56 利用された弟
■
ナルシスは困っていた。
母からのお願いであるワイングラスを見つけることが出来ていなかったからだ。
ないならないで、その事実をイマラに伝えればいいだけなのだが、ナルシスは戻ることなく困っているだけだった。
そんな時ナルシスはある男に話しかけられた。
「……どうかしたのか?」
ナルシスが挨拶をしたいと思っていた兄、ユージンである。
ナルシスは自分に声をかけた人物がユージンであることに気付くと、わたわたと腕や手を動かし顔を赤くさせる。
ユージンはそんな反応を不思議には思わなかった。
ユージンの顔が好きな人物がとる行動の一つであると知っているからだ。
ユージンは膝をつくとナルシスになるべく目線を合わせる。
「あ、あの、あのね!ボク、ナルシスっていうの!」
「ナルシスか、僕はユージンだよ」
ユージンはナルシスの自然で素直な反応に口角を上げるともう一度尋ねた。
「…それで、なにか困っているように見えたがどうしたんだ?」
ナルシスは困っている自分を気にかけてくれたユージンの言葉に涙がこみ上げると、乱暴に服の袖で拭ってからユージンを見つめた。
「あ、あのね!ボクお母様にみてこいって言われたことがあるんだ!」
「…それは僕が聞いてもいい話か?」
「大丈夫だと思う!誰にも言っちゃダメだって言われてないから!」
ユージンは「そうか」と笑みを浮かべるとナルシスを抱き上げる。
ナルシスとは初めて顔を合わせ、言葉を交わしたが、ユージンは母親に似て悪だくみをする子供だと思えなかった。
貴族の子供ならもう少し自信を持ってもおかしくないのに、部屋の様子を伺い、いつまでも声をかけられない。
それどころか厨房から出てくる使用人たちに場所を譲っているではないか。
ユージンは毒物の所為ではあるがそれでも関心を示ず筈もない父の姿と、腹を痛めて生んだ子ではないにしろ、それでも再婚相手の子供であり、これから家族となるはずの子供だったユージンを殺そうとしたイマラの姿を思い浮かべた。
そして自分自身の意思を表に出すことが難しそうに育てられた子供ナルシスを可哀想に思ったのだ。
だからこそユージンはセドリックだけではなく、この小さな子供であり、自分の弟でもあるナルシスも守らなければならないと考えた。
それがナルシスを抱き上げた理由だ。
ナルシスはそんなユージンの気持ちを知らずとも、初めて家族といえる人物との接触に頬を赤く染め、そして心から喜んだ。
「わぁ!高い!」と口にしてはいるが、もうすぐ十三歳になるユージンはまだ大人の男性ほど背が高くない。
それでも大人の女性の平均くらいはあるため、男心としては複雑な心境ではあるが“まぁ、お前よりは高いだろうな”と心の中で返していた。
「それで、何をみてこいっていわれたんだ?」
「あのね、お父様のグラスなの!あそこ!あそこにいつもあったと思うんだけど、ボクの身長だと見えなくて……でもお兄ちゃんにだっこしてもらっても見えないから、別の場所にしまってあるのかなぁ?」
ナルシスは棚を見つめながら悲しそうに俯いた。
目当ての物が見当たらなかったからだろう。
そしてユージンは「グラス…」と呟いた後、もしかしてと前置きしてからナルシスに聞く。
「…グラスというのは銀色で、悪趣味なデザインが金で施されていたあのワイングラスか?」
「それ!お兄ちゃんしってるの?」
「知ってるも何も僕が壊してしまったんだよ」
「お兄ちゃんが?」
ナルシスの問いかけにユージンは頷く。
「ああ、初めて見たグラスだったからね。でも手が滑って落としてしまったから、使用人に片づけを命じたんだ。もしかしてあれはナルシスのグラスだったのか?」
そうならすまない。と謝るユージンにナルシスは首を振る。
「ううん。あれはお母様がお父様にプレゼントしたグラスだから僕のじゃないよ!でもお母様がお父様と結婚した記念にって作ってもらったらしいから、お兄ちゃんあとでお父様にごめんなさいってしないと……」
お父様、あのグラスを毎日使っていたから…。と話したナルシスにユージンは「ああ。謝るし代わりの物を渡すつもりだ」と告げる。
「それならよかった!お父様もきっと悲しがらないね!」
「そうだといいね」
ナルシスはグラスの行方がわかるとユージンの腕から降り、「お母様に教えなきゃ」と口にするとイマラのもとに向かった。
ユージンは短い脚で走るナルシスに声をかける。
「ナルシス!あとで一緒に父上に送るグラスを買いに出かけよう!」
ユージンは大きな声でナルシスに言った。
ナルシスはユージンの言葉が聞こえると振り向き破顔した。
そして…
「約束だよ!絶対連れて行ってね!」
と答える。
関わろうとは思っていなかった小さな子供と次に会う約束をしたユージンは、忙しくなった日々の癒しとして素直に受け入れた。
そして朝食のため、せかせかと忙しく動いている使用人たちの視線を感じたユージンは振り返る。
「……ありがとうございます、坊ちゃま」
「なにがだ」
何に感謝をされているのか心当たりがないユージンは首を傾げた。
「ナルシス坊ちゃまのことです。奥様にも蔑ろにされていたナルシス坊ちゃまのことを、私たちなりに気になっていたのですが……雇われている身である私たちでは気軽に話しかけることもできませんでした」
ユージンはナルシスを気に掛ける使用人の気持ちを聞いて、自身の直感があっていると感じた。
そして使用人が気にかけるほど自身の子供を蔑ろにするイマラに、ユージンは更に怒りという思いを積み重ねていった。
■




