎時代からの友人リラである。後ろに控えている彼女の執事は、静かに佇んではいるが内心はらわたが煮えくり返っているのだろう、周囲の空気が不穏な気配を漂っている。
「私のことは後でいいわ。それより、フランツ殿下のご容態は?」
あの後、クラーク家の侍女と運良く出会い、フランツがすでに事情を説明していたのか、滞りなく客室を用意してもらえることになった。湯浴みを済ませて暖炉の前で身体を温めていると、着替えを持ってきたアイビーと合流できた。私の顔を見たことで安心していたが、その顔は青白かった。
「腕の良い医者に診てもらっておる。しばらく安静にと言われておったの。命に別条はないと医者は言っておるの。……当の本人は、公務に支障がでたと言っておったがの」
アイビーから差し出されたホットワインを受け取り、一口飲む。香り高いスパイスと蜂蜜の甘さで冷えた身体が中から温まっていく。
「そう。……それで、例の二人は?」
「人の客室でいちゃついておるの」貼り付けた笑顔でリラは淡々と言う。
「消しますか?」髪を梳くアイビーが私の顔を覗いき込む。どことなくその表情は冷たい。
"同じ理由"で怒らせてはいけない二人が、怒っている。オリヴィアは、少し引き気味ながらも首を横に振った。
「しかし、困ったことになったの。殿下は公務外での怪我、護衛も運悪く席を外した時。そなたも身分を隠しての参加、これでは被害があったとを報告する方が不利益。招致した当家が責任を負うしかないかの。……大人しく自滅しておれば良いものを、まさか周りまで巻き込むほどのじゃじゃ馬とは」はぁ、と深くため息を吐くリラ。
「……リラ、
馬に失礼よ。もっと利口だわ」
「オリヴィア…落ち込んでいる友人にもっとかける言葉があると思うがの」
「そこまで深く考える問題でもないでしょう?あなたは仮面舞踏会を主催した。来賓として貴女は私を招待し、殿下はお忍びでの参加、あの二人は利用禁止の通路を使った。それだけよ」
「……確かに。あそこは、一般来賓用に"まだ"解放していない扉。舞踏会も始まっていない混雑中に利用されるとは思わなかったからの」
ぶつぶつ、とリラが考え事を口にしながら部屋を歩き回る。
「お嬢様、そろそろお着換えを」
侍女のアイビーが乾いた衣服を持って、パーティションへ足を運ぶ。
「そうね。今日はもうこれで帰りましょう」
テキパキと彼女は手早く無駄のない動きで、オリヴィアに服を着付けていく。翡翠色のドレスを身に纏っていても、彼女は侍女としての役目を果たす。襟元の皺を直してもらっていると、彼女の手がピタリと止まった。
「?アイビー、」
「……お嬢様、申し訳ありませんでした。」
彼女が深く頭を下げると、髪飾りが音を立てて床に落ちた。彼女の瞳とよく似た翠色の宝石が、装飾された物だ。今日のために、オリヴィアが彼女に用意した。
「―― 顔を上げなさい、アイビー・レストン」
どこか諭すような口調だ。それでいて確かな力強さと温かさがある。
「っですが!」
勢いよく顔が上げられる。その瞳は涙で潤み、床に落ちた髪飾りの宝石と似ている。
「……折角の社交界デビューなのに、貴女には申し訳ないことになってしまったわ」
オリヴィアは、床に落ちた髪飾りを拾い上げ、埃を払った。
「…いいえ、いいえ!お嬢様は何一つ悪くありません」
申し訳なさそうに両手を握りしめうつむくアイビー。
「貴女を先に行かせたのは私の判断。
大丈夫、この埋め合わせは、必ず―――」
別室でエドワーズに慰められているエリザベスは知る由もない。
――― 1人の女性の逆鱗に触れてしまったことに。




