十二話 殺意
軋む。なにが? それは自我。
意識はパレット、人格は絵の具。一つのそれと、ふたつのそれ。ぐりぐり、ぐりぐり、かき混ぜる。
けれど、二つの絵の具は断じて混ざり合わない。例えるならマーブルパン。表向きにはパンの生地、けれど中は別の味。だが、それも完全に混ざりあっているわけじゃない。
だが、二つの拮抗は破られ次第に混ざり合っていく。だが、それらは本来混ざるはずの無いモノ。どんな毒素が出てくるか夢想もできない。
けれど、混ざり合う速度が緩やかなら、生み出される毒素も少量。故に、それらは気付かぬ内に静間宗司という人間を蝕んでいく――――
◇
じくじくと古傷が痛むような――そんな悪夢だった。
体は冷汗でびしょびしょ。一瞬、寝てる最中に水でも被ったのかと思うほどだ。心臓は外の景色を見たいと叫ぶように動き回り、呼吸は大きく乱れている。
「あ――」
未だにまどろみの世界に片足を突っ込んでいる意識が、ゆっくりと覚醒しようとする。
ぼやけた視界がしだいに明瞭になり、ぐるりと瞳を回す。殺風景な部屋に、テーブルの上に載った場違いなパンダのぬいぐるみ。そこで、ここが魅霊の家だと気づいた。
――ああ、そうだ。昨日、泊まらせてくれって頼んだんだよな。
ぐっ、と伸びを一回。……べとり、と服が肌に張り付く。キモチワルイ。
「シャワーでも借りるか」
魅霊の姿を探すが見当たらない。買い物だろうか。
勝手に使った事は後で謝っとけばいいかー、と脳内で結論を下すと、洗面所の扉を開け――
「ぇ――あ」
直後、目が合った。
微かな湯気。バスタオルに隠された神秘は桃色に上気している。そして、水気を吸った滑らかな黒髪がどこか淫らである。肌色の肌を覆う服は、随分と露出が大きい。
数々のヒントを元に推理……結論。それは、シャワーから上がってきた魅霊さんに違いありません。体をあらかた拭き終わって、下着をつけたところでしょうね。ええ、もう絶望的なくらい確実に。
「そう――じ?」
最初、ハトがモノホンの銃声を聞いたような、呆気にとられた顔をしていた魅霊。けれど徐々に理性が戻り、ある感情が装填される。すなわち殺意。
――コロサレル。
冷汗の分泌スタート。背筋が氷結していく感覚。だが、ある一部分だけは灼熱を内包する。ああ、男って単純な生き物だよなーたはは、などと軽く現実逃避。
wish、と呟き短剣が出現。それを構え、目の前の怒り狂う乙女は、そっと告げる。
「遺言なら、聞くけど?」
と。
ああ、まずい。この人、本気と書いてマジだ。
凍てつくような怒りの波動を感じながら、一歩、後ろへ下がる。
「いや、その、たはははは」
「――遺言は聞いたわ」
ちょ――魅霊さん、落ち着け、落ち着いてぇ――! 今の遺言違う、遺言違うよ!
どうどう、となだめようとした瞬間、鳩尾に衝撃。短剣の柄でぶん殴られたんだとぼんやりと理解し、そのままきりもみしてベッドにダイブ。
激しい痛みを耐えて振り向くと、短剣を振りかぶった魅霊が――――
「ちょ、ま、それは洒落にならんって! ストップ! スゥトオォアァアッップ!」
◇
それから三十分後。
「死んでたぁ! 運悪かったら冗談抜きで死んでましたよ魅霊さん?! そこんとこどうお考えでありまするか?」
「わ、悪かったわよ。――その、ちょっと、錯乱しちゃって」
ちょっと錯乱して殺されるのか、いやいや、世の中まだまだ俺に理解できない法則が存在していますね。少しでも不可視の刃を出現させるタイミングが遅かったら、俺の頭真っ二つでしたよ?
「でも、俺の注意力散漫な部分もあったわけで……今日のところは引き分けにしておいてやろう!」
「……いや、発端は全部あんたの責任でしょうに」
痛いところを突いてきますが、そこんとこは気にしない方向で。うん、気にしたら負けかな、って思ってる。
非難するような視線から瞳を逸らし、窓から覗く風景を見る。
太陽はかなり高い位置で自分の仕事をしている。それを見る限り、今は昼頃か。
――学校はサボり。魅霊が言うに、そんなところに行ってる暇があるなら体力を温存しておけ、との事だ。
そんな事を考えていると、ぐう、と腹の虫が自己主張。てめえが寝てるから朝メシ食いそこねたじゃネエかさっさとなんか食え、と抗議の声をあげる。
「さて、魅霊。とりあえずなんか食いたいから、外食代、貸してくれ。財布は家だし」
「……なんでいきなり外食なんて方向に向かうのよ。家にある食べ物で十分でしょ?」
魅霊、そういうのはもっと食材のレパートリーを増やしてから言ってくれ。俺はチョコレートジャンキーじゃないし。
だが、この女は「おいしいのに……」と不満面。
「いや、あのですね? おいしいのは――まあ、否定はしないけどさ。それ以前にチョコレートはメシにならない」
ほんとに、どんな食生活を送ってきたのやら。腹を裂いたら血と臓物の替わりに、どろどろに溶けたチョコレートが吹き出してきそうだ。
説得する事、数十分。魅霊はいまだ納得していない顔だが、財布を取り出した。
「千円くらいあれば十分よね? それ以上は出さないわよ」
「おーけーおーけー。いや、なんかこれヒモみたいだな」
魅霊が開いた財布。そこに、一枚の写真が挟んであった。
それは数年前だろうか――髪をツーテイルにした、今より少し幼い魅霊が写っていた。真昼の太陽のような笑みを浮かべながら、隣の男の腕を抱きしめている。
で、腕を抱かれた男は――これまた奇抜な……。
一般的な日本人の例に漏れず黒髪なそいつは、なぜだか前髪だけ赤く染めていた。一歩間違えば個性的を通り越して奇妙奇天烈だが、なぜだが地毛だと言われても納得してしまいそうなくらいに自然だ。
なんでだ、という悩みはすぐに氷塊。こいつ、瞳が赤いんだ。おまけに服装も赤い色を基調としているからか、バランスが取れているんだろう。
写真に写る男は困ったような、呆れたような、そんな表情で魅霊を見下ろしている。
――けど、こんなにいい顔で笑う魅霊を、俺は初めて見た。そんな顔をさせられる程に、信用された相手なんだろう。なんか、もやもやもやもや、胸の辺りで霧で包まれている、そんな感覚。
「はい。お釣りは返してよ」
「分かってるよ」
ぺらぺらの野口さんを受け取り、ポケットに突っ込む。役目を終えた魅霊の財布は、ゆっくりと閉じようとする。
その時、ふと、目に入った。
財布が閉じる寸前。先程の写真が魅霊と男以外にもう一人いる事に気づいた。
だが、それはナイフで薄く削ったような後があるだけで、それがどんな人物なのか、さっぱり分からない。
「……んじゃ、行ってくる。俺がいないからって寂しくて泣くなよっ」
「泣くかっ! まったくあんたは……」
そんな軽い会話を交わし、玄関へ向かう。
――あの写真が気になったが、聞くわけにもいかないだろう。
大切に身近に置いた写真。それは、きっと掛け替えのない思い出が刻まれたモノ。それを、部外者である俺がずかずかと問いただして、いいワケがない。
そんな僅かな距離感。胸の霧が、深くなったような気がした。
◇
――――焼き尽くすような殺意の刃。無骨なそれは時間という冷却機関によって荒熱が失せ、鋭い凶器となる。そう、全てを断つ復讐の刃へと――――
長い、長い日々だった。ここに至るまでに狂わなかったのが奇跡であり、不幸でもあった。
脳裏に刻まれた風景は色あせる事は無い。それを思い返すたび、私は喉から声にならない慟哭を吐き出す。
空想世界で繰り返される思考ゲーム。『もしも』という追加要素を加え、私が成し得た事を模索する。
けれど、どんな素晴らしい解決策を得ようと、それは過去の出来事。起こってしまった悲劇は覆る事は断じてあり得ない。
分かっている、分かっている、分かっている――分かっているけれど、この思考は止まるどころか加速していく。
私ができた事。彼女にできた事。ほんの数秒のタイムラグ。壊れてしまいそうだ。
ああ、壊れてしまえばどんなに気楽な事か。
正気を失い、脳内で幸せな日々を再現し、それに酔いしれる。
それは、きっと楽しい事、
それは、きっととても懐かしい日々、
けれどそれは――ただの夢物語。私という世界で完結された絵空事にすぎない。
「――は」
そんな自身が滑稽で、唇は他人の物のように笑みの形を作る。
隠れ住んでいる廃屋の窓から外へと視線を向ける。
静謐な冬の空気を受けながら、幸せに――自分達が幸せだという事実すら理解できないほどに幸せな親子の姿が見える。
途端、胸が張り裂けそうになる。
あんな事さえなければ――私は彼女と一緒に……。
失われた未来に思いをはせ、瞳を閉じる。
――白いワンピースが似合っていた彼女。ブロンドの長髪の手入れが面倒だとぼやいていた彼女。異端を狩るために共に戦った――凛々しい姿。それらが、網膜に焼き付いて剥がれない。
「――――こんな思いも、あと、少しで」
そう、あと少しで終る。
異法生物創造特化型異法士――宇野山真治。夜の闇に埋葬された彼の助力があってこそ、ここまでこれたのだ。
私一人では、こんな大きな範囲に異法的な怪異を呼び起こすのは不可能だっただろう。
彼がいたからこそ――アレは……黒き百合の姫君は動いたのだ。
ふと、最後の風景がフラッシュバックする。全ての始まりで、全ての終わりだったあの瞬間。
「お前は、私を恨んでいるか……?」
とうに埋葬された彼女に問いかける。死地に追いやったのは私だ。黒百合の殺意に気付けなかったのは、私の咎だ。まだ、遣り残した事もあるだろう。恨んでいないはずがあるまい。
感傷に浸る時間は唐突に破られる。
ぎいぎい、と板が軋む音。誰かの話し声。
「ここも、嗅ぎつかれたか」
腰に携えた長剣を抜き放ち、来客を出迎える準備を整える。
扉が軋む。悲鳴のようなその音を聞きながら、来客の姿を見た。
人数は二人。思ったより少ないと思いながら、二人の容姿を見て合点がいった。
一人は小柄な少年だ。外面に少女のような可憐さ、内面に男の屈強な精神を内包している。そして、白墨の長衣に闇色の袴。両の手には拳を守る手甲が鈍い輝きを放っている。
もう一人は割烹着の女性だ。少年よりいくらか高い背丈は女にしては長身だ。
この二人は、確かこの街の守護者。栗栖家現当主、栗栖刀夜、そしてそのサポート役である草加一重。両者とも若くして実力は折り紙つき。なるほど、下手に協会に協力要請をしても足手まといが数人送られるだけと踏んだか。
「――問おう。この街の怪異を起こしているのは、貴方か」
形式的な礼。すでに私が犯人だと確信しているのか、異法による肉体強化もしている。
「その通りだ、栗栖の守護者」
言い逃れができる状況ではあるまい。そう判断し、二人分の殺意を押し返す。
腕をだらんと弛緩させ、剣先が床に載る。
その動作を皮切りに、栗栖は雷光と化した。
――今代の栗栖の当主が扱う身体能力強化のレベルは並ではない、か。
夜闇に散った共闘者の言葉を思い返し、剣を振るう。肉体的な能力は上でも、あちらは得物が無い――いや、創れない。身体能力の強化しか扱えない、そう聞いている。ならば、焦る必要など皆無。
我が愛剣。ゆらゆらと炎が揺れているような形の刀身、フラムベルグ。その刃は美術的な造形からは夢想もできぬほどの残虐性を内包している。
ノコギリで切り裂くようなものだ。ミンチのようになった傷口は早急な手当てをしなくてはそこから腐ってしまう。
「――!」
室内で舞い踊るは銀の燕。それを叩き落そうと躍起になるのは少年異法士。遥か昔の武芸者に倣って、燕を断つ技術でも磨いていれば、叩き落せたかもしれない。
翻弄される少年の防御をかいくぐり、剣を跳ね上げる。狙うは――首!
しかし、閃く死の白光は、横合いから放たれた金属によって阻まれる。
「あらあら、わたくしの存在をお忘れではないですかー?」
それを放った本人は、まるで道端で出会った友人に見せるような笑顔を私に向けていた。
――その両手に、巨大な扇子と見間違えるほどの量の長剣が握られて無ければ、ずいぶんと魅力的な笑みだったのだろう。
無限剣製の仮面士。栗栖家の使用人となる前にはこのような二つ名で呼ばれていた女だ。
「戦闘といえど笑みの仮面は外さない、か」
剣を生み出す事しかできない、出来損ないの物質創造特化型異法士。だが、剣を創るという能力に特化しているが故に、その剣は――
彼女の手から無数の剣が放たれる。真横から降り注ぐ雨水のようなそれは、私の前方を隙間無く埋め、無惨な死体に変えるべく疾走する。
「――ふん」
左手を突き出し、強く、念じる。
深く、重厚なイメージを展開する。そう、それは揺らめく紅色の炎だ。大気に含まれる酸素を喰らい尽くす怪物である。
灼熱の紅蓮が私を守る防壁と化す。しかし、草加はそんなものは関係ないと言うように、追加の剣を投擲する。
――おそらくは、自身の剣製に絶対の自信を持っていたのだろう。笑顔の仮面が、砕けた。
「うそ――」
美麗な顔は呆然というペンキで塗りつぶされる。
私の足元には熱で溶解した金属――元は、剣だったものが水溜りのように集まっている。それらは、元の構造が維持できなくなった事に気付くと、この世界から消失し始める。
彼女は依然として動かない。悪趣味な冗談でも聞いたような、そんな顔をしていた。
愚かな。自身の技が破られたからといって、何をうろたえている。
――目的までに準備運動をしておきたかったが、それすら適わなかったか。
長剣に炎を纏わせる。そこから変質を開始。炎の形を組み替え、神々しい姿を形作る。
「――喰らえ」
私の声を聞き、擬似的に意思を持った炎が咆哮する。それは、竜。この日本において神聖視される幻想に生きる獣である。
それは二匹の獲物を確認すると、大口を開けて疾駆した。
「――あ」
「っ、一重さん、剣を!」
「あ、は、はい!」
――ほう。
心ここに在らず、といった状態の彼女を一言で現実に引き戻した少年異法士。若いが、冷静な判断ができるようだ。もしも、普通の同僚として出会えたのなら、安心して背中を預けられる友となれただろう。残念だ。
栗栖は彼女が創造した得物――巨人が扱うような巨大な刀を握る。
あれは斬馬刀。騎馬兵が乗る馬の脚を斬るための長刀だ。
小柄な体躯と反比例するようなそれ。まるで、安っぽい冒険活劇でも見ている気分になってくる。
「――らぁあああっ!」
その上、栗栖はその長刀を迫る竜に振るうのだ。知らず、失笑が漏れる。
あれでは水を切り裂くようなものだ。水に包丁を突き刺しても意味など無いように、そんな行動もまた無意味である。そう、思った。
「――む」
炎の竜が咆哮する。それは、威嚇ではなく、ただただ痛みに泣き叫ぶ悲鳴だ。
何が起こったのか、と少年を観察すると――なるほど。
少年が扱う刀。それは、薄く発光しているではないか。いや、刀だけではない。少年が纏う衣服も、夜空に浮かぶ星のように微かな光を放っている。
物質強化の異法か。なるほど、それならあの竜も斬れる。
身につけた道具に自身を同調させ、異法的な力を増すそれ。だが、人間は鉱物とは違う概念で生きるものだ、そう易々と成功する物ではない。
――いや。
ふと、思い至る。
栗栖少年が持つその刀は、彼女、草加一重が創造した異法具だ。
少年に同調させやすいように創られた物ならば――異法の難易度は下がるのではないか?
「剣しか創れない欠陥品。そして、身体能力を引き上げる事しかできない欠陥品。二つ合わされば一流以上の異法士か」
友と共に戦うその姿を見て、ふと、忌々しい記憶が浮上した。
共に戦場を駆け抜けた――それがどんな人間化知らず。
共に笑い合った――相手の闇に気付かぬ自身がただただ滑稽。
仲間だと――信じていた。ずっと、信じていたかった。
けれど、裏切られた。これ以上ない形で。
「はぁ――!」
いつの間にか、少年が必勝の間合いで刀を振るっていた。
それを長剣で受けると、窓を蹴破り外へ脱出。振り向きざまに炎の竜を放つ。先程の対象以外に危害を加えない優しい炎ではなく、全てを飲み込む地獄の業火だ。守護者であるあの二人は、異法による火事を防ぎたいはず。故に、私が逃げ出す時間は十分に取れる。
平日だからか、駆ける道路には人気はない。好都合だ。
数日前に襲った家屋に転がり込む。
リビングまで歩くと、数日前の殺戮の名残が見える。
フローリングの床は焦げ、テーブルは灰となっている。その傍らに、一枚の紙切れが落ちていた。『おとしだま』、そう書かれた封筒であった。中には数枚の千円札だけが残っている。
「――」
幸せな家庭を襲って隠れ家にした。その事実に心が痛む事は無い。そう、もはや痛まないのだ。
「ああ――」
ここで佇む私は、もはや人ではなく、良心を取り払い目的へと猛進する機械。もはや止まらぬ。
だが、ふと疑問に思う。既に目的は目の前だ、それも容易く達成してみせよう。
けれど、達成したら、私はどうやって生きていけば良いのだろう。
「――――取らぬ狸の皮算用、だ」
そんな思考に意味は無い。今はただ、花を散らすために死力を尽くすのみ。
そう、黒い黒い、黒き百合の花を――




