三話 冬樹
夏の粘液じみた空気とは違い、二月の大気は青海のように清んでいる。寒いが、不快ではない。
締め付けるような冷気によって、自然、俺の目は覚める。
「――ん」
ああ、この人肌に暖められた布団と一緒に人生を共にしたい。つーか寒すぎるぞ今日は。
けど、さすがにずっと布団の中にいるわけにもいかない。とうっ、などと掛け声を決めてベットから脱出する。
リビングの方から、いつも通りニュースで政治家の汚職なんかを発見しましたー、というニュースキャスターの声と、姉貴の足音。
日常的なBGMを聞きながら、伸びを一回。
一直線に伸びた体を、冷たい風が撫でていく。
「っし、目が覚め――」
そこで、ハタと気付く。
ちょっと待て、ちょっとどころか盛大に待て。おかしいだろ、室内で風が吹くのってさ。
くるり、と一回転して自室の窓を見る。
――ヘイ、トミー。ミーがラリってなければ、マイルームのウィンドウがフルオープンではありませんカー?
窓に向かって手を伸ばす。……うん、そよそよ、風が吹いてますねー、うん。
その手で窓を勢いよく閉める。そして力強く息を吸い込み、
「姉貴ぃぃいい――ッ!」
叫びつつ勢いよくダッシュ。ドアを開けてリビングに特攻、十中八九どころか十中十一十二ぐらいの確率で犯人の姉貴にタックルをかます。
どたんばたんごろごろ――と、イスやらなんやらを色々と巻き込みながらマウントポジションを取り、地面に押さえつける。
「そ、宗司。だ、駄目よ、そりゃあたしの魅力はたとえ肉親だって引き込んでしまうのかもしれないけど……」
「黙れこの馬鹿姉ッ! んな事よりあんたはナニユエに人の部屋の窓を全開にしようなどと思いやがった! 四百字詰めの原稿用紙に纏めて提出しなさいっ、提出期限は三十秒後!」
戯けた事を抜かす姉貴だが、俺の剣幕に押されてか、
「え、えーっと」
などと、目線を横に逸らしながら、しどろもどろに証言を開始する。
「その、ね? 中々起きなかったのもあるけど、あんたの反応が楽しくて楽しくて、つい、ね」
「『つい、ね』――じゃねぇええええ!」
朝から何やってんだあんたは!
更に何か文句を言おうとすると、はむ、と口に何かが突っ込まれる。
これは……食パン?
「ほら、遊んでないで早く朝ごはん食べなさい」
完っっっ全にあんたのせいだろうが、と叫ぼうとするが止めた。なんかもう、気力が無い。
缶コーヒーのブルトップを開け、水のように呷る。
……俺が病気になるとすればカフェイン中毒だろうな、きっと。コーヒーの飲みすぎで救急車に運ばれるような馬鹿な事にならないように気をつけねば。
そんな取り止めのない事を考えていると、テレビから聞き覚えがある単語が聞こえてきた。
「ほんと、早く捕まらないかねぇ」
冗談めかした口調とは裏腹に、どこか不安げな姉貴の横顔が見える。
画面に映るものは連続焼殺事件という文字。昨夜、魅霊と一緒に解決すると誓った事件だ。
ニュース内容は、犠牲者の遺族の会見が主だ。
殺された家族の為に、早く捕まえて欲しい。だの、大声で叫んでいる。
……ほんと、馬鹿。お前らなんかに言われなくたって、警察は必死に捜査してるだろうに。
大声で叫んで問題が解決するなら、世の中はどんなに円滑に動く事か。
だが現実では、みっともなく叫ぶという行為は基本的に無意味だ。そりゃ、事件を知ってもらう、という目的ならそれは正しい。多少醜いかもしれないが、誰にも知られずに真相が闇に消えるよりはマシだろう。
けど――あんな風に叫ぶ意図は?
すでに皆に認知されている事柄。警察などの機関やテレビなどのマスメディア。それらが必死に探している最中にあんな事をする意味は?
それは、歪んだ自己顕示欲。事件の被害者の遺族という立場で演じる悲劇の役者。
――いや。
歪んでるのは、きっと俺。人間の感情なんて効率で示せるはずはないのに。
きっと、俺は他人の心を想像する、という事が不得手なのだろう。
「ちと、準備してくる」
「ん? ああ、行ってらっしゃい」
いつもより早いんじゃないか、と問いかけたかったのだろう。だが、苛立つような俺の表情に何か感じるモノがあったのか、特に何も言わずに見送る。
部屋に戻り。制服に袖を通す。いつも通りほとんどスカスカのカバンを持って玄関から出た。
◇
いつもより早い時間に校門を潜る。
校庭から運動部の叫び声が聞こえる。……朝からよくやるよな、アイツら。
おそらく一生相容れない生き方をしている彼らを無視して、昇降口に入る。
――しっかし、勢いで来ちまったが、何をすればいいんだ。
あの時、ニュースを見た後の感想を思い浮かべた時、少し居心地が悪くなってしまった。
姉貴はあの家族達を心配そうに見ていたというのに、俺はというと愚か者と嘲っていた。
別に、あの瞬間に考えたものが間違いとは思わない。
ただ、姉貴とかけ離れた思考をしてしまう自分が、一般人という色に溶け込めない異色な存在なのではないかと思ってしまって……。
「ったく。いつから俺はこんなナイーブな青少年になったんだよ」
おどけたように笑いながら、教室に向かう。
時間もあるし一眠りするかー、などと考えながらドアを開けると、先客を発見。
「刀夜か。どうしたんだ、こんな早くに」
声をかけると、慌ててこっちに振り向く小柄な少年。
「あ、なんだ静間、おはよー。……というかさ、さっきのはこっちのセリフだよ。珍しいね、『俺はギリギリまで家でだらける主義なんだー』なんて公言してるのに」
「なんとなくだ。――っしょ」
カバンを机に置いて、そのまま椅子に座り込む。
誰もいない教室で二人きり。これが異性となら心躍るシーンなわけだが、生憎、俺は男と二人きりで心を躍らせる趣味は無い。
「そういやさ、昨日は何があったんだ?」
ふと、昨日の昼休みを思い出して問いかける。
すると刀夜は。うーんと唸りながら、
「家の仕事でね。……授業くらい最後まで受けたいんだけどなぁ」
家の仕事、か。
そういえば、前に刀夜が言っていたような気がする。
『父さんが死んじゃったから、自分が栗栖家を取り仕切っていかないといけないんだ』
と、使命感に満ちた笑顔で語っていた。
……養われている俺には耐えられないほどの重圧を、その肩に載せているというのに。
「大変なんだな、お前も」
「まあね。でも、嫌じゃないんだ。頑張った分は結果がついてくるしね」
そんな風に軽く言っているが、実際はどうなんだろう。
どんな仕事かは知らないが、高校生程度の歳じゃ周りの同業者とかに見下されるだろうし。
それでも頑張っているコイツを、俺は尊敬している。
「でも、今回はさすがに疲れたな。急いで家に戻ってから、四時まで仕事だよ」
「なんだよ、二時間ちょいしか経ってないじゃねえか」
「違う違う。午後の四時じゃなくて、午前の四時まで」
――待て。
よく刀夜を観察してみると、目の下にはくまができ、顔色もやや蒼白だ。
「こんっの馬鹿。無茶苦茶具合が悪そうだぞ。今日は休めばよかったんじゃねえか?」
刀夜がどんな仕事をしているかは知らない。
前に聞こうとしたら言葉を濁すだけで、一向に語ろうとしなかった。きっと、言いたくないんだろう。それを責める気は無い。人間、他人に言いたくない事はあるしな。
けど、どんな仕事でも、常に全力を出していれば途中で力尽きてしまう。上手くサボって体を休める技術が必要なんだと思うんだが。
……けど、こいつは馬鹿正直に全力疾走するからな。いつか突然バタンと倒れてしまうのではないか、という有りえなくはない未来が頭に過ぎる。
「うぅん……けど、今日からしばらく昼休み前には家に行かないといけないから。せめて午前中はしっかりと授業に出たいんだ」
「――おい、いくらなんでも忙しすぎだろ、それは」
だよねー、などと笑いながら語る刀夜。しかし、その笑みの所々に疲れが見え隠れしている。
「なんかね、最近、急に忙しくなったんだよ。普段は夜だけしか仕事はないのに」
「夜だけって……お前の仕事って、もしかしてホスト?」
違うよ……、と言ってぐたーっと机に体を預ける。
いつものボケ返しもツッコミもない。これは、ほんとうに辛いんだろうな。
「寝とけ。それで少しでも体力を温存しろ」
「けど、やっぱ話してると楽しいから。それに、時々、仮眠もできるし。あと、明日から土曜日じゃん。その間、休みをもらえるかもしれないしね」
それと、仕事の事ばっかじゃモチベーション下がるでしょ? と、そう言って儚げに微笑む。
……ったく、コイツは。
「ああ、お前がそれでいいんなら、俺は構わねえよ」
◇
昼休み。いつも通り全力疾走で購買まで走り、時々擦れ違う誰かをなぎ倒して女神の微笑み&各種パンをゲット。
急いで教室に戻ると、カバンを持って早退しようとする刀夜に声をかける。
「刀夜、頑張ってこいよっ」
「……うん、任せて」
グッと親指を突き出して力強さをアピールする刀夜。
けれど残念。親指は上に立てるもので下に立てるものではない。それはどっちかって言うと『地獄に堕ちろ』って言われてるみたいで嫌だ。
まあ、疲れているみたいなので、その間違いはスルーしておく。
去っていく刀夜の姿を見送る。大変そうだ。帰りになんか差し入れでも持って行ってやるか。
伸びを一回。その後、教室から飛び出し階段へ向かう。
「行くか」
一段飛ばしで駆け上がり、一年の教室が並ぶ三階に飛び込む。
昔、俺もこっちにいたんだよなぁ……、と感傷に浸りながら、目はある人物を探すべく順々と教室を見て回る。
一組――二組――三組――四く……いた。
その教室では、まだ授業をしていた。
生徒一同、長話をしている教師に殺気を込めた視線を送っている。
だが、その教師は気付かずに、ここがテストに出るぞー、などと黒板に線を引いていたりするから始末が悪い。
っと、そんな事はどうでもいい。俺は中にいる探していた奴……魅霊を観察してみた。
一言で彼女の状態を表現するなら『退屈』だ。
右手のシャーペンで黒板を写しているのかと思ったら、物凄い勢いで円を書いている。暇つぶしだろうか? おお、ノートの端が既に真っ黒だ。一体いつからやってたんだ我らの魅霊さんや。
「それでは、今日はここまで」
既に十分はオーバーしてるのに、のんびりと教室から出て行く教師。……俺がこいつの授業にあたったら、いつか殺してしまうだろうね、きっと。
クラスの生徒たちが一斉に行動を開始し始めた瞬間、一気にドアを開けた。
「魅霊ー、メシ食いに行こうぜ」
上半身だけ教室に入れて叫ぶ。
瞬間、時が止まった。
ありえない出来事を目の当たりにしたような顔で、クラス一同が俺に視線を向けてくる。
……いや、そりゃ声を出したら注目はされるかもしれないし、ましてや俺は二年、驚くのは仕方がないと思う。
けど、ここまで驚かれる要因はないはずだ。
「宗司? どうしたの、いきなり」
「だから、メシ食いに行こうって言ってるだろ。聞きたい事もあるからな」
わかったわ、そう言って席を立つ魅霊。
ふと、他の連中を見てみると、誰もが俺たちを凝視、と言ってもいいほどじっと見ていた。
……気まずい。俺が何かやったんだろうか。
まさか、突如現れた謎の美少年に驚愕しているのだろうか。
『まあ、なんてカッコイイお・ひ・と♪ あたしファンになっちゃうわぁ』
って感じで。
……なんでやねん。気まずいうえに、更に虚しくなってきたぞオイ。
「そ、それじゃあ行くか。メシ持ったか?」
「そりゃね、食べに行くって言ってるのに持って来なかったら、ただの馬鹿よ」
そうか、と適当に返し、一度だけ振り返る。
相変わらず何故かこちらを凝視してくる奴らに首を傾げながら、歩き出した。
◇
「――っと」
小さく息を吐きながら地面に座る。
途中、立ち入り禁止と書かれた紙が張ってあったが、当たり前のように無視してきた。
「ねえ、ここで食べるの?」
「ああ。あんま人が来ないから秘密の会話にもってこいだ。難を言えば埃だらけってところだな」
ちなみに今居る場所は屋上前の踊り場だ。風が流れず、閉ざされた屋上への扉の窓から陽光が惜しげもなく入ってくるため、なかなか暖かい。
魅霊が眉を寄せながらも座り込むのを確認すると、カバンに突っ込んでいたパンを取り出す。
魅霊も手に持ったカバンからなにやら取り出す。中から現れたのは、五つのチョコパン。――それが昼飯か? 甘ったるそうで嫌だ。というか、それ全部同じ種類じゃねえか。
「で、聞きたい事って何よ。異能については昨日話したけど」
そんな俺の内心を知ってか知らずか、真面目な顔で問いかけてくる。
「おお、そうだった。いや、俺はいつ何をすればいいのかと思ってな。協力するって言っても集合する時間も決めてないし、何をすればいいのかサッパリだ」
そうそう。昨日は目的だけ聞いてそれで終ってしまったんだ。その目的に至るまでの手段を聞く事を完全に忘れていた。
そう言うと、しまったー、なんて顔をしながら額を押さえる魅霊。……忘れてたな、こいつ。
「そ、そうね。昨日は遅かったし、今日あたり言おうとは思ってたんだけど」
嘘つけ、と即答したかったが、烈火の如く怒り狂いそうなので止めておく。……なんか負けず嫌いっぽいしな、こいつ。
「まあ、十時くらいにあの公園にくればいいわ。その後、街を適当に歩いて犯人捜しをするから」
「適当に、ってお前。大丈夫か、それで?」
「手がかりが無いからね。だから適当に歩き回るしかないの」
やってられない、そんな感情を顔面に映しながら、チョコパンを口に運ぶ。
まあ、別に俺は構わない。それに、公園に寄って夜街を練り歩くのは俺の日常ではないか。
自分の日常がほとんど崩れていない事を考えると、自然、笑みが浮かぶ。
「――けど、アンタも変わってるわね、ホント。普通、他人に無い能力を自分が持ってたら、『自分が偉いんだ』って錯覚しない?」
「俺の場合、そんなに褒められる能力でもないだろ。まあ、ハサミが無い時とか便利だけど」
ふと、姉貴の言葉が頭に浮かぶ。
『人っていうのはね、自分と違う人には厳しいの。それを見せたら、きっと仲間はずれにされちゃう』
ガキの頃に聞いた忠告。それは、今の俺の精神を形作る骨子なっていた。
「それに、どんなに凄くて人を喜ばせる能力があったとしても、人間ってのは自分が理解できない物を恐れるもんだろ? わざわざ恐がられるために力を公言するほど、俺はマゾじゃないしな」
「……ふうん。そっか」
何を納得したのかは分からないが、一人で頷いている。
……まあ、別に追求する事でもないか。
話題も無くなり、食べる事に専念する。
いつも通り、適当に選んで買ってきたパンにかぶりつく。
うん、味のほうはいいんだがなぁ。問題は昼休みにしか買えない事か。
全部のパンを食べ終えると、束の間の静寂が降り立つ。
昼休みが終るまでだいたい十分はある。何ともいえない、中途半端な間だ。
「そういや、お前って暇潰す時ってどうするんだ?」
適当に話題を投げかける。
――間が持たん。無言で他人といるという状態は精神的にけっこうキツイ、という事が痛いほどわかった。
「そうね。大抵は小説を読んでるわ」
一瞬だけテレビをつけたような、数瞬の会話と動作。その後、また静寂。
……いや、どうするよ、これ。
知っている分野ならそこから発展させて、チェーンのように話題を連ねていくが、本とか読まないしなぁ、俺。
「そ、そうか。どんなやつ読むんだ?」
「どんなものでも読むわよ。一般書籍から純文学、ライトノベルもね。食わず嫌いをしてたら名作にありつけないでしょ? まあ、現代を舞台にしたファンタジーは避けてるけどね」
「なんでだよ」
「わたし自身が他人から見る伝奇とかファンタジーの世界にいるから。ほら、そういうのが薄っぺらく感じて」
……なるほど、まあ確かに。普通の奴はそういうのを想像で書くしかないが、魅霊は自分の肌でその世界を感じているんだよな。
昨夜を思い出す。
共に戦うと誓い、握手をした時の感触。ゴツゴツとしていて、女よりも戦士を連想させられた。
そんな事を考えると、ふと気になった。
「そういや、お前って強いのか?」
「……それ、どういう意味?」
突き刺さるような――いや、それどころか貫通して天高く突き進んで行きそうほど鋭い視線を向けられる。
まさか、わたしが弱そうとかそう言う意味じゃないだろうなクラァ! とか、そんな感じの意味がこの視線には込められているに違いない。
「いやいやいや。悪かった言葉が足りなかったすみません、だからちっと落ち着け。そんな目で見つめられると途中から快感になっちまうだろ!?」
――いや、俺のほうが落ち着け。延髄反射でワケワカラネエ言葉が澱みなく流れたんだが。
見ると、魅霊は呆れて怒りなんて枯れ果てた、とでも言いたげな顔。
「……ま、宗司はわたしの戦いを見てないしね。疑問に思うのは仕方がないのかもしれない。そうね、今夜辺り、異形に出会ったら見せてあげるわよ」
その瞬間をしっかりと目に焼き付けておきなさい、とでも言うように、剣呑な笑顔を見せる。けれど、その行為で美しさが損なわれる事はない。いや、むしろその危険な雰囲気は、彼女に日本刀のような鋭い美を与えていた。




