おまけ そういえば
その日、グレースは書斎で調べ物をしていた。そこにフィデルが訪ねてきて、お茶にしようかという話にはなったのだが、区切りの良いところまで待つという言葉に甘えることにした。
二人は書類上の結婚はしたが、同居はまだしていない。グレースは急ぎたかったが、グノー家の面々が難色を示したのだ。曰く、引継ぎやら何やらがあるから無理と。半年ほどの期間別居婚が確定している。
昼間に時々フィデルが侯爵家に訪れるのが夕刻には帰宅している。歩行訓練も兼ねていると言うが、それだけでもないはずである。
なにをしているのかと視線を向ければ、フィデルは紙に何か書いていた。相変わらずかわいい感じの字を書く。あれはミラのために練習したのではなく、素であるらしかった。ちゃんとした書類にはきちんと書くと主張していたが、割と丸っこい。それで言えばグレースはかくかくしているほうだ。力強いですねというのは誉め言葉かどうかは微妙なところである。
退屈してなさそうならいいかとグレースはもうちょっと続けることにした。
「そういえば、気がついてました?」
いきなり問われた。先ほどまでは、何か書き物をしていたフィデルがいつの間にかグレースを見ている。
「俺は指先にも触れたこともないんですよね」
「仕事で触ってなかった?」
「あれはミラです。俺じゃない」
そういうものかしらと首をかしげながらグレースは席を立った。
フィデルをあまり歩かせたくなかったのだ。彼がいた隣の椅子に座ってグレースは手を差し出した。
「妻なのだから、好きに触れればいいわ」
「そういうの、良くないですよ。俺が好き放題したらどうするんです?」
苦笑しながらフィデルはグレースの手を優しくさらりと触れた。なんだか毛並みの良い獣でも撫でるようなやり方にグレースは不満だった。
「構わないわよ。
初夜もうやむやにされてしまったし」
「…………そりゃあ、そうでしょう。同居もしていませんし、お泊りとか俺が恥ずかしい」
「そちらに泊まりに行くわけにもいかないじゃない」
「勘弁してください。
俺が悪かったです」
「なんでそんなこと言い出したの?」
グレースが問えば少し気まずそうにあらぬ方を向く。何かあるらしいが、言いたくないという態度だ。しかし、じーっとグレースが見ていればフィデルもあきらめたようである。
「そういえば、キスの一つもしてないなと思ったんですよ。それから、抱きしめたこともないし、手もつないだことも、そーだ、触ったこともないと」
「あるわよ。こうほっぺたをぐーっと」
「その時はミラですので。
まあ、あれはグレース様が悪い。ほんと、あれはひどかった」
しみじみと言われてさすがにグレースは悪かったなとちょっと反省する。
小さくごめんなさいといえば、気をつけてくださいねとそっけない声が返ってくる。
実はあの件はまだ怒っていたらしい。グレースはもう少し反省することにした。だが、夜のほうがはかどることもあるしと思うところは懲りてないかもしれない。
「お手に触れても?」
「いいわよ」
先ほどと同じように撫でるのかと思えば手を重ねられた。
そのまま指先が絡まる。くすぐったいような、恥ずかしいような気分でグレースは落ち着かなかった。ただ手を繋いでいるだけなのになにかとてもいけないことをしているようにも思えた。
「も、もういいでしょ」
思い切り手を引いてしまった。
「嫌ならもうしないですけど」
「そうは言ってないでしょっ! 慣れないのよ」
「じゃあ、練習しましょうか」
うっと言葉に詰まったグレースだが、最終的には頷いた。
これが後に侯爵夫妻はよく手を繋いでいると記録に残されることになる。




