4 終
夕飯を終え、夫婦の寝室へマリーナはむかっていた。
コンプレックスなクルクルの赤毛も、お風呂上りだけは少し大人しくなる。
緩く一つに束ねて肩から前へ流し、夜着の上からストールを羽織った姿で戸を開けた。
そこには窓際のソファーに腰かけ、すでに晩酌を始めているトリニティがいた。
「申し訳ありません、遅くなりましたね」
「いいや。妻を待つ時間も幸せなものだよ」
「そ、そうですか……」
何だか今日はいつもより念入りに身体を磨かれ、化粧水もクリームも念入りに塗りこまれたので時間がかかってしまった。
夜着も初夜以来の細い肩紐のみで吊るワンピースタイプで、マリーナはさりげなくストールを胸元に掻きよせる。
(玄関ホールで仲睦まじい感じになったことを知ったメイドたちが気合を入れてくれたのだろうけど……恥ずかしいわ)
着せられるがままに着たものだが、とても張り切っているように見えるだろう。
動揺があまり顔に出ないようにと気を付けつつ、ソファの隣に腰かけて瓶をもち注ぐ。
「ありがとう」
トリニティがそれを一口飲み、いったんテーブルの上におく。
すでに何杯か飲んでいるのか少し酔っているようで、ご機嫌な感じで隣のマリーナの髪をとり、くるりと指に巻いて遊んでいる。
くるくる、くるくる髪を遊ばれる中、マリーナはこっそりと深呼吸した。
……ポケットにはあのイヤリングが入っている。
勇気をだすためのお守りとして、こっそり入れてきたのだ。
覚悟を決めてこくりと喉をならして、マリーナは彼へと真っ直ぐ視線をよせた。
「マリーナ? どうしたの、目が潤んでいて、顔も赤みを帯びていて……今夜は特別に愛らしいな」
恥ずかしい台詞にまた顔が赤くなるのを感じながらも、流されないように、きちんと自分の思いを喉から口へと通していく。
「今日で……わ、わたしたちが出会ってちょうど十日目です」
「そうだね?」
「互いの領地どうしはあまり仲が良く無くて、あまり期待された婚姻ではありませんでした」
「確かに」
「……トリニティ様も、この婚姻が嬉しいわけではなかったでしょう?」
「……うん?」
「なのに、どうして優しくしてくださるのかが分からないのです。敵視しているはずの領地から来たわたしに、どうしてそう……あ、愛してるとか、可愛いとか、言えるのですか。なぜあんなに素敵な贈り物をくださるのですか」
彼はきょとんと、少しだけ目を見開いていた。
「大切にしてもらっているのは有り難い事だとわかるのに。でも……でもわたしは、出会ったばかりの人のそのような言葉を信じることができないのです。その、わたしのことなんて何もしらないくせにと、思ってしまって」
夫を疑っているなんて、普通はあってはならないこと。
だからマリーナは今まで口には出さずに、ただ逃げていた。
口に出してから、しかしやはり失礼すぎた発言だっただろうかと不安がわき出す。
恐る恐るトリニティの顔をうかがい見ると、彼はぱちぱちと瞬きをし、ややあってから、噛みしめるみたいにふんわりと笑った。
「なんだ。それで怯えられていたのか」
「……気づいてらっしゃいましたか」
「そりゃあね」
びくびくしていたことは、やはりトリニティも分かっていたらしい。
そしてできる限り距離をあけていたことも。
先日のクローゼットへのかくれんぼも、きっと遊びではないと分かっていたのだろう。
しかしそれを口にはださず、気づかないふりをした上で、マリーナに変わらず接してくれていた。
分かっていたなら手加減してくれても良かったのにと、少しだけ思いもする。
「わたし、どう考えても嫌な態度をとっていたのに。本当にどうしてトリニティ様はいつも優しいままなのですか? ……好かれるような何かをした身に覚えがないから、余計に不可解なのです」
「それは夫婦って大切にしあうものだからだよ。妻は、世界で一番、誰よりも私が大切にする存在だ」
いったん言葉をきって、一言一言を噛みしめるみたいに彼は続けた。
「自分の奥方になる人を、誰よりも、大切にしようと。二人で幸せになろうと、決めてたんだ。父のように妻を守る人になりたかった」
「っ……あ、貴方は……どこまでも恥ずかしい方ですね……」
「そうかな」
「えぇ、ずっと思っていました」
「ずっと? あぁ、だからいつも顔を真っ赤にしていたんだな。それで逃げるから、怯えられたあげくに嫌われているのかと」
「き、嫌っていたわけではないのです」
―――ただ、そう決めていた。
自分自身にとって大切な相手を、妻になる相手を、トリニティは大切にしようとしていただけ。
(トムとメリッサも言っていたわ。ただ愛妻家なだけなのだと。理想は仲睦まじかった両親なのだと。……私が勝手に穿っていたの)
マリーナは、たとえ妻でも出会ったばかりでこんなに優しくするなんておかしいと、壁ばかりつくっていた。
距離をつめるのだって徐々に、とか。そのうち、とか思っていた。
いずれ仲良くなれればいいなと。淡い期待しかしていなかった。
なのに彼は、一番最初……いや、もっと以前からマリーナを『大切な妻』と決めていたのだ。
政略結婚だろうとなんだろうと、生涯をともにする『妻』を大切にするのは、彼にとって当たり前のことだった。
『妻』は大切にするもの。愛するもの。それが彼の認識なのだ。本当に単純な理由すぎて力が抜けてしまう。
――この人が結婚相手で本当に良かった。
心からそう思った。
同時に沸いて来るのは、嬉しいという気持ち。
――好き、かはまだ少し分からない。
だってまだ会って十日ほどで、彼が何を好きなのか、どんな話を好むのか、趣味はなんなのかさえ知らない。
彼もマリーナ自身を知らないのだ。
けれど彼は、何も知らなくても妻であるというだけで自分を世界で一番大切にしてくれる。
だったらマリーナも、トリニティからの優しさを返したいと思った。
「私、逃げるのも隠れるのもやめますね」
前を向いて、顔をあげて、正面からしっかりとトリニティをみつめた。
「この素敵なイヤリングを誇れるような、トリニティ様の奥様、が、がんばります……!」
拳を握ってふんっと鼻息あらく気合いを入れ宣言したマリーナに、なぜかトリニティが真顔になった直後に噴き出した。
あははははと、声を大にして笑われている。
子供みたいな仕草をしてしまったのだと気づいて少し恥ずかしくなった。
でも彼のその笑い方は今までよりもずっと砕けていて、これが初めての彼の素の笑顔な気がした。
「君はやはり可愛らしいな。どうぞよろしく。私の最愛の奥さん」
差し出された手に、マリーナは一瞬おじけづいた。
『愛しい』とか『可愛い』とかを彼に言われると、どうしても落ち着かなくて逃げたいような気分になってしまう。事実、昨日までは逃げていた。
とにかく恥ずかしくて仕方が無いのだ。
でもぐっと堪えて留まり、深呼吸をして覚悟を決めて目を見つめ、ゆっくりと自分の手を重ね合わせるのだった。
――今はマリーナにとって少しばかり重く感じる、夫からの愛の言葉。
それを同じだけ返せるようになるのは、まだ少しだけ先のこと。




