七話 謎の人
頭上で月が煌々と輝く。
けれど、しょせん月は鏡でしかない。太陽を反射する事しかでしか輝くことができない。
だが、太陽とは違い、まるで何かのフィルターに通したように、月光は幻想的な雰囲気を放つ。
夜闇に残響するのは俺の足音のみ――いや、遠くから車が走る音が響いている。
無音、というわけではないが、昼に比べ深海のような静けさを保ち、幻想世界を形作る。
「さて、と」
もうすぐ時間だ。早く行かなければならない。
夕方の事もあり、やや気恥ずかしくて現場直行を躊躇って遠回りしていたわけだが、やはり夜はいい、俺の精神を落ち着けてくれる。
よしっ、と気合を入れ、歩み始める……その時だ。
それは、獣の唸り声だろうか。それが、背後から忍び寄ってくる感覚。
――馬鹿か、俺は。夜には異形が出るっていうのに一人で歩き回って――ッ!
右手に力を込める。すると、ずしりと重い、けれど頼りがいのある感触が掌に広がる。
「――ッ」
それを構え、振り向く。
そこにいたのは、巨大な犬だ。いや、あれを犬と言っていいんだろうか。
毛皮の一本一本は刃のように鋭く、牙は名匠が鍛えた刀のように月光を照り返す。
マズイ。あんなのに体当たりされたら――
獣が駆ける。それは、闘牛士に特攻するバッファローのように。
だが、しょせん直線運動だ。横に跳べばなんとかなる――ッ!
「ッ、ああああ!」
だが、予想以上に速い。腕が無数の刃で切り刻まれる。
痛い、どころではない。今まで感じたどのものよりも鋭く、それを痛みだと認識できない。ただ熱い、と。灼熱感が脳に叩き込まれる。
――マズイ、マズイマズイマズイマズイ!
殺される。逃げてもあのスピード、必ず追いつかれるだろう。
なら、戦う? 馬鹿な。今、腕を切られて分かっただろう。あれはほとんど金属、俺の刃なんかで傷一つつけられるものか。
再度、獣が駆け出す。
今度は避けられない。かすってあれだ、直撃したら――
瞬間、ある感情が俺を支配した。
それは恐怖? 否、それは憎悪だ。なぜ、なんで俺があんな下等な獣に殺されなければならない。
――痛みすら消え、ただ、あの獣を殺す事だけを思考する。
「獣が。薄汚い異形が――ッ!」
月に吼えるオオカミのように、獣じみた叫び声をあげる。
――それが引き金だったかのように、誰かが俺の横を抜け、獣に拳を叩き込む。
グギィ、とくぐもった悲鳴が獣の口から漏れる。
誰だ。今、俺が殺そうとしたというのに、邪魔しやがって――ッ!
それは、やや小柄な男だ。
白墨のように闇夜に映える白い長着に、カラスの濡れ羽色の袴。両腕には二の腕を半ばまで覆う手甲がはめられていた。
誰だろう。いや、そんな事はどうでもいい。せっかく殺せるというのに、なぜこいつは――ッ!
怒りの矛で奴を貫こうとした、瞬間、腹部に強烈な拳が叩き込まれる。
花火の打ち上げ音のように、痛みが走って始めて受けなければという思考が追いついた。
それほどに――こいつの一撃は速かった。
「は、グ、あああっ」
よろよろ、と酔っ払いのような情けない動きでよろめく。駄目だ、今の、半端じゃない。意識が、途絶え、る。
胃の中身を盛大にブチマケル。すっぱい臭いが、鼻に突く。
「――ごめん」
んの馬鹿。気遣うぐらいなら最初から殴るんじゃねえ。
最期、男が何かに対して驚いたのか、妙に上擦った声をあげていた。
何が原因なのかはわからない。次の瞬間、俺の腹部に再度、鉄塊のように重い一撃が吸い込まれたんだから――
◇
「――ッ! ――ッ! ――ッ!」
泣き叫ぶような誰かの声。俺を呼んでいるのだろうか。
起き上がって返事をしようにも、あまりの痛さに瞳を開ける気にもなれない。
だが、目覚めなくては。ずっと寝ているわけにいかないだろう。
ゆっくりと、緩慢な動きで瞳を広げる。
そこには、宝石のような目に大粒の涙を溜めた、魅霊の姿が。
「……よう、おはよう」
「――ッ、『おはよう』じゃないわよっ、この馬鹿! アンタ一度死んで脳を全部取り替えてもらいなさいよ!」
ひでえ言われようだな。
だが、それでいい。まだ魅霊とは会ってからあまり時間はたっていないけれど、こいつの泣き顔は見たくない。
いや――と言うより俺は、自分の知り合いの泣き顔を見たくないんだろう。
痛む――というより、軋む体に鞭を打ち、ゾンビのような動きで立ち上がる。
「なっさけねえな、ホント。痛、っつ、抵抗もできなかったぞ……」
「何があったのよ。異形相手で気絶だけ、ってのは不自然だし」
ああ、えっと――何があったんだっけ?
異形に襲われて、その後――
「なんか、和服着た男に助けられて、そのあと、おもいっきり殴られた」
「和服? ……まあ、無事ならいいわ。とりあえず治療してあげるから、わたしの家まで来て。おぶってあげるから」
……普通、逆だよなぁ。だけど、一人ではまともに歩けないのだから、ここは素直に助けてもらおう。
頼む、と言って身を委ねる。
落ちないように、魅霊の体を抱きしめる。
「――――ッ!?」
瞬間、声にならない叫びが、魅霊の口から漏れる。
なんだ? と思ったが、すぐに思い至る。俺の掌が魅霊の胸をしっかりと掴んで――って、
「うわっ、平らっ」
予想外にフラットな感触に、思わず声を上げる。当たってる、と言われて初めて気付くようなふくらみ。てか、なんだ? 中学生でも、もっとありそうな気が――
――瞬間、周りの空気が凍った。いや、たぶん俺の錯覚なんでしょうが、凍死するくらいに冷たいですよ――!?
「……ねえ……宗司?」
うわあ、冷たい。声が凄まじく冷たいですよ!?
「は、はひ!?」
「腕の傷、まだ塞がってないわよねぇ……!」
ヤバイですこの人、無茶苦茶怒ってます。それはもう凄い勢いで。睨んだだけで万物を氷結させて、言葉で人を殺せるくらい。
そして、魅霊の奴、満面の笑みで、あろう事かまだ少し血が出てる傷に――指、突っ込みやがった。
「いっつだああああぁぁぁああ! 痛い痛い痛い、すみませんすみません私が悪うございました助けて神様魅霊様――!」
「――せっかく痛くないように連れて行ってあげようと思ったのに。……決めた、途中でショック死しないようにね」
何する気だ、と問う前に、俺の体が大きく揺さぶられた。
上下左右、健康だったら新しい絶叫マシーンみたいで楽しそうだなぁ、というような凄まじい動作で、更に全力疾走する。
――ちなみに、俺の体は、少し動くだけで、すんげえ痛い。
「ひぎゃ、い、いだ、いだだだだあああ! ご、ごめんなさい反省してます俺が悪かったー!」
シェイクシェイクシェイシェイシェイ! どんどん勢いが増してますが!? 無視ですか、無視ですか奥さん!?
いつまで続くかわからないこの悪夢の中、俺は誓った。
もう二度と、魅霊相手に胸の話をするのは止めよう、と。
◇
魅霊の家は、金持ち学生が使いそうな高い――標高にしても、値段的なものとしても――マンションのようだ。
――ようだというのは、正直あんな場所に本当に人が住んでいるのか、などという考えが頭に浮かんだからだ。一体いくらするんだよ、ここ。
「ちょ、ちょっと。まさか死んでないでしょうね」
もう、返答する元気もありません。むしろ意識が飛ばなかった事が幸運だった――いや、不幸だった。気絶すれば痛みは感じなかったんだろうし。
「こら。もし返事しなかったら、もう一回やるわよ」
「生きてます――ッ!」
超即答。超こええ。大の男が半泣きになるようなのを、連続でやる趣味も勇気も俺には無い。
しばらくして、魅霊の部屋に到着すると、早速俺はベッドに寝かされた。
頭を動かして周りを見る。
テレビと冷蔵庫、それとソファー。あとは机とこのベッドくらいしか家具は無い。そんな殺風景の部屋を彩るように、俺があげたパンダのぬいぐるみが机で寝転んでいる。
「ちょっと待って。今、薬出すから」
そう言うと、備え付けのクローゼットを開けて、そこから救急箱を――ってオイ。
クローゼットというものは、衣服を収納するのが主である。……まあ、それはいいんだ。魅霊だってその使い方をしているし。
けど、その中にある衣服が、全てフリルなどがついたゴスロリとか甘ロリとかいうロリータ系の服で一杯なのはどういうワケだ。もしかしてアレ全部普段着か!?
「ほら、腕出して」
……まあ、追求しても仕方がない。
わかった、と言い、ジャケットとシャツを脱ぐ。時々、刀夜に鍛えてもらったりしているから、中々引き締まった肉体だと思う。
だが魅霊は、なぜか口を金魚みたいにパクパクと動かしている。
「なんだよ。遊んでないで早くしてくれ。けっこう痛いんだぞ」
「あ、わ、わかったわ――別に、袖捲ればいいだけなのに……」
そんなに酷い傷だったんだろうか、上擦った声と聞き取りにくい独り言が俺を不安にさせる。
消毒液を染み込ませたガーゼで、傷口の処理をしていく。
「そこまで深い傷じゃなくてよかったわね。もうちょっと深いところまで行ってたら救急車呼ぼうかと思ってたのに」
「……そういやさ、痛っ、異法で回復とかできないのか? ほら、ゲームとかであるだろ、ヒールとかなんか」
「うーん。わたしは癒しの異法は専門外だから……。それに、異法で治したりしていると早く歳を取るのよ。細胞を活性化させて自己治癒能力を向上させているだけだし」
一部分だけ活性化する事はできないしね、と正直な話ワケワカメな説明をしてくれる。細胞が、とか言われてもねえ。
そんな事を喋りつつも治療の手は緩まない。慣れた手つきで消毒を終えると、くるくる、と包帯を巻いていく。
「ああ、これ? 昔の知り合いがよく怪我とかしてね。その消毒とか、よくわたしがやってたから」
俺の視線で何か感じる物があったのか、懐かしむような声で言う。
――少し、というかすげえ意外。このナニサマな魅霊さんにそんな甲斐性があるとは。
「……さて、それじゃわたしは寝るから。あ、ベッドは使っていいわよ。わたしはソファー使うし」
「いや、ここはお前の家なんだし、ベッドはお前が使えよ」
「わたしの家だからよ。お客様は優遇するのっ。これ以上反論してきたら、またアレするけど」
ワカリマシタ、といって布団をかぶる。俺はまだ死にたくない。
歳が近い女と同じ屋根の下で寝る。かなり魅力的というか背徳的な行為だが、疲れが溜まっていたのか、意識はすぐに黒い幕で覆われていった。




