進む準備
復活したイルゼさんですが、この数日の激動の為、かなり痩せておられました。たぶん、その間ずっと何も口にしていないのだと思います。
だから、宿に転移してすぐにベセリン爺にお願いして簡単な食事と水を用意して貰いました。
しばらくは休憩です。
「メリナ様、お久しぶりです」
イルゼさんの食事を待っていると、人懐っこい笑顔でパン屋のハンナさんが私に寄って来られます。彼女の甥っこも一緒に来ていますが、この時間だから眠そうですね。
ショーメ先生に空き部屋へ案内してもらいました。
「そうですね。ハンナさんもお元気そうで良かったです」
「あはは。記憶も戻ったみたいで良かった。あの時ですね、私は頼まれてシャールのパン屋で働いて出会っていたんですよ。メリナ様は全然気付かなかったけど」
「えっ、そうなんですか?」
記憶が失くなっていた頃、うん、確かにパン屋で買い物をしましたね。あー、あの時の店員がハンナさんだったのか。
「俺もいたんですよ、ボス」
「ビーチャ、お前もですか? 本当に全く覚えてないです」
「いやー、心配しましたが、ボスが戻って良かったです。今日は新旧の聖女様が勢揃いですね。明日は目出度い日になりそうです」
「ビーチャ、それくらいで止めとけよ。で、俺らは何をすりゃいいんだ、メリナさん?」
「フェリクス、テメー、俺とボスの師弟関係に割り込んでくんなよ」
ふむ。パン屋の連中はヤル気に満ちています。それでは仕事に取り掛かりましょう。
「ガルディス、パン屋の皆を連れて近くの市場や酒場から有りっ丈の食料を買ってきなさい」
「金がねーぜ、ボス」
「大丈夫です」
予想通り、ロビーの奥、オズワルドさんの控え室には金庫がありました。とても頑丈で重そう。
私はその天板に拳を何度もぶつけて穴を開け、保管されていた金貨や銀貨をお借りします。
「ボス、すげー! 痺れるぜ!」
「あー、ためらいなく犯罪を犯していくスタイルはボスらしいです。思い出しました」
ガルディスの驚嘆の裏で、私の耳にはっきりと聞こえた小声はビーチャの物です。
この愚か者がっ!!
「犯罪ではない! 借りただけです! 正しく理解しなさい!」
「そんなことよりボス。パンを作るんだったら道具も必要だぜ」
「じゃあ、ビーチャとハンナが出張していた店から借りるか」
「シャプラ、あんたには悪いけど、ペーターと一緒に居てくれない? 心配なのよ」
「分かった。任せて」
「頼りにしてるわよ。ありがとう」
シャプラさんとハンナさんもすっかり仲良くなって嬉しいです。モーリッツも無表情ですが、少しだけ頷いて満足そう。
出会った頃のハンナさんは生意気で、目に余ったから半殺しにしてやったことも有りましたね。
「おい。何の騒ぎだ? ソニアが起きるだろ」
シャプラさんが添い寝のために去った後、その入れ替りみたいに剣王が現れて、階段の上から見下ろす形で尋ねてきました。
「狂った聖女と、他は知らねー顔だな。メリナ、何を企んでるんだ?」
「秘密です。それはそうとして、剣王、お前の竜の巫女となりたいという無謀な野望は諦めて貰います」
「な、何だとっ!?」
うるさい。ソニアちゃんが起きるだろ。
「しかし、私が修行方法を教えてやりましょう。この砂時計が落ちるまで素振りをしてみなさい」
私はカウンター下から砂時計を取り出します。何のために置いてあるのかは分かりませんが、接客時間を計ったりしていたのかな。
「は? 何でだよ」
「強くなりたいなら従いなさい」
「……分かった」
ロビーに降りてきた剣王に剣の準備をさせます。
砂時計を逆さまにすると、サラサラと少しずつ砂が落ち始めます。1、2、3……と全部落ちるまで数えていると、隣で鞘に入ったままの剣を剣王が何往復も振っていました。
「全然ダメ。この砂時計が半分落ちた時に丁度一振り、それから落ちきるまでに振り上げ完了って感じで振りなさい」
「ん? 分かった。最初に言え」
砂が落ちきるまで32を数えました。剣王は素直に上から下へ、それから同じ軌道を逆に辿って下から上へと、とてもスローに剣を振るいます。
「砂時計を見ずに、今の速度で振れますか?」
「舐めるな。1度振ればその感覚は覚えている」
試すと、確かに砂時計一回分で一振りを再現しました。ふむ、この剣王、やはり腕は良い。
「簡単だな。次は?」
「それではイルゼさん、転移の腕輪をクリスラさんに一旦貸してください。そして、剣王も入れた3人で転移するのです」
イルゼさんにとって転移の腕輪が大変に重要な物であるのは、廃人となっていた時に頻りに手首を擦っていた様子からも分かっています。しかし、恐らくイルゼさんはあそこを訪れたことがない。なので、クリスラさんに連れて行って貰わないといけないのです。
「クリスラ様、どうぞ」
良かった。素直に渡した。
「メリナさん、どちらへ?」
「斎戒の間、若しくは、楽欲の間」
「なるほど」
クリスラさんは納得されました。
「では、剣王よ、先程のペースで剣を降り続けるのです。限界に達するまで何回も。但し、1万回に満たない場合は期待外れの無能ということで、引退してソニアちゃんと結婚しなさい」
「はぁ!? まだソニアはガキだろ! それに、俺はもう女は要らん!」
可哀想、ソニアちゃん。
「イルゼさんは剣王の振る回数を数えなさい。クリスラさんは明日の結婚式のスピーチ原稿を作っていて下さい」
私が何をしようとしているのか把握しているクリスラさんはすぐに3人を連れて転移します。
そして、私は即座に砂時計で時間を計測します。
1、2、3。念のために数も口に出して数えます。
その3と口ずさんでいる最中に、3人は帰還してきました。
「ハァハァハァ……。クッ! きついな、これ……。水をくれ……」
汗だくに変わった剣王がまず目に入りました。剣を杖にして漸く立てるといった状態です。
「ひゃい、みじゅ、どうじょ」
わっ! 邪神!? どこから現れた!?
ずっと壁際でこちらの様子を観察していたショーメ先生でさえ、驚いていました。あの感情を素直に表に出さないショーメ先生がです!
しかし、今はそこに拘ってる暇はない。
「イルゼ、何回でしたか?」
「2万5068でした」
ふむ。マイアさんに聞いていた通り、あの異空間での時間の流れは凡そ10000倍速い。
ククク、結婚式まで半日だと仮定しても私は5000日の猶予をゲットしたのです!
「よくやりました。では、イルゼ。次は私を連れてゾビアス商店に飛びなさい。行ったことはありますか?」
「はい。秩序の――いえ、アデリーナ様に連れられて訪問したことがあります」
お前っ!! アデリーナに秩序の神とか形容句を付けようとしただろ! そういうところですよ! そういうところがですね、お前のダメなところなんです!
いずれバレると覚悟していますが、お前、ついさっき秘密だって約束したばかりだろうに!!
ほらぁ! クリスラさんが妙な顔をしたし、ショーメ先生に至ってはいつもより笑顔が増してます! 何かあることを勘づかれたでしょ!
その後、ゾビアス商店が閉まっていたので裏口を破壊しての半ば不法侵入、寝ている服飾職人さん達を半ば強制連行、道具を貸さずに抵抗するパン屋での半ば強奪事件、王都の倉庫からの小麦粉の半ば強制収奪2回目などのトラブルは有りましたが、私がやれる事はやり尽くしました。
今はイルゼさんが何往復も食料を持って異空間に行っては戻りを繰り返しています。
さぁ、後は式場を確認しましょう! 私は一人でシャール伯爵のお城へと向かうのです。尖塔を見上げると、空がゆっくりと白み始めていました。
◯メリナ観察日記32
我が依代は気付いておらぬため記す。
憎き神が地に降り立った。
積年の怨みを晴らす。
世界を私で満たすの。




