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九話 白きケモノ使い

 早めに家を出て、学校へ向かう。

 冷たい風がギブスのように体を引き締めてくれるのを感じる。

 通学路には誰もいない。部活に精を出すスポーツマンにはこの時間は遅すぎるし、惰眠を貪る帰宅部にとっては早すぎる時間帯だ。

 誰もいない通学路。その中を一人で歩くのは、この場所を貸切にしてしまったような優越感がある。

 いや――今日はそれだけじゃない。そう、もう一つ理由がある。


「おっ」


 しばらくすると、この誰もいない空間に小さな姿――もう一つの理由が見えた。

 男子の制服に、整えられた黒髪。もし女子の制服を着ていたら誰だって女だと思うような姿。そんな奴は何人もいないだろう。


「よう、刀夜。元気か?」

「あ――えと、し、静間、おはよ」


 唐突な俺の登場に困惑しているのか、上擦った声で挨拶をする。


「くくく、この程度でびびるようじゃぁまだまだだな。精進したまへ」

「――なんというか、またワケの分からない事を。まあ、いつも通りって事なんだろうけど」


 ほっとしたような怒っているような、そんなワケの分からない顔で呟く。


「そうだ。今日は一緒に弁当食べようよ」

「え?」

「あ、いや。別に嫌ならいいんだけど」

「違う違う。そうじゃなくて」


 どよーん、なんて効果音がつきそうな程、刀夜が沈み始めたので、慌てて弁解を開始する。


「お前、最近は仕事とかで昼休みになると帰っちまうだろ? だから、大丈夫なのか、って事」

「ああ、それなら大丈夫。一応一区切りは着いたし。ま、メインが残ってるんだけどね」


 それはよかった。自然、頬が緩むのを感じる。

 たった二日だが、こいつと馬鹿な話ができないのは辛い。俺、同学年に友達とか少ないし。


「よしっ。んじゃ、一区切り祝いとして、なんか奢ってやろう」

「一区切り祝いって……聞いた事ないんだけど」

「細かい事は気にするな。こういうのは感覚なんだよっ」


 いつも通りのふざけた会話。それが嬉しい。

 やっぱり、俺は平穏が好きらしい。映画みたいなハードな人生じゃなくて、他人から見たらどうでもいい毎日。それさえあれば、俺は幸せなんだろう。

 よく姉貴に『枯れてるわね、あんた』などと言われるが……なるほど、確かに一般的な高校生の考え方じゃないな。

 なんというか、穏やかな毎日だけを体が求めているような、そんな感じがした。 


       ◇


 昼休み。苛烈な購買戦争は終結し、皆思い思いの場所へ向かう。

 様々なパンを抱えて意気揚揚と帰る奴、人気のあるパンを買えずに適当なパンを買って帰る奴、何も買えずにすきっ腹を抱えてうろうろする奴。ちなみに、俺は最後に分類される。


「うわあぁ……静間、なんかゾンビみたいだよ」

「ぐ、ちくしょう。あそこのコーナーで転ばなきゃ……ッ!」


 大小さまざまな足跡がついた制服をぱんぱん、と払いながら言う。

 ああ、そこらで弁当食ってる奴が怨めしい。祟ってやる、祟ってやるぅー!


「ま、まあまあ。ほら、僕の弁当分けてあげるから」


 ――俺は神様なんて信じていないが、今この瞬間に、唯一神栗栖刀夜を信仰する。弁当の蓋にごはんやおかずを乗せる刀夜の姿を見ながら、硬く決心した、


「ちょっと静間。なに拝んでるんだよ。止めてよ、変だよ、それ」

「うむ、俺もそう思う」


 まあ、気持ち悪いと言われなかっただけマシか。

 筆箱からシャーペンを二本取り出し、それを箸代わりにごはんを口に運ぶ。


「ぬう――刀夜殿。お主は毎日こんないいメシを食っているのでござるか?」

「えっと……いいご飯かはよく分からないけど、そうだよ」


 なんと羨ましい。弁当に入っているから全て冷めているのだが、それでも美味い。出来立てならたぶん昇天してしまうんじゃないだろうか?

 それに、これはきっと草加さんの作ったメシであり、あんな美人にメシを作ってもらえる刀夜。ちょっと絞め殺したくなりますね。

 だが、こうやって分けてもらっている手前、この怒りの矛先で刀夜を貫く事はできない。


「ぬはぁ、この感情を一体どこに向けだらいいんだっ!」

「前説なしに叫ぶのは止めた方がいいよ。変人っぽいし」

「うるせえ。変人ぽいっていえば、夜中に街を散歩する時点で変人認定されとるわい」

「――静間」


 ふと、刀夜の声音が冷たくなる。


「しばらく夜に出歩くのは止めておいた方がいいよ。……これから、どんどん物騒になっていくだろうから」

「いや、でもな……」


 俺には魅霊との約束がある。それを果たさなければ、異法協会という非日常の世界に永住する事になるのだから。


「ねえ、僕に隠している事、ない?」

「――ない。そもそも、隠す理由もないだろ」


 刀夜の声は研ぎ澄まされた刃のよう。会話しているだけで冷汗が出てくる。

 誰だこいつ。一瞬、そんな疑問を抱く。

 知らない。俺は、こんな刀夜は知らない。なにか、姿形は同じなのに中身がそっくり入れ替わっている、そんな空想に囚われてしまう。


「なら、いいんだ。でも……散歩するにしても早めに帰りなよ。何かあってからじゃ、遅いんだからね」


 それだけ言うといつもの刀夜に戻る。いつものように微笑みながら、美味そうに弁当を食べ始める。

 ……なんだ、別になにもないじゃないか。さっきの感覚は、たぶん、痛いところを突かれたからそう感じたんだろう。


「それより静間。約束の物、持ってきたよ」

「なんだとっ!?」


 その言葉を聞いた瞬間、先程の事は全て吹っ飛んだ。

 刀夜は自分のカバンからCDケースを取り出す。マイナーだが、知る人ぞ知るへヴィメタルバンドのアルバムである。


「おお、さんきゅーな。これ欲しかったんだよ」

「ふふ、なかなかよかったよ、それ。たぶん静間も気に入るんじゃないのかな?」


 そうかそうか、と言いながらケースを開く。……うん。中にはちゃんと『めいどさん☆みこさん』という字と二次元美少女が描かれたCDが収まっている。

 ――そう、ケースはカモフラージュ。その中にあるのは、架空の少女と仲良くなったり男と女のファイナルフュージョンをしたりするゲーム。要するにエロゲーとか呼称されるものだ。


「やっぱいいよねメイドさん。ご主人さまとか一度言われてみたいよ」

「何を言うか。お前は草加さんというお手伝いさんがいるだろうに」

「甘いね静間。お手伝いさんとメイドさんは似てるようで大違いなんだよ。例えるとしたら、プリンと茶碗蒸しくらい」


 分かるような分からんような、微妙な例えをする奴だ。


「でも、巫女さんも中々いいよね。でも個人的にはメイドさんの方が好きかな」

「くくくっ、愚か者めが。巫女さんから放出される凄まじき萌えオーラがわからんとは!」


 親友として毎日を過ごしているが、こればかりは分かり合えない。交わる事のない平行線。だが、それでいい。理解はしないが、かといって貶めない。それが、萌え道の真髄なのだ。

 

      ◇


 放課後。刀夜は俺と一緒に帰るのかと思っていたが、早めに戻って仕事の続きをする、という事で毎度の事ながら人間離れした加速で帰路を駆け抜けて行った。


「俺も帰るか」


 カバンを手に下駄箱へ向かう。すると、階段を降りる一つの影。腰まで届く黒髪が太陽の光を反射し美麗に輝く。

 その姿に数秒間、魅入られる。最近よく一緒にいるから気にならなかったが、こうやって遠くから見るとやはり彼女は――魅霊は美しい。


「よう、お前も帰りか?」


 魅了の魔法が解けた瞬間を見計らって、いつものように声をかける。

 けれど、振り向いたその顔にはある感情が張り付いていた。それ即ち不機嫌。


「……そうだけど、それで?」


 ――やばい、なんか怒ってるっぽい。額に皺とか寄ってるし、目はなんか非難するみたいに鋭いし。


「ああ、えーっと?」

「……まあ、いいわ。それより、どうする?」

「えっと、どうするって……」

「呼び止めたんだから、何か用事があるんでしょ?」

「あー」


 なんとなく声をかけただけなんだが――でも、今ここで『いやー、特に用事は無いのですよ、たはは』などと言ったら更に怒りのゲージが増していきそうな気がするし。


「あー、そのだな。公園あたりまではたぶん道は一緒だろうから、そこまで一緒に帰らないか?」


 苦し紛れに、使い古された恋愛ゲームの常套句みたいな事を口走る。

 やっちまったー。

 なんですか、その学園ラブコメみたいなセリフは。恥ずかしいじゃねえか何考えてるんだ数秒前の俺!


「――まあ、別に、構わないけど」

「あー、その悪かったというかなんというか――ってあれぇ!?」


 なんですかそれは、こんな流れゲームとか漫画とか青春ドラマとかでしか見たことねえですよ。


「どうしたのよ。早く行きましょ」


 そんな事を考えている間に、すでに魅霊は靴を履き替えている。


「まあ、いいか」


 おそらく、こいつとはそういう可愛らしい関係にはなりそうにもないし、と言い訳めいた思考をする。

 俺も靴を履き替え、校舎の外に出る。

 外は穏やかに流れる冷風。風がない分暖かだった校舎とは違い、外はまるで極寒だ。遠くで帰路を辿る制服姿も、体を丸め寒さに凍えている。

 けれど、そんな奴らとは対照的に俺は大きく伸びを一つ。うむ、やはり冬は寒いのがいいですのう。


「――元気そうねぇ、あんた」


 呆れたようにこちらへ歩み寄る魅霊。魅霊は寒そうに両腕で自分の体を抱いている。


「ほんと、他の女子はすごいわね。こんな中でミニスカートでいられるんだから」

「お前だってミニスカートだろ?」

「だって、わたしはこれ履いてるし」


 指で自身の足を指し示す。なるほど、そういやオーバーニーソックスを履いてたっけな。なるほど、なんか温かそうだ。


「なんで他の子はこれを履かないのかな。暖かいのに」


 たぶん、マニア趣味っぽい感じがするからじゃないだろうか。

 それを突っ込むべきか否か、真剣に悩んでいると、ふと魅霊が立ち止まる。


「あ、そうだ。ちょっとあそこ寄らせて」


 なんだ、と思いながら魅霊の視線を追うとコンビニがあった。


「あそこで晩御飯の弁当を買いたいのよ。昼、食べそこねたからお腹空いてるのよね」

「弁当って……スーパーとかで材料買って料理する方が経済的で美味いだろ」


 後半の言葉が、妙に俺を非難するような響きを持っているような気がしたが、気のせいだなと思い直す。


「ふう……わたし料理できないのよ。なにより面倒じゃない。ここ数年、全部弁当や外食で済ましてるわよ」


 ――信じられねえ、そんなんで栄養は大丈夫なのか? いや、それよりも、そんなんじゃ食費がかさむ一方だろうに。

 つーか、そんなんじゃ駄目だろう。手料理は面倒とかそういう前に、なんか特別な暖かさがあるもんだと思う。


「――魅霊。今日は家でメシ食べねえか? 正直そんなんじゃ体が持たないぞ」

「え――っと、い、家って。だ、大丈夫よ。何年も続けてきた事だし」

「それが問題だっつーの! いいから来い、これは決定事項な」


 コンビニに行こうとする魅霊の腕を引きながら、目指すは我が家。途中魅霊が、


「ちょ、ちょっと待って。心の準――いい! わかったから、その、手離してってば!」


 慌てて顔を真っ赤にしながら言うが、華麗にスルー。その後も、ぐいぐいと引っ張り続けた。


      ◇


「えっと、おじゃまします……」


 ぼそぼそと口ずさみながら、恐る恐る足を踏み入れる魅霊。いつもとは違い、借りてきた猫のように大人しい。


「さあってと、それじゃあなんか作るか」 


 米袋を取り出しながら、何を作ればいいのか、と首を傾げる。


「なあ、お前嫌いなものってあるか?」

「苦いもの全部」


 ……なんっつーか、分かりやすいというか、子供舌というか。

 米を磨ぎながら苦笑する。それを、炊飯器に入れてスイッチオン。おかずは何を作るか、と我ながら行き当たりばったりな料理を開始する。

 冷蔵庫を開け、チルド室を覗くとひき肉を発見。野菜室も捜索したらタマネギまである。これは、俺にハンバーグを作れという政治結社の圧力だな。


「あー、ちっと時間かかるから魅霊はテレビでも見ててくれ。その間にさくっと作っちまうから」

「う、うん」


 きょろきょろ、と。何が珍しいのかリビングを舐めるように見渡す。しかも、ぴったりと両脚を合わせ、両手は膝の上。どこの入学式だよ。

 タマネギを細かく切り、熱したフライパンに入れる。じゅう、という音がリビングに響き、魅霊が『なんだなんだ?』というように顔をこちらに向ける。

 まあ待ってろ、などと言いながら色が変わるまで焼けた事を確認するとタマネギをボールに移す。荒熱はとらないといけませんぜおくさん?

 その間に別のボールに適度にパン粉を入れ、それを湿らせるように牛乳を投下する。

 ふと魅霊の方を向くと、興味津々といった風にこちらを見ている。


「くくく、まだまだ、これはまだ前哨戦。これからが、死力を尽くす戦いだ――!」


 タマネギの荒熱が抜けた事を確認すると、先程のパン粉と牛乳が入ったボールに投入!

 そこから更にひき肉、卵、塩コショウを入れる。


「さあ、見ていろ魅霊……これが、ワシの真の力じゃ!」


 右手をボールの中に突っ込み、すうっ、と息を吸う。

 ごくり、と生唾を飲み、何が起こるのかと注視している魅霊。さあ、ショータイムの始まりだ!


「うおぉおおおお!」


 無意味な叫び声を上げ、そこから一気に――混ぜるべし! 混ぜるべし! 混ぜるべしっ!

 ぐっちゃぐっちゃ、と。食材たちが協奏曲を奏でる。

 適度に混ぜ終えたのを確認。うむ、いい調子だ。


「見ていろ、これが俺のスキル。姉貴と交代で晩メシを作ってきた俺だからできる秘儀!」


 ……何やってんだ俺、どこの料理漫画だ。などと思いながら、興味深そうに料理の過程を眺める魅霊を見ると、ここで死力を尽くさなくては……芸人失格だ! と思うのだ。いや、俺は芸人じゃないけどさ。 

 素早く混ぜ終えた肉を適度な大きさに変え、まな板の上に並べていく。

 洗練された俺の動きに、魅霊は思わず感嘆の声を上げている。そうだ、もっと驚け。それが俺の力となる!

 そして、全てのハンバーグの雛形が並べられた。そう、準備は整ったのだ。


「お嬢さん、少し顔をお引きなさい。油が跳ねますわよ」


 どこかの女学院の淑女っぽい言葉遣いを突っ込む事無く、大人しく身を引く魅霊。その瞳には、ただ俺の料理過程が映る。

 それを確認すると、近くにある油を取り――フライパンに流し込む!

 ジュー、という蒸発するような音が鳴る。タマネギとの戦いで失った油が注がれ、俺はまだ戦えるというように激しい音を放つ。


「そこだっ!」


 ヒョイヒョイ、とフライパンにハンバーグを載せていく。香ばしい匂いを放ちながら、赤かった外見はしだいに黒ずんでいく。

 ――片面は焼けたか。ハンバーグの向きを変え、赤い片面を灼熱の鉄板に押し当てる!


「これで……完成?」

「否! まだだ、まだ勝負は終っていない!」


 両面が焼けたハンバーグに、竹串を突き立てる。それは、倒れこんだ敵に止めを刺すように。

 引き抜くと、竹串に赤いものが付いている。こいつ……まだ息がある。


「はっはっはっ、惜しかったな。もし俺が料理の初心者ならば騙せたであろうが……見損なうな、俺が何年料理の道を歩んできたと思うのだ!」


 追加で熱を加え、その残りすらも焼く。大丈夫だ、お前は俺たちがおいしく食ってやる。だから……安心して眠れ。

 作り終えたハンバーグを皿に載せる。背後で炊飯器が鳴る。ご飯も炊けたようだ。

 茶碗に白米を盛っていると、玄関が勢いよく開く音が響く。


「やっほーう。宗司、あたしお腹減った、ごはんごはん」


 そう言いながらリビングに突入して、魅霊を見て固まる。客がいた事にびっくりしたのだろうか。まったく、それくらい玄関で気付けそうなものだが。


「あ――えっと。お邪魔しています」


 魅霊も唐突の乱入者に動揺しながら、慌てて挨拶をする。

 二人の沈黙を無視して、盛り付けていく。――あ、キャベツ忘れてた。まあいいさ。別に無くても死ぬものじゃないし。ごはんとハンバーグさえあれば料理としては一応、形を成してるし。

 俺流大雑把料理が完成し、テーブルにそれらを並べていく。


「あ――あ、あ」

「どうした姉貴? ふむ、あまりに俺の料理が美味そうで、呂律が回らないのか?」


 俺の軽口を無視して、ゆっくりゆっくり、腕を持ち上げていく姉貴。そのまま指を伸ばし、


「そ、そそそそそっ、宗司が彼女連れ込んでる――ッ!?」


 なぜだか固まっている魅霊を指差して、叫び声を上げた。


「……ヘーイマイシスター。その理論展開はおかしいのじゃありませんカー?」

「この状態で、他にどういう状況を想像しろと!?」

「いや、刀夜つれてきた事だってあったろ? それも、今とほぼ同じ状態で」

「栗栖くんは男でしょうが! ……待って。よし、よーく今の状態を考えてみなさい? よーく、ね」


 よーくっ、て――俺はただ、学校の帰りに家に寄らせただけで……って待て俺!


「あんた、妙な勢いがつくとそういう面とか考えないからね。やっと意味、気づいた?」

「なにやってんだ俺はっ。どこのギャルゲーの主人公だー!」


 ぐがー、とか奇声を上げて地面へダイブ。ごろんごろんと恥ずかしさにもだえる。


「え、えっと……」

「あー、気ぃ悪くしないでね。こいつ、勢いづくと男女の感覚とかすっぽ抜けるから」

「そ、そうじゃなくて、これ」

「あー、これは宗司の持病みたいなものだから、気にしないで」


       ◇


 それから俺の発作が治まり、やっとメシを食える状態になった。


「へぇ、あんた後輩に手ぇ出したんだ」

「いや、だからどうしてそういう恋愛モードに移行させたがるんだアンタは。だから友人だって。なあ、魅霊?」

「そ、そうね。……あ、おかわりお願い」


 緊張してる割にはよく食いますねアナタ……。もう三杯目だぞ。しかもまだ勢いは衰えない。どんな胃袋してるんだ。つーか、俺の知り合いは化物だらけか、この胃袋魔人どもめが。

 仰せのままに、などと言い、恭しく礼をして大盛りのごはんを手渡す。感じとしてはどこかの執事みたいに。

 瞳を輝かせながら受け取ると、ハンバーグと一緒にごはんを頬張る魅霊。凄まじい勢いで食っているがごはんは汚れていない。神業だ。


「……どこの夫婦よ。おっと、あたしもお願い」


 へーへー、と言いながら適当に盛って渡す。態度が違うのが気に入らないのか、眉を寄せていたが無視しておく。

 だが、それも些細な問題だというように、魅霊の顔を覗く姉貴。例えるなら新しい家具が家に来た時にしげしげと眺めるような感じだろうか。


「んー、しっかし可愛いわねぇ魅霊ちゃん。どーして、こんなロクデナシと知り合ったのやら」

「ちょっと待て、ちょっとどころか盛大に待て。姉が弟を形容する言葉がそれか」


 俺の当然の反論は完全スルー。さすがは我が姉貴。絞め殺したくなる。


「……えっと。宗司はロクデナシじゃないわよ。お姉さん」


 おお、魅霊さん。あんたの背中に白い翼が見えますよ。しょうがない、俺のハンバーグをやろうではないか!


「宗司はただの変人」

「あははっ、なろほどねぇ! 確かにそうだ」


 白い翼が黒く染まり、天使魅霊さまは一瞬で堕天使に変化。つーかお前ら、意気投合してんじゃねえ。


「しっかし……うにーん、かわいい。魅霊ちゃん、なんかお人形みたいで、すっごくかわいい!」

「え――あ、ちょ、待っ! お姉さん!?」


 背後から抱きついて、すーはすーは、と匂いを嗅いでいる。姉貴よ、それじゃ変態だ。


「おい、姉貴。そこまでにしとけ」

「やーだー、もっとー、もっとぉー」

「子供かあんたは!」


 どうやって引っぺがすものか、と思いながら見ていると、ふと気づいた。

 魅霊は姉貴に抱きつかれ、ばたばたと暴れています。化物を殺せるくらいの筋力を持ってるんだから簡単に抜け出せそうなものだが、遠慮があるのか抜け出せない。

 で、魅霊の足はばたばた、と釣られてしまった魚のように動き回ってます。うん、ここまではおーけーだな、皆さん。

 しかし、魅霊の服は制服。下はミニスカート。そんなに暴れたら、大切な布地がちらちらと……ッ!


「ちょ、宗司! 見てないでた、助けて!」


 当の本人は気付いていない模様。ちなみに下はチェックの模様。

 ああ、なんて男とは弱い生物なんだ。助けを求める人が目の前にいるのに、視線が動かせないとは。

 というか、チラチラと見えたり隠れたりする布地の魔力マジ半端ないぞ……!


「だからっ! なんで見て……っ!?」


 あ、気付かれた。慌てて動きを止め、スカートの裾を押さえる。

 今ならダイアモンドでも切断できそうなくらい鋭い視線をこちらに向け、姉貴にぼそりと告げ口をする。

 姉貴は何も言わずに解放。魅霊は自由となり、ゆっくりと俺に近づいてくる。


「いや、ちょっと待ってくださいね? そんなに暴れる魅霊さんが悪いのではないかと思いますがね」

「で、それを注意せずにじーっと見てる宗司は悪くないと?」


 ああ、駄目だ。説得は無理っぽい。

 逃げ出そうと後ろへ退くが、両腕を何者かが掴む。おそらく姉貴だ。


「こ、こら! 今はふざけている場合じゃないんだよ!」

「あたしはふざけてるわけじゃないんだなー、これが。魅霊ちゃーん。思いっきりやっちゃって」

「うん、わかった。えっと……」

「望。静間望よ」

「望さん。しっかりと抑えておいて」


 いやー! なんてコンビネーションしますかねこいつらー!

 目と鼻の先まで魅霊の顔が近づく。ああちくしょう。こんな時なのに不覚にもドキドキしている、俺の節操の無さに乾杯っ!


「ぎゃあぁあ! 止めて止めてストップストップ赤信号! やめてぇー! おぉーかぁーさぁーれぇーるぅー!」

「ふふっ、安心しなさい。殴ったりはしないわ」

「えー。魅霊ちゃん遠慮はいらないわよー。むしろ、半殺し通り越して全殺しでも可」


 笑顔でキル宣言をする姉貴。お前本当に俺の姉か。いや、生まれは別なんだよな、ちくしょうが!

 なぜ人は分かり合えないのか。そんな古代からの命題に頭を悩ましていると、脇の下にすっ、と小さな手が差し込まれる。


「望さん。よーく抑えておいて」

「くすぐりの刑? ちょっと甘くない?」

「うふふ。生半可なところでは終らせないわよ。個人的には失禁するくらいまでエンドレスでするつもり」

「わぁ、なかなかグッド! よし、やっちゃえー」


 うわあ、なに物騒な話してるんだこの人たちはー!

 

       ◇

 

 それから数十分。俺は生死の境を彷徨い続け、なんとか踏みとどまった。

 外は既に暗い。いやぁ、俺がどれだけ長時間くすぐられてたのか、よーくわかりますねぇ。


「いやー、今日は随分と楽しんだわぁ。ありがとね、魅霊ちゃん。中々凄いテクニックだったわよ」

「いやいや、望さんこそ。よくあそこまで暴れた宗司をしっかりと押さえつけられたわね。文字通り神業よ」


 二人が友情を深めている足元には、ボロクズ同然の俺が倒れ伏していた。きっと口元からはエクトプラズマがひょろひょろと飛び出しているんだろうなぁ。

 駄目だ。腹筋が痛い。最後の方、笑い声を超越して喉が痙攣して喘ぎ声しか出なかった。よく生きてるな俺。自分の生命力に感謝だ!


「こら、馬鹿弟。いつまで寝てるかっ。さっさと魅霊ちゃんを家まで送りなさい」

「あ、別に家くらい自分ひとりで帰れるわよ」

「だめだめ。こーいうのは男の義務よ。最近ただでさえ物騒なんだから」


 物でも扱うように俺の首を掴み、無理矢理立たせる。

 あーくそっ、行きゃいいんだろ!

 すでに姉貴に抵抗する気力は皆無。俺はただ、姉貴の要求に従うだけのマリオネットさ……。


「あー、いくぞみれー」

「うわ、ゾンビみたい」


 誰のせいだ誰の! と全力で叫びたかったが、そんな力は残ってない&俺のせいだと二対一という数の暴力で押し切られるだろうから、そっと胸にしまっておく。

 玄関に向かい靴を履く。後ろでにやにや笑っている姉貴に小さくない殺意を覚えながら、魅霊と一緒に外に出る。

 ――空を見上げると、分厚い雲が月明かりを隠す。人工的な明かりたちが、自分たちこそが夜の覇者だというように煌々と輝いている。 


「雨、降りそうね」

「ああ」


 適当に相槌を打ちながら夜道を並んで歩く。

 気まぐれな天気の妖精さん。どうか俺が帰るまではじっとしててください。つーか、じっとしてろ。

 俺の祈りは虚しく、どんどん機嫌を損ねていく雲さん。勘弁してください。


「そういえば、どうして今日はわたしの教室に来なかったの? 前は頼んでもいなかったのに突然来たくせに」

「ちっとな。友人と久々に一緒にメシ食える時間を取れるようになって」

「……ふぅん、へえ……」


 微妙に不機嫌そうな呟きを残して、会話が途切れる。

 俺は会話が得意な方ではない。おそらく誰も信じないだろうが。けど、相手から何かを振ってきたら何らかのオーバーアクションはできるが、自分から話しかけるのが苦手だったりするんだな、これが。

 故に、魅霊が話しかけなければ無言状態となる。無理してなんか話題を探るが、まったくアイディアが出てこない。

 気まずい沈黙を孕んだエスコートは、マンションについて終焉を告げた。


「よし、俺は雨降らないうちにさっさと帰るな」


 じゃあな、と片手を上げてさよならのジェスチャーをして後ろを向く。


「ちょっと待って」


 ぐい、と袖を掴まれる。

 なんだと思い振り向くと、呆れ顔の魅霊。


「丁度いいし、このまま探索しましょ。あんた、望さんにあんまり出歩いている事を知られたくないんでしょ? 窓から外に出るくらいだもの」


 ……なるほど。たしかにこのまま帰ってしまったら、また外に出るのに一苦労する。

 けれど、今なら姉貴『ちょっと魅霊の家に寄ってた』とでも言えば、怒られるかもしれないが不審な点はないだろう。


「うっし。わかった」

「そう。それじゃ、雨具持ってくるから、そこで待ってて」


 おけおけ、などと軽く言いながら階段に腰を降ろす。

 エレベーターの中へ入っていく魅霊の後姿を見送ったあと、ぼう、と外に視線を向ける。

 月も星もない、無機質な明かりだけが支配する暗闇の世界。はあ、と溜息をつく。

 ぽつり、ぽつりとコンクリートを叩く雨音が耳朶を打つ。あーあー、遂に降りやがった。

 小さな雨音は次第に強くなり、視界を水のカーテンが覆う。夏ならまだマシなんだが。冬の雨は勘弁して欲しい。容赦なく体温が奪われるし。

 まだ来ないのか、と多少苛立ちを覚えながら、ただ外を見るが、退屈しのぎにもならない。

 月のような神秘もなく、テレビのような娯楽性もなく、ただ水が降り注ぐだけ。これで退屈が紛れるのなら、退屈という言葉はこの世に存在しなかっただろう。

 そんな思考に没頭していると、エレベーターが到着した事を知らせる電子音が鳴り響く。

 やっと来たか、と視線を向けたが、脱力。魅霊ではなかった。

 細身の体躯は分厚いコートに包まれ、両手にはミトン、首にはマフラー、頭にはニット帽を被っている。

 別段気に留める人物でもない。だが、それらの衣類の全てが白で統一されている事に、僅かながら興味を引かれた。

 俺の視線に気付いたのか、男がこっちを向く。愛想笑いをしてみるが、男に変化はない。ただ、じっと見てくるだけ。

 やがて興味が失せたのか、傘を広げて――なんとこれまで白だ――どこかへ行ってしまった。

 その姿が完全に夜闇へ溶けきった頃に、再度エレベーターから電子音が鳴る。

 いつものゴスロリに、二本の傘を持った姿が出てくる。


「ごめん。待った?」

「ああ、待った待った、すげえ待った。気分的に三十年くらい待ったぞ」


 適当な軽口を言いながら傘を受け取る。外は相変わらず雨。こんな中を歩き回るのかと思うと、それだけで気力が萎えていく。


「さあ、行きましょっか」

「ああ」

 

       ◇


 それから数分経っただろうか。いつもの半分の時間も歩いていないが、雨という天候が体力と気力を奪っていく。

 滑りやすい道を歩くと足に無駄な力がかかるし、そういう事を意識していると周りの配慮が疎かになり、慌てて気を引き締める。そんな事の繰り返しだ。

 だが、隣を歩く魅霊はさすが、というかなんというか、危なげなくいつものペースで歩む。


「くそっ、お前どこの軍で特殊訓練を受けてきたんだっ。階級はなんだ、軍曹、軍曹かっ?」


 これが冬以外の季節ならまだマシだったんだろう。寒いの大好き宗司くんでも震える寒さに歩くのが億劫になる。


「軍って……またワケの分からない事を」


 ざあざあ、ざあざあ、そんな音だけ聞いてると気が滅入ってくる。

 夜の神秘性は雨という檻に閉ざされ、ただの暗い世界となる。それにイラつく。月も星も見えない夜に、価値などあろうものか。

 雨という天候は心底嫌いだ。濡れるからとかそういう事ではなく、生理的に合わない、とでも言うべきか。

 でも、それはいつからだろう。


「ん……?」


 前方に人影が見えて、その思考を停止する。魅霊も警戒するように、その人影を注視する。

 遠いうえに暗く、そして雨。こんな状態でここから確認はできない。

 一歩一歩。大きな音を立てないように、ゆっくりと、けれど引き離されないように着いて行く。

 距離は次第に狭まり、およそ三メートルくらいになった時に、その人物が誰なのか気づいた。

 枯れ草色の割烹着なんて、この現代日本の街中でそうそうお目にかかれるものじゃない。


「あれ、草加さん。どうしたんすか、こんなところで」

「あ――え、えっと。静間さん。こんばんは。奇遇ですね」


 いつものように微笑む。けれど、どこか不安定な笑み。イタズラがばれて笑って誤魔化そうとしている子供の笑みだ。


「え――と。あら? お隣の方は、ははぁ……」


 きらりん、なんて擬音が聞こえてきそうなだな、そんな事を考えるくらい草加さんの瞳が輝く。


「こんな夜中にでーととは……やりますね、静間さん」

「はぁ!? な、なにを言ってますか草加さん」

「いいえ! 隠さなくてもけっこうですっ! 夜中にでーと。二人で夜景を楽しんだ後、そこらへんの草むらであんな事やこんな事を――ッ!」


 掌を頬に当て、いやいや、と首を振る。ちょっと待て。ちょっとどころか盛大に待て。なんだその妄想ドリーム大暴走は。それにこの天候で夜景もクソもないだろうに。

 呆れながら隣に視線を向けると、険しい顔で草加さんを見る魅霊。


「ああ、わたくし、そろそろ戻らなくてはなりませんので。静間さん、冬樹さん。失礼します」

「草加さん。刀夜をよろしくな」


 手を振って別れる。草加さんの影が角を曲る。

 俺たちも行くか、と歩き出すが魅霊は立ち止まったままだ。なんだろう、と思い振り返ると、難しい顔で考え込むように俯いている。


「宗司。あんたあの人にわたしの名前、教えてないわよね」

「ああ、それがどうかしたか?」

「察しが悪いわね。名乗ってもいないのに、どうしてわたしの名前が解るのよ」


 言われてみればそうだが、そんなに気にする事だろうか。


「噂とかで聞いたんじゃないか? お前けっこう、うちの学校で有名だしな」

「けど、あの人どうみたって学生って歳じゃないわよ?」

「それは使用人だからじゃないか? 俺と同い年の奴がいる家で働いてるから、そこで聞いたんだろ」


 そう、と。納得していないような声だったが、一度頷いた。

 

      ◇


 結局、今日は化物と出会う事はなかった。

 魅霊に別れを告げ、帰路を歩く。

 雨はしだいに強くなっていき、傘をさしてもジーンズの裾や靴がぐずぐずになってしまう。


「うぅ、寒い」


 空気の冷たさは好きだ。けど、こういう水の冷たさってのは我慢できない。

 缶コーヒーでも買うか、と近くの自動販売機に近寄る。幸運にも屋根があるので、しばらくは休めそうだ。

 近寄ると先客がいた。退屈そうに壁に背を預けている。

 缶コーヒーを買い、俺も背を預ける。指が悴み、ブルトップを開けるのにてこずる。うむぅ、いつでも飲める神話は過去の産物なのか。

 苦労して空けようと奮戦していると、隣の奴がくっくっく、と噛み殺した笑い声をあげている。

 その声が感に触って振り向くと、その人物は魅霊のマンションで見た白い男と同一人物だという事に気付く。


「少年。空けてやろうか?」

「――頼むわ」


 笑った分の代金だ、と言って缶を放る。


「それでチャラか、安い男だねぇ」


 などと言って、男はブルトップを開け、それを俺に手渡す。

 礼を言ってゆっくりと喉に流し込む。食道を這う暖かい液の感触が心地よい。


「なあ、少年。なんでこの時期のこんな時間にうろついてるんだ? あれか、新手の自殺か」

「勝手に人を自殺志願者にして欲しくないんだけどな。探し物があるんだよ」

「へぇ――」


 そうかそうか、と愉快そうに笑う。なにがそんなにおかしいのやら。

 男はスキップをしながら、降り注ぐ雨に体をさらす。容赦なく降る雨がコートを濡らすが、そんな事などお構いなしに。

 頭のネジが外れた愉快な人なんだろうか。まあ、どうでもいいさ。

 くるり、とダンスでも踊るようにターンを決め、振り向く。男の瞳が、俺を射抜く。


「それってさぁ、事件の犯人、とかだろ?」


 跳ねた。体が、心臓が。


「はぁ……なんの話だ?」

「ほら、昨日とか資材置き場で黒百合と一緒にいたじゃないか。――わからない? ほら、あのゴスロリの子。一緒に異形と戦ってる姿を見ても取り乱してないようだったし。君はあの子のお手伝いさんとか、そんな感じじゃないかな?」


 もっとも、あんま役に立ってるとは思えなかったけど。そう付け加えると、唇を三日月型に歪ませる。

 刃を生成。右手に生み出した刃を、いつ襲われてもいいように構える。けど、


 ――できるか?


 この数日、まともに戦う事ができた事など皆無。で、相手は口ぶりからして連続焼殺事件関係者。

 ……駄目だ、どう考えたって戦力バランスが悪すぎる。くそ、誰だこんな無茶苦茶な戦闘バランスを組み立てた奴は、即刻修正パッチの制作を願う!


「ま、恨むんならあの子と知り合った自分を恨みなよ。――それ」


 指を弾く。ぱちん、という乾いた音が鳴る。

 場違いなその音の意味は、男の背後から響く獣の咆哮が教えてくれた。

 ああ、これは魅霊が異法を使う時に言う『wish』と同じようなもの。異法を使うために必要なプロセスみたいなものか。

 俺の冷静な部分が分析した事実が今どんな意味があるんだと、化物を目の前にした俺が心の中で怒鳴る。

 その化物は、体は人間で頭は犬。それだけならまだ可愛げがあるが、首の辺りに切断した跡があり、首を切断した人間に犬の頭を乗っけましたよ、というバランスの悪さだ。気味悪い。

 右手には剣――たしか、ツヴァイハイダーとかいう馬鹿でかい巨剣。それが一振り。ああ、くそ。あんなもんで斬りつけられた即刻昇天だぞ!?


「さ、存分に喰らえ」


 それがあの化物の合図となったのか、両脚が屈伸したと思うと、跳躍。ビル三階分くらいの距離まで跳ねる。

 そのまま、矢のような速度で落下。鋭い刃を抱えた化物が流星と化し、俺を刺し貫くべく疾駆する。


「あ、あああ!」


 頭の中は白濁に染まり、口からは獣じみた叫びしか出ない。

 無意識の内に右に跳び、殺戮の刃を回避する。

 化物が降下、地面に突き刺さる。道路のコンクリートが砕け、小石が俺の体をマシンガンの如く打ち据える。


 やばい、このままじゃマズイ。


 今のは偶然。体が勝手に動いただけで、自分の意思じゃない。

 その上、相手は完全に遊んでいる。今の攻撃だって、あんなジャンプなんてしなくても、一気に間合い詰めて斬ればいいだけだった。


「……あれぇ? このくらい余裕で避けてくれると思ったんだけどな」

「いやいや、あんまり遅いもんで、ついつい油断しちまってな」


 冷汗がとめどなく流れ、心臓は外に出たいと叫ぶように荒れ狂う。それでも口だけはいつも通り動くのだから、そこらへん俺はイカレてる。

 化物が立ち上がる。ゆっくりと、俺に視線を向ける。背中に氷刃が突きつけられたような悪寒。頭が白濁に染まりかける。


 ――落ち着けッ!


 相手は遊んでいる。ここまではおーけーだな、俺? で、遊んでいるという事は、少なくともすぐには殺されないという事だ。……無論、後でしっかりと殺されるんだろうけどな。

 轟、という化物の咆哮が耳朶を打つ。それだけで失禁してしまいそうな恐怖に駆られるが、耐える。足が無様に震えだすのを無理矢理押さえ込む。


「さぁ、きやがれモンスター! 精一杯お持て成しをしてあげますわよ! アナタ様の血液をご馳走して差し上げますぞっ!」


 そう、それでいい。いつものようにふざけた調子で、恐怖を押さえ込め。

 化物が直進。それは例えるなら砲弾か。疾風の速度と筋骨隆々な人間一人分プラス鉄の塊程度の質量。あんな物をマトモに喰らったら天国への片道切符をこの命で買う事になる。

 何も考えずに横に跳ぶ。隣で風を切る音が鳴り、後方で爆音。振り向くと、乗用車がスクラップと化し、紅色の炎を上げていた。

 降り注ぐ雨ですら消せない激しいそれの中から、当然の如く化物が登場。すごいね、どんなに頑丈なんですかアナタ。


「どうした少年? 逃げてばかりでは状況は変わらないぞ」

「うふふ、お・ば・か・さ・んっ。あっしがただ逃げ回っているとでもお思いでヤンスか?」


 そう、余裕に満ちた表情で、ふざけた調子で。相手をかく乱しろ。

 ほら、あの男も興味深そうな目で見ているじゃないか。無論、ただ逃げ回っているだけなんだが、意味深な言葉が鎖となり男の思考を縛る。

 思考を縛るという事は、行動を制限するという事。あいつは、俺がなにか特別な事をしているんだと思っているんだろう。

 故に、あいつは突進なんて事はしてこない。今のところ突進しかしていないが、それで俺が何かをほのめかす言葉を言い放った。つまり、突進の回避動作の時になにかをしているんだと思うだろう。 


「さあ、どんどん来いよ。こいつが終ったら、次はお前だ。首をボディーソープとかで洗っといてくれ」


 本当なら、今すぐにでも背を向けて逃げ出したい。頭はオーバーヒート気味。自分が正気なのかすら曖昧だ。


「……ふふっ、少年、口だけは達者だね」


 嘲るような笑い。まさか、バレた!?

 いや、落ち着け、落ち着け俺! これは鎌をかけているだけだ。そんな事で内心の動揺を相手に見せてはいけない。


「ま、そう思いたいんだろうけどな。けど、現実をしっかりと見たほうがいいぜ」


 それは、アイツへの言葉か、俺自身への言葉か。

 そう、こんな事をしていても結末は変わらない。すなわち、死。まあ、どんな殺され方をされるのかは、様々な選択肢があるんだろうけど。


「ふん。まあいいさ。おい、――叩き斬れ」


 その命令を忠実に実行するべく、化物がツヴァイハイダーを上段に構える。


「――ッ!」


 マズイ。マズイマズイマズイマズイ! 

 今度は遊びの突進ではない。あれは、熟練した剣士の構え。駄目だ、今度は回避なんてできない。間合いを詰められて剣を振り下ろされ、俺はスライス。内臓を零しながら右宗司と左宗司に増殖する珍事が発生。

 ああ駄目だコロコロコロコロ殺殺されるるる。日常に戻れず事件の被害者として殺され、ただの肉片と化し、あの化物に食われる。

 

 ――――あんな化物に、殺される?

 ふと、怒りが湧いた。いつか似たような事があったな、と冷静な部分が苦笑していた。


 ふざけるな――ッ!

 俺が殺される? あんな汚らしい化物に? ああ、なんて汚らしい冗談。反吐が出る。

 右手の刃はなんの為にある? あれを殺すためだろ? それを、なんで小動物のように逃げ回らなくてはならないんだ!

 化物が間合いを詰めてくる。遊び半分の突進ではなく、俺の目の前で急停止、一気に剣を振り下ろす。


「はっ、馬鹿が」


 逃げる事は適わない。後ろに跳ぶのは愚の骨頂、あの巨剣の間合いから外れるほどのバックステップができるとは到底思えない。

 左右に跳ぶのも却下。初撃は避ける事は出来ても、跳ね上げた刃が俺を斬りつけるだろう。

 俺がするのは、ただ、前進するだけ。

 化物が戸惑うような唸り声を上げる。ああ、そうだろうな。お前の必殺の一撃を容易く無効化されたんだから。

 剣戟は弧を描く運動。剣に掛かるエネルギーは凄まじいが、化物の体に密着すればそれを喰らわずにすむ。

 もっとも、振り下ろした拳が背中を打ったが、そんなものは瑣末だ。あの剣で斬りつけられるのを考えればどんなに安い代償か理解できるだろう。


「――さあ、化物。生憎の雨だが、お前と出会えて俺は幸せだ。今、この瞬間をクソッタレの神に感謝しよう」


 不可視の刃を密着した腹部に突き立てる。ずぶずぶと犯していく俺の刃。ああ、今すぐにでも穿ったその穴に自身の分身を突き入れ逝ってみたい。最近欲求不満だからたっぷりと子種を放てるだろう。

 だが、今はそんな事は適わない。化物は神速で背後へ跳び、刃を引っこ抜く。腹部から流れる血液。ああ、そこに舌を這わせたら、どんなにキモチがいいだろう。


「――少年。お前……」

「はははははははっ! なんだテメエビビッてやがるのか!?」


 まあ、そんな事はどうでもいい。俺はこんな男に興味は無い。俺は、あの化物と殺しあえればいい。

 刃を生成。両手の指と指の間に刃を挟みこむ。計八本の鋭い刃。もしこの刃が視認できたのなら、その姿は魔獣の爪に見えただろう。

「殺れ!」

 男が叫ぶ。化物が動く。巨剣を振り上げ、俺を切断するべく。

 さあ俺も行こうか。

 コンクリートを蹴り、死を呼び込む弾丸と化す。化物が剣を振り下ろす。夜闇を切り裂いて振り下ろされる破壊の鉄槌。だが、そんな大振り当たるはずがない。

 針の穴に糸を通すような正確さで、薄皮一枚だけを斬らせて回避。化物が体勢を整える前に、右手の刃を振るう。四本の刃が化物の腹部を薙ぎ払う。傷口からぼろり、とずたずたの腸が零れ落ちる。だが、それでも動きを止めずに巨剣を構える化物。


「はははっ! いいぜお前、最高だ!」


 呆気なく死んで貰っては困る。もっともっと、俺を愉しませてくれ。

 体から放出される熱が濡れた服を乾かす。しかし止め処なく降り注ぐ雨は体を冷やす。雨も役に立つのか。この天候のおかげで熱でオーバーヒートする心配もない。

 一気に間合いを詰め、両手の刃をクロスさせるように振るう。だが、容易く受け止める化物。おかしい、刃は不可視。刃の間合いなんて解らないはずだ。


「不思議かい、少年?」


 無粋な男が笑う。うるさい、黙っていろ。

 だが、男はネジが数本外れたような笑いを漏らしながら、


「雨だよ雨! 君の――異能、なのかな? 本来は透明なんだろうけど、水滴で輪郭が浮き上がっているぞマヌケェ!」


 ――ッ!?


 くそ、やっぱり雨なんて嫌いだ。この世界から雨なんて現象は消え失せろ!

 間合いを把握させない、という俺の利点は消え失せてしまうが――上等、この程度のハンデ、実力で取り戻してみせよう。

 化物が剣を水平に薙ぐ。身を屈めて回避すると、そのまま跳躍。擦れ違いざまに刃で左腕を切り裂く。切り落とすつもりだったが、失敗した。

 両手持ちの剣で、しかも剣技に重点を置く戦いをするのなら、重要な部位は右腕ではなく左腕だ。そこを破壊すれば、あの化物は力で振り回すだけしか出来ない。

 だが、内臓が零れても戦闘を続行するような奴だ。切断しなければ左腕の機能を停止できそうにはない。案の定、何事もなかったように剣を構えてやがる。


「くくっ、いいねぇいいねぇ」


 前の化物とは根本からレベルの違う。本物の化物。ああ、やはりアッサリ死ぬようなものは化物とは言えない。それはただ外見が悪いだけの生物だ。

 満足気に笑う俺の顔に向け、凄まじい衝撃波が化物の喉から放たれる。近距離で耳朶を打つ轟音。きーん、という音が聴覚を支配する。


 ――やられた!


 音が聞こえない。いや、聞こえてはいるのだが、ごく微細にしか聞き取る事ができない。

 一時的にだが、聴覚を奪われた。なんて失態だ! これでは相手を視界から外したら捉えようがない。


「――!」


 苛立ちの言葉を叫ぶが、自分の叫びまで曖昧だ。

 その隙を逃さず、化物が巨剣が袈裟懸けに走らせる。防御のために右手の刃で化物の巨剣を迎え撃つ。がしゃん、という音と共に砕け落ちる刃が消える前に、自由な左手に刃を生成し、奴の左腕に斬撃を放った。刃が肉に突き刺さる感触が掌を覆う。

 ぼどり、と左腕が落ちる。断面から噴水のように血液が噴出し、俺の体を汚す。

 巨剣を振り上げ俺を振り払おうとするが、がくりと膝が折れる。当たり前だ。そんなに血を流したら生物というカテゴリに含まれる限り生きていく事などできない。

 勝負は、決した。化物は消滅し、俺を汚した血液も消えうせる。


「さあ、て。次はお前だ」


 次第に聴覚も回復し始め、俺のハンデが一つ減る。右手の刃を後方で見物していた男に突きつける。

 今、お前を斬り捨ててやろう。そういう意味を込めて。


「なるほど。君、中々の実力者じゃないか。最初のは三味線でも弾いていたのかい?」

「まあ、そういう事にしておこうか」


 男を死後の世界に誘うために疾駆する。間合いを一気に詰め、首を――


「さあ、お前ら。久方ぶりの獲物だ。存分に、喰らえ」


 ぞくり、とした。

 男の背後に闇が生まれた。いや、それは例えるなら門。どこか別の世界に繋がるゲートのようなものだろうか。

 そこから、一匹、また一匹、と様々な種類の化物が出てくるのだ。その数は両の指を使っても数える事が適わない程。


「――いいだろう」


 化物どもの海で泳ぐ、というのも一興だ。もっとも、今の状態ではその海で溺死する可能性が高い。せめて、体力が万全であり、無粋な雨などが降っていなければ違うのだろうが。

 だが、この数から逃げられるとも思わない。なら、泳ぐしかあるまい。

 刃を振り上げ、化物の海に飛び込もうとする。その時だ。

 空から、まるで自分も雨だとでもいうような自然さで、無数の剣が降り注いできた。

 それは、正確に化物を打ち貫き、化物は消滅。瞬く間に無数の剣の墓標が生まれた。


「あの女……!」 


 歯軋りをして、疎ましげに吐き捨てる。


「少年。悪いが勝負はお預けだ。無粋な輩がいてね、このまま続けるわけにはいかないんだよ」

「そんな事情、俺の知った事ではないんでね」


 刃を振り上げ、間合いを詰めるべく駆け出す。


「いいのか? オレは無粋な乱入者の攻撃でだいぶダメージを受けた。このままじゃ、激しい戦いは望めないんじゃないかな?」


 その言葉に、俺は足を止める。ああ、そうだ。俺は殺し合いがしたいのであって、殺人をしたいわけではない。楽に殺してしまっては意味がないのだ。

 数秒の思考。だが、それで十分だ。


「――行け」


 白い姿が遠ざかる。見えなくなって安心したのか、膝の力が抜ける。無様に地面に倒れ付す。

 冷たい水溜りに突っ込み、服が濡れる。いや、突っ込む前も似たようなものか。


「あ――」


 頭が冷えてきたのか、冷静な思考が可能になってくる。

 ――俺、また……。

 あんな動き、そしてあんな思考。今まで動いていたのが自分だったのか曖昧だ。

 どうなっているんだ、俺は。あれじゃあ別人だろ。


「ほんとに、どうなってんだ、俺」


 問いかけが返される事はない。当たり前だ、自分自身も理解できない問いを、誰かが返してくれるはずもない。

 言葉もなく、ただ道路に横になる。雨音だけが、絶え間なく響いていた。


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