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背に腹は変えられない

 アントンの実家を出た後、クリスラさんに連れて行かれます。食事を取りたいとのことです。

 豪邸の貴族達に相応しい上品なレストランではなく、でも、エネルギッシュな庶民達が管を巻くような酒場でもなくて、案内された所は小綺麗な家々が建つ落ち着いた街区でした。その一角にパン屋がありました。


 この店は私も知っています。王都で私がパン職人の修行をした工房の同僚達が立ち上げた店です。


 もう扉は閉じられていましたが、クリスラさんがノックをすると、扉が少しだけ開けられました。


「ごめんなさい……。今日はもう閉店。明日の仕込みを――えっ、メリナ……」


 覗いた顔の可愛らしい眼が大きくなって驚いておられました。いやー、ピンと立ち上がったウサギ耳も懐かしい。


「久しぶり。元気してた、シャプラ?」


 店内からも昔の仲間の声がします。同時に、シャプラさんが扉を全開にしてくれました。


「メリナって、あのメリナさんかよ!? デニス、生地を練ってる場合じゃねーな!」


 今の誰だっけ、えーと、そう、フェニクスだ。いや、違う。フェリクスだ! いつも軽口を叩くヤツでしたね。


「テメーら、ボスの名を気軽に呼ぶタァ覚悟できてんだろうなァ?」


 無駄にイキがるガルディスを制止しまして、快く迎え入れられた店内で色んなパンを頂きます。

 美味しい。空腹だからって訳じゃなくて、彼らの腕がまた向上しているのです。ジャムとバターを載せるんじゃなくて中に両方入れたパンとか、考えたヤツは天才ですね。

 ガルディスもガツガツと食べ続けています。


「ボス、それは俺が考えたヤツでさ」


「デニスよ、素晴らしい。もうお前に教えることはないです」


「ははは、パンの事でボスに教わったことなんてないですよ」


 は? 増長してますね。

 しかし、私はその言葉を飲み込みます。本当に時間が惜しいのです。

 腹が満たされ一息付く今でさえ、私を襲うのは何とも形容し難い焦りです。


 クリスラさんがここに私を連れて来た理由は分かります。明日の結婚式の料理人にこの店の連中を使えと教えてくれているのです。ありがたい。

 私は口をナプキンで拭いてから、その旨を伝えます。


「明日ですか? もちろん協力しますぜ。店? 問題ありゃしません。夜が明けたら、すぐにモーリッツと飛びっきりの小麦粉を買ってきます」


「デニス、あめーぞ。メリナさんのことだ。どうせ今から出発ってんだよ。シャプラ、すまねーが、すぐにビーチャとハンナも呼んで来てくれねーか」


 バカと天才は紙一重を体現して奇抜なアイデアを編み出していくビーチャ、甥っ子を育てるためパン職人となったハンナさん、それから店内にいるのに無言なままのシャプラさんの父代わりのモーリッツ。

 皆様、頼りにしています。



 でも、私の不安は解消しません。

 パン職人を揃えても、生地を寝かせる必要があって、つまりパンが出来上がるまで日数が掛かります。困りました……。


 その時、私は閃きます。天才メリナと誉められるに値しましょう。ゾビアス商店に依頼している服の問題も恐らく解決します。或いは、決闘を受ける予定のガルディスの準備を万端にすることさえも出来そうです。



「クリスラさん、転移の腕輪を貸して下さい」


「メリナさん、すみません。マイア様はメリナさんがこの腕輪を使い続けることを心配しておりました。魔力量が肉体許容限界を越えそうだとか?」


 その設定、まだ生きてるのか……。

 最初にその指摘を受けてからも、私は何度使っていると思うんですか。


「しかし、メリナさんの懸念も分かります。私では大人数の転移は不可能。イルゼを利用致しましょう」


 利用って……。敢えて、きつい言葉を選びましたね。


「あいつ、廃人になってましたよ」


 クリスラさんに倒されたフリをしていた時、私は見ました。

 転移の腕輪をクリスラさんに奪われたと意識を戻して知ったイルゼさんは、ずっと腕輪が填めていた手首を撫でていました。無言で。


「死なない限り何とかなります」


 クリスラさんは残酷だなぁ。イルゼさん、放心状態でしたよ。この人が一番敵に回しちゃいけない人なんじゃないでしょうか。



 さて、結婚式の司会進行役としてうってつけであるパットさんの存在も思い出し、彼もパン屋に呼び出して貰います。

 そして、シャールのグレートレイクシティホテルに転移して、皆には休憩を兼ねて待機をお願いしました。


 私とクリスラさんは休めません。すぐにベリンダ姉さんの関所へと向かい、イルゼさんが居るという地下牢へ足を運びます。

 先導はベリンダ姉さんです。


「メリナ様、もう私は何を信じて良いのか……。メリナ様を信じることを禁じられたベリンダは最早、救われないのでしょうか……」


 そんな事を呟いています。まだ惜しむ気持ちがあるとは、お母さんの教育は未完了だったみたいですね。


「そもそもメリナ正教会はマイア教メリナ派だったのです。ならば、マイア様とリンシャル様を信じれば良いのですよ」


 クリスラさんが答えます。髪型も格好も名前も昼間と異なりますが、額のアクセサリーでベリンダ姉さんは彼女をデンジャラスさんだと認識できております。


「でも、どうしてイルゼさんを地下牢に?」


「イルゼ様達は民を騙した罪と恨みで彼らに殺されそうになっておりました。そのため、安全を確保するため、私の権限で牢に入って頂きました。これは私の保身の結果でもあります」


「暗殺を防いだ功績を誉めましょう」


 クリスラさんが心の弱ったベリンダさんを取り込もうと優しく対応しています。


「どうしてこんなことになったのか……。あんなにも充実した毎日だったのに……。神を知った悦びは嘘だったのでしょうか……。あの悪魔は全てを奪った……。デンジャラス様には命を助けて頂きました」


 なお、悪魔とはお母さんの事でした。


「ベリンダ、私もメリナ正教会は認めていませんよ。何よりメリナさんがその存在を拒絶しているのです。ねぇ、メリナさん?」


「はい。恥ずかしかったです」



 さて、いよいよイルゼさんと対面です。ベリンダさんが鍵を開けました。


「イルゼ様、ベリンダです。この様な所にイルゼ様を置いている不徳をお許し下さい」


 その挨拶にイルゼさんは反応しません。石床に敷かれた絨毯の上に尻を付き、顔を下に向いたまま右の手首をゆっくりと撫で続けています。服は血染めのまま、髪も乱れに乱れていました。


 私とクリスラさんはお互いに頷き合ってから、牢に足を入れ、イルゼさんに語り掛けます。


「迎えに来ましたよ、聖女イルゼさん」


 まずは私から。


「借りていた転移の腕輪を返しますね。ありがとう、イルゼ。助かりました」


 クリスラさんは転移の腕輪を外し、腕以外は身動きしないイルゼさんの膝の前に置きます。


「えぇ、私の命が助かりました。あっ、でも、イルゼさんにはまだ活躍して貰わないと。イルゼさんにしかできないんですよ」


「ですって、イルゼ。頼りにされていますね。さすがは聖女です。私やメリナさんが認めた女です」


 自己肯定感を無理矢理にでも植え付けてやる。そんな作戦です。

 しかし、イルゼさんは動きません。


「メリナ正教会の件は残念でした。しかし、この挫折は新たな出発の始まりですよ」


 えっ、またメリナ正教会を復活させる気なのか? させませんよ。


「そうそう、クリスラ教を作りましょうね」


「あらあら、メリナさんの冗談を真に受けてはいけませんよ。さぁ、デュランの誇る天才イルゼ、立ち上がるのです」


「立ち上がれー、イルゼさん! 希望に満ちた明日が待ってますよ!」


 しかし、イルゼは腕を触り続けるだけです。もしかして、お母さんに耳を破壊されてるのかな?

 そう言えば、両眼とも潰されていましたね。忘れていたので、回復魔法を使います。


「イルゼ、どうしたのです。こんな所で止まる貴女ではないでしょ?」


「そうですよ。さぁ、何か喋りましょうか」


「ほらほら、貴女の大好きなメリナさんも仰ってますよ」


 イルゼはまだ反応しない。

 焦りが募ります。このままでは夜が明ける。シャールでやることがまだ残っているんですよ!



「ほら、イルゼさん。世の中にはもっと辛い人もいますよ」


「そうそう。イルゼ、貴女はもっとやれる女です。歯を食い縛りなさい。できなきゃ死ぬくらいの気持ちで踏ん張るのです」


「このままじゃクズになりますよ。クズ、クズ、このクズ聖女。お前、本当にクズなんじゃないですか? 生きてる価値あんの?」


「メリナさん、言い過ぎですよ。イルゼは、不幸な自分に酔っているだけです。可哀想な自分を見て欲しいのです。お見通しです」


 方向性を変えて、敢えて傷を深くする言い方にしてみたのですが、イルゼさんの反応は芳しくありませんでした。



 仕方ない。たぶん、これは最終手段です。

 後日の禍となるでしょうが、背に腹は変えられない。


「ふぅ、重症ですね。クリスラさん。私とイルゼさんの2人きりにして貰えませんか?」

 

「何か良い手が?」


「はい。失敗したら諦めます」


「メリナ様、宜しくお願いします。あぁ、禁じられているのに、どうしても奇跡を期待してしまいます……」



 さて、クリスラさんとベリンダ姉さんは去りました。しかし、この地下牢にはイルゼさん以外のメリナ正教会幹部も収容されていますので、小声で話した方が良いでしょう。


「イルゼ、聞きなさい……」


 私は静かに言います。


「メリナ正教会の件、残念でした。しかし、希望は捨ててはなりません。まだ終わってないからです」


 イルゼさんの体がピクリと反応しました。


「良いですか。貴女方は事を性急に進め過ぎたのです。好機はまた来ます。それまで聖女であり続けることが貴女の役目」


「……どういう意味……ですか?」


 やはり、こいつはまだメリナ正教会を諦めてない。お母さんが最終的には殺そうとしていたのも理解できます。


「神である私の命令です。今後は私ではなく、アデリーナを信仰なさい。しかし、密かにです。誰にも秘密です。そうでなければ、また今回と似た悲劇が起きます。分かりますか、イルゼ?」


 私を神という勘違いはさせつつ、イルゼの狂った信仰心はアデリーナ様に向けさせる。企みがアデリーナ様にバレたら怒られるので、秘密にしておけってことです。

 しかし、イルゼさんのおバカ具合からしたら、いずれアデリーナ様に告白するでしょう。完全に諸刃の剣。


「……はい。漸く分かりました」


 は? 漸く?


「よろしい。では、転移の腕輪を填めなさい」


「はい。世界は混沌を司るメリナ様と秩序を司るアデリーナ様に支配されている。けれども、一方の信仰だけが強くなると神の力に偏りが起こり、世界は破滅する。信仰にもバランスが必要ということですね」


 ……意味が分からな過ぎて怖い。一度、死なれた方が良いかもですね。


「あ、あと、マイア教の聖女としての役目を決して忘れないように。デュランでは次の聖女を選ぶ動きがあるそうです」


「ご心配をお掛けして申し訳ありませんでした」


 立ち上がったイルゼさんは笑顔でした。土と血で汚れた顔なのに。

 既に転移の腕輪は身に付けておりまして、彼女は私に深々と頭を下げます。


 とりあえずは、これで良いのです。

 私はクリスラさんを呼び戻して、シャールへ帰還します。

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[良い点] 「はい。世界は混沌を司るメリナ様と秩序を司るアデリーナ様に支配されている。けれども、一方の信仰だけが強くなると神の力に偏りが起こり、世界は破滅する。信仰にもバランスが必要ということですね」…
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