36 取り下げられた申込
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「…嘘、よね?」
学園から帰宅したアリエスは王都に所有しているウォータ伯爵邸に到着するなり兄であるシリウスに話があると呼ばれた。
ちなみに王都にウォータ家の屋敷を建てたのはウォータ伯爵領で鉱脈を掘り当ててからの事だったため、シリウスが学園に入学した頃はさすがに王都に屋敷を建てる経済力はなく、かといってウォータ伯爵領から王都にある学園に通うことは難しいために、シリウスは一人寮へと入りそこから学園に通っていた。
学園を卒業してからは次期ウォータ伯爵を継ぐ者として教育が始まるかと思いきや、アリエスのことを心配した両親がシリウスに社会勉強も兼ねて兄妹二人を王都に送り出したのだ。
兄として妹を心配する気持ちと、次期ウォータ伯爵として人脈を広げるのも悪くないとシリウスは快く受け入れた。
また貴族として投資は一般的だ。
だが投資先によっては損失を受けるリスクもある。
学園を卒業したばかりのシリウスでは正確に社会を読み取るのは難しいため、王都に暫く身を置くのもいい勉強だったのだ。
そしてアリエスが学園に通ってから半年、部屋にこもり怪しい行動をするようになった妹を不思議に感じたシリウスは両親に報告した。
思春期独自の行動とも考えられたがすぐにやってきた両親の働きもあり、妹の婚約者の不出来なさを初めて知った時には兄としてのプライドが傷ついた。
社会勉強だけではなく、妹とのコミュニケーションを今後もっととっていこうとそう決意した時の事だった。
正式に婚約が解消されてからのアリエスは本当に楽しそうに笑うようになった。
いや、それまでも仲のいい友人関係の話をする際はシリウスの目から見ても楽しそうと思えることは変わりないが、婚約解消した今は少し違う。
ふと思い出したかのように頬を赤らませたり、明日を待ち遠しそうにする、所謂恋をした少女のような表情をよく見せるようになったのだ。
最初こそ相手は誰なんだと、今度こそ任せられる男なのかと兄として心配していたが、昔母から聞いたことがある男が相手だと知った時には少しだけ安堵した。
当時のシリウスは学園に通っていた為にユージンとは顔を会わせたことはなかったが、母が絶賛していたことやアリエスと気が合うこと、そしてずっとアリエスを想っていた話を聞いて心配する気持ちは応援する思いに変わったのだ。
父と母からの手紙にもユージンからの婚約申し込みの書類が届いた話は聞いていた為、近い内にシリウスのところにも新しい婚約者としてユージンを連れてくるだろうとシリウスは考えていた。
兄として妹の婚約者と何を話そうかと、楽しみにしていた毎日を送っていたところに手紙が届いたのだ。
“アリエスとの婚約取り下げの申し出があった”
シリウスは両親からの手紙を見るなり絶句した。
どういうことなんだ、と。アリエスのことをずっと想ってきていたんじゃなかったのか、と。
そうしてシリウスは学園から帰ってきたばかりのアリエスを呼び付け、着替える時間も与える間もなく両親からの手紙をアリエスに見せたのだ。
アリエスは硬い表情のシリウスから手紙を受け取ると、次第に顔を歪ませた。
手紙を持つ手は小さく震え、それでも気丈に振る舞うように引きつる口元を必死で持ち上げながら、決して上手くはない笑みをシリウスに向けた。
「嘘ではないそうだ……。その手紙にも書いてある通り、直接デクロン公爵家から神殿へ取り下げの申し出があったらしく、進んでいたお前との婚約話が打ち切りとなってしまった」
「そんな……。でもどうして?」
アリエスは少し皺がついた手紙をテーブルへと置くと両手を強く握る。
もう笑みは消えていた。
「わからない。……お前は今日、ユージンに会ったのか?」
「ええ。だけどいつも通りだったわ。取り下げの話だって一切なかったの。それどころか今後の事だって話していたわ。だから余計にわからない……」
悲しそうに目を伏せるアリエスにシリウスは硬く口を結んだあと、慎重に言葉を選び話す。
「……もしかしたらこれはユージンの意志でないかもしれない。成人に満たない者の婚約は親同士の意見が最も重要だからな。
昔あったお前との婚約がなくなったのも、デクロン公爵が反対したからだって聞いたから、明日学園に行ったらユージンと話をしてみてくれ」
アリエスはシリウスの言葉にすぐ返事をしなかった。出来なかった。
もし取り下げの申し出にユージンが少しでも関わっていたら、そう考えるだけで足がすくむ思いだったからだ。
でも確かにシリウスの言った通り、ユージンも知らないところで話が進んでいるのだとしたら……。
アリエスは自分が知るユージンを信じたいと合わせるように握っていた手を離し、膝の上で握り直す。




