81 嫌なこと
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アリエスが予定外の一夜をデクロン公爵家で過ごすことになり、家に戻った数日後、次の休みがやってきた。
空は朝から雲が覆い、いつもは太陽の陽気で明るい部屋が、人工的な明かりがなければ薄暗いと感じるほど、雲の厚みが多い天気の日、アリエスはシリウスとナルシスの三人でデクロン公爵家へと向かっていた。
理由はナルシスを届けること。
アリエスはユージンから前もって今後の展開について直接話を聞いていた。
様々な証拠や情報を集めたユージンは、まずはイマラとセドリックの離婚を進めるという。
その離婚に関連して、ナルシスの親権についても話されるだろうということで、アリエスはユージンにナルシスを連れてきてほしいといわれていたのだ。
最初はアリエスとナルシスだけで向かうつもりだったが、シリウスもついていくということで、三人で公爵家へと行くことにした。
アリエスは雨が降りそうな空模様を馬車の中からじっと見つめ、馬車の動きに合わせて揺れていた。
ガタガタと振動が伝わる中、アリエスはシリウスがナルシスを気遣う言葉が聞こえてくる。
「…どうしたの…?」
アリエスは窓の外に向けていた視線を戻し、向かい側に座る二人へと顔を向けた。
ナルシスがアリエスのもとに預けられてひと月も経っていないが、それでも短期間の間でナルシスはアリエスだけでなくシリウスにも随分となついたように感じる。
もしかしたらシリウスがついてきたのも、ナルシスとあっさりと離れたくなかったからかもしれないとアリエスは思った。
「……ボク、お家帰りたくない……」
「でもお家にはユンもいるよ?」
「お兄ちゃんには会いたい…でもお母様には…………会いたくない…」
ナルシスはぎゅっと小さな手て拳を作るとそういった。
嫌だと気持ちを素直に吐き出すことが出来るほど、アリエスとシリウスにナルシスも心を開いていることはわかったが、ナルシスの本心をきいた二人は胸を痛める。
一体こんな素直でいい子に何をしたんだ。と、ユージンが預ける選択をするほど今の公爵家は危険なのかとすら思えた。
アリエスは震えるほどに力が込められているナルシスの手をすくい上げると言った。
「大丈夫だよ。ナルシス君が家に来た時、ユンが言っていたでしょう?“これからどうしたいか、決めてほしい”って。
だからナルシス君は自分の素直な気持ちをいうだけでいいの。あとはユンや公爵様、……ナルシス君のお父様を信じて、任せていいんだよ」
「……そうだな。ナルのお兄さんもお父さんも、ナルの言葉を聞けば絶対に耳を傾ける。帰りたくないなら、そう伝えればいい。ナルはもう俺の弟のようなものだからね、いつでもいつまでも大歓迎だ」
ナルシスはアリエスとシリウスの言葉を聞くと、不安だろうにそれでも笑みを浮かべた。
眉尻を下げ、引きつった口元を必死に持ち上げて、うん、と告げる。
狭い馬車の中、向かいに座っていたアリエスはシリウスの隣に移動し、ナルシスを膝の上に乗せた。
ぎゅっと抱きしめ、少しでも不安が薄れるように。
そしてシリウスはアリエスの膝の上に収まるナルシスの手を優しく握る。
ナルシスは空いたもう片方の手で、少しだけこみ上げた涙をぬぐったのだった。
◇
一方デクロン公爵家では朝早くからただならぬ空気に、使用人たちは息を殺す様に潜めていた。
だが表情は決して暗くない。
前公爵夫人であるデメトリアが亡くなってから、おかしくなった公爵家がやっと以前のような姿を取り戻すのだと、期待に胸を躍らせていたからだ。
太陽が顔を見せた、といっても雲が厚く陽の光は届かなかったが、早朝の時間帯にイマラは使用人に叩き起こされた。
いつもと違う使用人の態度に、イマラが注意をするも効果はない。
どこかふてぶてしい使用人の態度にイマラが困惑するほどだ。
寝間着姿で顔も洗えていないイマラは、使用人に力強く腕を引かれ、足がもつれそうになりながらもついていく。
寝起きで思考が回らない状態でも、これが異常であることは察していた。
ピンクブロンドの若い女に任せて待っていた自分が愚かだったと、待っていないで逃げてしまえばよかったと、今更ながらにイマラは思う。
そうして辿り着いた場所はエントランスホールだった。
公爵家で働く全ての使用人が集まっているのか、デクロン公爵家の広いエントランスホールでも収まらないほどの使用人の姿にイマラは息を飲む。
もしかして、こいつらに袋たたきにされるのではないかと恐れたが、イマラに気付いた使用人たちは左右に分かれ道を作った。
道の先にはイマラがよく知る人物が待っている。
まずイマラの快適な環境をぶち壊したユージン・デクロン。
最後まで再婚に対し、祝福の言葉を口にしなかった前公爵夫婦。
そして床に伏せているはずのデクロン公爵現当主で、夫でもあるセドリック・デクロンだ。
イマラは驚いた。
中枢神経系の障害を引き起こすといわれるトラエルを長期間摂取したセドリックは、ほとんど屍のような状態であったはずだと。
水に溶けにくい物質は体内に入ってもなかなか排出されることはない。
だからこそ、“あそこまで落ちぶれたセドリックなら”回復するのにも時間がかかる。
思考回路だって、自分がよぼよぼのおばあちゃんになるまでは戻らないだろうと考えていたのだ。
それが今イマラの目の前には元気を取り戻したセドリックの姿があった。
車椅子に座り、まだ落ちた体重が完全に戻っていなくとも、目には生気が宿り、堂々と胸を張る力強い印象を与えるデクロン公爵現当主のセドリックがそこにいた。
イマラは震えた。
だが使用人に腕を掴まれ逃げることもできず、イマラは四人の前に連れてこられると無理やり膝をついた姿勢を強いられる。
冷たい大理石のタイルが寝間着姿だったイマラの肌に直に触れ、凍えるように寒く感じた。




