*番外*イブラヒムの恋路【後編】
青い空、白い雲!!
今日は、楽しい……お見合い!!!!
アグドニグルはローアンが誇る、この大陸で最も美しいと称される朱金城の中庭。この庭でしか見られない珍しい南国の鳥とか、植物は多くあるらしい。七色の小魚が自由に泳ぐ池。宝石をあしらった橋、咲き誇る綺麗な花々……こんな状況でなければじっくり堪能したいほど見事な場所だけれど、私は今、それどころではない。
「……可憐だ……………」
「…………」
お庭の一部にある屋根のついた休憩所。多分なんか名称があるんだろうけれど、私にはわからない。
豪華なテーブルや椅子が用意されて、そこにちょこんと座る私と、その向かいにいるのはイブラヒムさん。
ここに案内されてお互い顔を合わせて…………かれこれ、もう十分ほど、イブラヒムさんはじぃっと、私の顔を見ては、頬を赤らめ、溜息をつく。
「あ、あのー……」
「し、失礼……!!その、も、申し訳……ない……貴方とこうして……こうして、再び……お会いできるなど……夢のようで……」
穴が開く程見てくるとはこのことか、というほど見つめられて私は思わず自分から声をかけてしまった。イブラヒムさんは、慌てて、しどろもどろになりながらも、何度も何度も「お会いできて光栄です」と繰り返す。
本当に、誰だこいつ、と私は突っ込みを入れたい。
普段私に対してする態度と本当に違い過ぎる。恋は人をここまで変えるのかと、私は恋をしたことがないので、ただただ驚きだ。
カイ・ラシュの思い詰めた結果の恋心とも、ヤシュバルさまの罪悪感から来る過保護とも違う。私の一挙一動に注目して、ご自分の印象を少しでもよいものにしようと集中されているご様子のイブラヒムさん。
……ちゃんと、嫌われてあげないとな。
私はイブラヒムさんのことが嫌いではない。
関わる人間の中で、自分と精神的に一番似てるのはイブラヒムさんかなー、と思うくらいには、興味と関心がある。
ので、ちゃんと振られてあげようと、自分が面倒な目にあっているからというだけではなく、イブラヒムさんへの一方的な友情から決意した。
それがいけなかった。
*
(……)
自分がこんなに情けない男だと、イブラヒムは認めたくなかった。
今日の為に、天候はしっかり確認して「良い天気ですね」から始まる会話を何百通りも自分の中で想像し、会話運びはスマートに行える自信がイブラヒムにはあった。
だが、実際に……久しぶりにお会いする琥珀の君を前にして、イブラヒムは自分が想像していた会話や何もかもが一瞬で頭の中から吹き飛んだ。
あまりにあまりにも、可憐な姿が、そこにはあったからだ。
夜会の、人工的な灯りの中で見た姿とはまるで違う。いや、あれも美しかったが、太陽の輝く光の中にいる彼女は、健康的な微笑みと触れれば折れてしまうような体の細さが嘘のように噛みあっていて、目が離せなかった。
瞬きをすればその姿が消えてしまうのではないかと恐ろしくなり、イブラヒムは必死にその姿を目に焼き付けた。それが無礼な行動だったと気付いたのは、随分と経ってから。
琥珀の君の戸惑うような声に我に返り、イブラヒムは慌てる。
「あの、イブラヒム様……折角ですから、お庭をお散歩でもしませんか?」
「は、はい……是非!」
情けない。
女性の方から言い出して頂くなど、なんという情けない男なのだろうか。
イブラヒムはせめて自分がエスコートしようと、手を差し伸べるが、あの夜に踊った記憶が脳裏に蘇り、体中がボッと熱くなる。
手に触れるなど、とんでもないことだ……!
あの時は、夜の宴の際は、そういう、男女で触れ合うこともさほど気にならない雰囲気があった。しかし今は、さんさんと輝く太陽の下で、未婚の女性の手に触れるなど、なんという破廉恥な行為だろうか。
いや、手を握りたいという強い欲はある。だが、彼女のような麗しい方にそれを強制するなど、そんな恥知らずな振る舞いは出来ない。
イブラヒムは恥ずかしさから速足になって先を行ってしまう。
しまった、彼女を置き去りにしてしまっただろうと思って振り返り、
ボッシャン!!
「????っ、!?……???」
イブラヒムは何が起きたのか変わらなかった。
いや、即座に賢者の冷静な頭が思考する。
落ちたのだ。
自分が。
池に。
今。
なぜ?
突き飛ばされたから。
誰に?
「あらあら、あら、あら、あら、まぁ。このような日差しの良い日ですものね。賢者殿も行水を行いたいと思うのも頷けますわ」
「……」
「イ、イブラヒムさん、じゃなかった、イブラヒム様……!!」
慌てて駆け寄る琥珀の君はすぐにイブラヒムを池から引き揚げようと手を伸ばしてくれるが、イブラヒムはそれを軽く手で制し断って、自分を突き飛ばした人間(の、姿はすでに見えないが)に指示を出したであろう者を見上げた。
「これはこれは……なぜ貴方がこちらに?」
池にかかった橋の上にいるのは、煌びやかな衣を纏った女の集団。侍女をぞろぞろと連れて、日傘の下にいるのは栗色の髪の女。頭には大きな真珠の連なった髪飾り。
第三皇子殿下の正室、真珠宮の女主人アジャ=ドゥルツ夫人だ。
今日、この場はイブラヒムと琥珀の君のためにと整えられている。陛下の御名で他の者は立ち入れないようにされているはずだが、貴人がなぜこの場にいるのかとイブラヒムの視線は厳しい。
「なぜ?この庭は妾たち妃にとって憩いの場ですわ。自由に出入りして構わないはずです」
「今日は誰も立ち入らぬようにと皇帝陛下の御命令が下っております」
「あら、そうなのですか?それは……聞いていなかったわ。ねぇ、誰か知っていて?」
夫人が周囲の侍女たちに問いかけると、彼女たちは一様に首を振る。
「……まぁ、賢者様がお間違いになるはず等ありませんものね。となると、誰か……妾にそれを告げる筈のものが故意に情報を隠匿したのやもしれません。嘆かわしいこと……宮中の陰謀でしょうか?妾のか弱い立場ではその者を探し出し処罰を与えることもできませぬ」
「……」
「しかし、陛下が命じられたことを、知らぬとはいえ破ってしまったことも事実。妾は慎んで陛下より罰を賜りましょう。えぇっと、それで、本日は……賢者殿と?その見知らぬ女の逢引の為にこの場が貸し切られ、それを阻害した第三皇子殿下の正妃たる妾が鞭打ちをされる、ということになるのですね」
イブラヒムは今すぐこの女の口を閉ざしてやりたかった。
第三皇子は宮中にて、それほど立場が強くはない。
獣人族を束ねアグドニグルへ忠誠を誓った第一皇子ジャフ・ジャハン殿下。
医術面で革新的な取り組みを多く行い、奇跡や魔法に頼らぬ治療法を生み出し国に貢献する第二皇子殿下。
個人の武としても、また軍事力で他の皇子たちより特出し陛下の信頼の厚い第四皇子ヤシュバル殿下。
彼らと比べてしまえば、第三皇子殿下はこれといって強みもなく、唯一、多くの妃を持ち子供の数も多い。まだ一番上の子でさえ十にならないが、ゆくゆくは他国や有力貴族と縁を結ぶのに有利、というくらいだろうか。
だがあえて王族の血をバラまく必要もなく、また、誰もが知る事実として、皇子の誰もが陛下と直接の血の繋がりはなく、元々が人質であった者。皇子の子がどの程度、価値があると思われるのか、イブラヒムはそこまで期待していない。
その立場のあまり良くない第三皇子の正妃が何をしにきたのかと考えれば、単純に「邪魔しに来た」のだろう。
琥珀の君は第一皇子殿下の御正室、春桃妃様の侍女。
(その彼女が私と、そ、その……け、結婚……でも、コホン。もし、婚姻関係に至るとすれば。学問の塔の主人たる私の力が彼女の主人である春桃妃の側につくと考える愚か者も出るだろう。それに、琥珀の君はあのレンツェの小娘、じゃなかった、シュヘラザード姫の為に宮中に招かれた者。第一皇子と第四皇子同士に縁が出来る)
皇子殿下たちは今のところ、どの兄弟同士もお互いに一定の距離を保ってはいる。
ギン族を滅ぼしかけた金獅子の長とまさか結託することはないだろうと思われるが。
陛下に罰せられることを覚悟で、アジャ=ドゥルツ夫人としては、なりふり構わず特攻をかけてきた、というわけだ。
宮中では、イブラヒムを「平民上がり」と見下し疎む者は多い。イブラヒムがどれ程有能さを示そうと、何をしようと、認めず嫌う者はどうしようもないことだ。そういう連中に隙を見せぬようにするのが精々で、上手くやろうとは思わない。
なので今回、アジャ=ドゥルツ夫人が「イブラヒムの所為で」鞭打ちの刑、でなくとも何らかの処罰を受けた事実が広まれば、宮中の馬鹿どもがそれをどう利用するか。
(この場にいることを不問にしてやり過ごすのが最も効率がいい、が……)
「イブラヒム様、あの、いつまでも池にいると……」
思考を巡らせるイブラヒムに、琥珀の君の優しい声がかかる。
手を差し出してくる愛しい人に、イブラヒムは微笑んだ。
「ありがとうございます。ですが、あなたが濡れてしまう」
暖かくなってきた頃とはいえ、池の水は冷たい。池に入った自分が彼女の手に触れれば、その冷たさで彼女の熱を奪ってしまうし、美しい衣に水滴一つ落としたくなかった。
「いつまでもイブラヒム様がいると、池の魚に迷惑ですよ。水の生き物は繊細なんですから……」
「成程」
確かにそうだ。
この池の魚は一匹で金貨数枚に値する。
こんな状況で、国の財政にまで頭が回るなどなんて素晴らしい女性なのだろう。
イブラヒムは感心して、さっと池から上がった。
こうまでずぶ濡れでは、今日はもうこれでお開きにした方が良いだろう。どういうつもりか現れたアジャ=ドゥルツ夫人の悪意に愛しい方を巻き込みたくもない。
イブラヒムは冷静に判じて、琥珀の君に別れの言葉を告げようとして、いつの間にか彼女が橋の上、つまりはアジャ=ドゥルツ夫人と向かい合うように立ってた。
「あの、イブラヒム様にちゃんと謝ってください。あとタオル……布とか、持ってくるようにどなたかにお伝えください」
「……はて、なんでしょう。この無礼な娘」
「下がりなさい端女。布が欲しければお前が走って取りに行けばいいでしょう!」
アジャ=ドゥルツ夫人は扇を広げて、不快な物を見るように視線を遮った。側の女たちが声を上げる。
「いや、私がいなくなったら、もっとイブラヒム様をいじめるでしょう。突き落としたのはそちらなのだから、せめて布くらい用意してください。……大騒ぎになりますよ!?」
「琥珀の君、」
「ホホホ、おかしなことを申すな」
イブラヒムはすぐに割って入ろうとしたが、水を吸った服は重くすぐさま動けない。体力も筋力も乏しいイブラヒムがもたついていると、アジャ=ドゥルツ夫人が声を上げて笑った。
「騒いだところで妾になんの不利があろう。妾はこのアグドニグル、第三皇子殿下が正室アジャ=ドゥルツ。そなたはなんじゃ?たかだか使用人の分際で、妾になんぞ出来ると思うたか」
「……あのっ、本当に……本当に、このタイミングで、謝っておいた方が良いと思います……!!」
「ホホホホホ、見苦しいぞ」
焦ったように顔を顰める異国の娘にアジャ=ドゥルツ夫人が勝ち誇ったような笑みを浮かべる。琥珀の君は必死に首を振り、何やら「ノーノー!!ストップ!」というような言葉を小声で呟いているがその意味が分かるものはこの場にはいない。
自分が絶対的有利、強者であると信じて疑わないアジャ=ドゥルツ夫人の笑い声が響いた。
*
ステイ……!!
待って!お待ちください!!
私は必死に、必死に、屋根の上でこっそりとこちらの様子をご覧になられている陛下に訴える。
イブラヒムさんとのお見合いだかなんだか、の会。
陛下主催なのだから、陛下がどこぞから眺めていないわけがないだろう。なぜイブラヒムさんも、突然現れたお化粧の濃い……ケバめなおばさんも、思い至らないのだろうか……!
イブラヒムさんが池に落ちてから、何やら双眼鏡らしいものをこちらに向けて眺めていらっしゃる陛下が「アクシデント??アクシデント??」とそわそわしていらっしゃる。お付きの黒子さんたちもソワソワとタオルらしきものを持ってスタンバイされている……!
今のところ「うーん、続投?」判定が出ているので、何やらケバめなおばさんは気持ちよくマウントが取れていらっしゃるが……ここで、陛下がご登場されたら、事態はややこしくなる……!
頼むからイブラヒムさんに謝って!と、私が必死に訴えると、ケバめなおばさんは私を馬鹿にするように笑うのみだ。
あぁっ、屋根の上の陛下がグッグッと準備運動してらっしゃる……!
飛び込んでくる気満々でいらっしゃる……!
黒子さんたちも背中に羽みたいなの背負って一緒に飛ぶ用意万全だ……!
「うぅ……ッ!」
このケバおばさんが何をしに来たのかよくわからないが……私は、目的を忘れてはいけない!
この場で、イブラヒムさんにきちんと嫌われる……振られるような女を演じなければならない!そうしたら陛下も「お?続行?じゃあ邪魔しちゃ駄目だな」と大人しくしていてくださるはずである!メイビー!
嫌われる女……こういう状況で、権力マウントを取る……!
自分の力じゃないものをアテにする!
えぇっと、確か、前世で読んだ……悪役令嬢モノの、勘違い系頭お花畑ヒロインはこういう時……!!
「イブラヒム様はとっても偉い方なんですから、謝らないと困るのはそちらですよー!」
びしっと、行儀悪く指をさす。
この女性が何者かよくわかっていない無知な娘。
自分がこの場で何かするのではなくて、他人任せな無責任さ。
難しい言い回しも、気の利いた返しもない、わやわやとした、子供の訴え以下の叫び。
「ホホ、ホホホ、ははははは!」
「まぁ!この小娘!」
「何を言うかと思えば……!」
「物を知らなすぎるにも程があるのでは?」
当然ながら、ケバおばさんたち一行は一笑にした。私の訴えが的外れであり、地位で言えばこちらの方が上なのに、無知な小娘と嘲笑する。
よーし!
良い感じな頭の悪い女判定を頂けた!
イブラヒムさんも、さぞかし私にがっかりしているだろうと、ワクワクして後ろに駆け寄ってきたイブラヒムさんを振り返る。
すると、期待通り、イブラヒムさんはショックを受けたような顔をして立ち尽くしていた。
うんうん、そうでしょう。そうでしょう。
異国の御令嬢にどんな幻想を抱いていたのか知らないが、目の前にいるのは、礼儀作法もあったものではなく、目上の貴人に対して無礼な言動をする浅慮な小娘。宮中の人間関係も考慮せず、喚くだけの頭の悪い女である、と。これで理解していただけた。
失望し、目を大きく見開いているイブラヒムさんは気の毒だが、これでいい。
私は心の中でミッションコンプリート、と呟こうとして、次の瞬間、ぐいっと、イブラヒムさんに腕を引かれた。
……ワッツハプン??
「……それほどまでに……それほどまでに、私を、信じてくださるのですか」
「…………………はい???????」
「彼女達が王族の一員だとしても、皇子殿下の庇護下にある者だとしても……私の方が価値があると……彼女らが得ている力より、私が勝ち取った力の方が……尊いと……それほどまでに、信じてくださるのですか……!!」
ぎゅっと、抱きしめてくる、池の水ですっかり冷たくなった体。
僅かに震えているのは寒さからというばかりではないのだろう。
…………………………いやいやいやいや、でもでもでもでも、なんでそうなる????
「今まで……これほど純粋な好意を向けられたことはありません……ッ」
おい、しっかりしろ賢者!!
なんでそうなるんだ!
どうしてそうなるんだ……!!
あわわわわ、と、口から洩れるのは悲鳴なのか驚きなのか自分でもよくわからない!!
私が混乱していると、イブラヒムさんはぐいっと、私を背に庇い、ケバおばさんたちに向かい合う。
いつも私に向けている以上に厭味ったらしい笑みを浮かべ、ふん、と鼻を鳴らした。
「何を企んでこの場にいるのかは、まぁ、予想が付きますが……貴方程度の考えにこの私が陥れられると本気で思い込めているのなら、誠に以て羨ましい楽天家でいらっしゃいますね」
「平民風情が、この妾を笑うか」
「笑います。えぇ、当然でしょう?私は恐れ多くもアグドニグル皇帝クシャナ陛下よりこの国の“賢者”に封じられた者。己の才覚でこの場に存在することを許された者。私を池に突き落とした者は誰であれ、しかるべき処罰を受けて頂きます」
「……それがどういう意味か、わかっておるのか」
「降りかかる火の粉は払ってきたつもりですが、火元を根絶やしにするのも、良い機会でしょう」
「……おのれ……ッ」
カッ、と、目に見えてケバおばさんのお顔が赤くなった。周りにいる侍女の人たちも侮辱されたと怒りを露わにして、イブラヒムさんを睨み付ける。
「さて、ではいい加減、下がって頂けますか。アジャ=ドゥルツ夫人」
イブラヒムさんはそれらの敵意や憎悪を受けても素知らぬ顔で、涼やかに出口の方を指差した。それで従わなければどうなるのか、私にはわからないが、あんまりよろしい結果にはならないのだろう。悔し気に呻きながらも、ケバおばさんたち一行はすごすごとそのまま去って行った。
「……お見苦しい所を、お見せして申し訳ありません」
「え、いえ、いえ、その……私こそ、何も出来ずに申し訳ありません」
ケバおばさんたちには一瞥もくれず、イブラヒムさんはすぐに私に向かい合って、頭を下げた。人に頭を下げるなんてことを全くしなさそうな人が、たいした身分もない女性に丁寧に頭を下げる。
「……貴方のおかげで、決心が付きました」
「は、はい?」
「……これまで、私はさほど、宮中の権力闘争に興味はなく、それなりに均衡が取れていればいいというだけだったのですが……決めました」
な、なにをだ……。
「貴方を妻に迎えた時、誰も貴方に手出しが出来ない程の夫になってみせます。貴方に最大の栄誉を与えられる男になります」
「??????????」
おい、話が飛躍しているぞ!?
まともに手も握れない男がどうして一足飛びで結婚ルートに突入してるんだ!!
私はゾワァアアっと、全身に寒気が走った。
やるんだよ!
今、ここで!!
じゃないと取り返しがつかなくなるよ!ナウ!
「わ、私はですね……!」
「はい」
「仕事より私を優先してくれる人じゃないと無理ですし……!」
「御安心ください、仕事はあくまで生きる為の手段。貴方を最優先すると誓います」
くそっ!
「私は寂しがり屋なのでずっと一緒にいられる人じゃないと……!」
「わかりました。私の助手になりませんか?簡単な書類整理や部屋の片づけをして頂ければ十分ですので」
おい職権乱用!!
「ほ、欲しい物が……沢山あって、私は、浪費癖があるので……!!」
「これまでの蓄えもありますし、賢者として得た収入以外にも私は特許をいくつも取っていますから、王族の歳費程度の支出は問題ないかと」
なんでこの人これまで独身だったんだよ!!
ぐぬぅ、と私は負けそうになるが、ここで負けるわけにはいかない。
奥の手だ!
「陛下より愛して頂けないと嫌ですね」
ぴたり、と、これまでよどみなくこちらの無茶な要求に答えていたイブラヒムさんの表情が、ここにきて凍り付いたように固まり、停止した。
よっしゃ!!
さすがは陛下は偉大ですね!
陛下を称えよ!
と、私は内心ガッツポーズを取る。
「……陛下より、ですか」
「はい、私は重い女なので、夫となる方の心に自分以外の女の存在がいることが無理です。なので、イブラヒム様が陛下より私を愛してくださらないのなら、妻にはなりたくありま、」
「光栄です」
「……は?」
「……それほどに、それほどに、私を求めてくださるのですね」
……ワッツハプン。
「この国で最も優れた尊き存在であらせられる皇帝陛下。その方を敬愛することはアグドニグルの民にとって当然のこと。私にとって陛下以上の存在になることを望んで頂けるとは……それほどまでに、私を思ってくださるのですね」
私はイブラヒムさんを池に突き落としたい衝動にかられた。
リセットボタンがあるなら連打する。
全てにおいてポジティブシンキングなこの初恋拗らせ男を、どうすれば撃退できるんだろ。
無理だ。
もう、私如きには無理だ。
イブラヒムさんは何やら「小さな家で、子供は三人」などと寝言をほざいていらっしゃる。
とても幸せそうなお顔だ。
こんなに穏やかで幸福な顔をしている人間など、これまで見たことがない。
今が人生で最も幸せな瞬間で、そしてこれからそれが更新され続けるのだと信じて止まないイブラヒムさんを前に、私は只管無力だった。
ちらり、と陛下の方を見れば両腕を交差させ「作戦失敗!」というジェスチャーをしているが、そんなことはわかっています。
「あぁ、今日はなんという幸福な日でしょう……!」
感極まったように呟くイブラヒムさん。
私は乾いた笑いを浮かべるしかなかった。
どうしよう。
「キャンキャン!キャワワワン!」
「うん?」
茫然と、今後来るであろう強制ウェディングイベントを思って私が頭を抱えていると、足元で何やら、きゃんきゃんと、良く知った鳴き声。
「うん?なんだ駄犬」
「キャワワワン!」
真っ白いふわふわとした毛の、小型犬。
わたあめが私の足元にじゃれついていた。
当然、イブラヒムさんはいつものようにわたあめを邪険に追い払おうとして、私の手前、それを止める。
「え、なんでここに……」
今日は用事があるからお留守番しててね、とシーランにお願いしたのだけれど、なんでここにわたあめがいるのか。私が首を傾げると、こつん、と足音がする。
「珍しい菓子を頂いたから、君もどうかと声をかけにきたんだが。イブラヒム、シュヘラとの用はもういいだろうか」
黒髪に赤い目、全身真っ黒な衣を着た背の高い人。
ヤシュバルさまが、自分のもとに駆けてくるわたあめをひょいっと抱き上げつつ、こちらに話しかけてくる。
っていうか、え、なんで……ヤシュバルさま、この姿の私が……シェラって、知って……。
言ってないですし……そもそも、見せてもいないのに……。
「……」
「……」
「……?」
沈黙。
混乱する私と、真顔になるイブラヒムさん。
ヤシュバルさまは不思議そうに、わたあめと一緒に小首をかしげる。
「も、申し訳ありませんでしたァアアアアアア!!」
私は反射的に膝をつき、額を地面に擦りつけた。
イブラヒムさんがじぃいっと、私を見つめるのを感じる。
目まぐるしく、回転していらっしゃるだろう頭の中。
様々なピースを、組み合わせて何度もやり直していらっしゃるのが、さすがにわかる。
「と、取り押さえろ!!いまだ!イブラヒムを抑えよーー!!猿轡をかませろー!!舌を噛ませるなーー!!」
その瞳に完全な理解の色が浮かぶ間際、バッ、とどこかからか黒子さんたちが一斉に現れて、陛下の号令と共にイブラヒムさんを拘束する。
「は、放せっ!殺せ!!死なせてくれッ!!もがもがもがッ!!」
バタバタと抵抗するイブラヒムさん。
どこからともなく現れた陛下は「ふぅ」と汗を拭うような仕草をして、私の手を取り、立ち上がらせる。
「間一髪だったな」
「いや、完全にアウトですよ」
「死ななきゃいいんだ」
「……陛下?それに、シュヘラ……これは一体」
黒子さんたちに何か薬を嗅がされ意識を失ったイブラヒムさんを心配そうに見つめながら、ヤシュバルさまは眉を顰める。
「ちょっと色々あってな。ところでヤシュバル。よくこの娘がシェラ姫とわかったな?」
「わたあめが駆け寄ったからわかったんですか?」
「いや?見ればわかるだろう?」
何故そんな事を聞くのかというお顔をされる。
「確かに……少し、背は伸びたようだが……子供の成長は早いと聞く」
「いや、そういうレベルじゃないと思うが」
思わず陛下が突っ込みを入れる。
「実は、この姿、メリッサの奇跡で大きくしてもらったんですけど、イブラヒムさんが知らない女のひとだと勘違いしちゃってですね……なんと言いますか、結婚しそうになりました」
「……さすがにそれは、大事だな」
「ですよねぇ~、陛下と一緒にどう振られるか考えたんですよー」
「可能なのは側室になることだが、この場合、復興したレンツェに賢者が取り込まれることになるので、根回しが難しいのではないか?」
「ヤシュバルさま、そういう事じゃないです」
イブラヒムさんは別にシェラのことが好きになったわけじゃない。あくまで、幻想の乙女。イブラヒムさんが夢想した女性が好きなのだ。
「君が演技をしてイブラヒムを騙していたわけではないのだろう?」
「え?えぇ、まぁ。そうですけど」
「君は君なのだし、ただ姿が少し大人になっただけの君にイブラヒムが好意を抱いたのなら、それはいずれ、イブラヒムが君に対して、女性として好意を持つということだろう」
「そういう未来はちょっと……こないと思いますけど」
イブラヒムさんはシェラのことが大嫌いなのだし、今回のことで余計……まぁ、うん、嫌われただろうな。本当、申し訳ない。この件に関しては本当、申し訳ない。
私はイブラヒムさんが運ばれた方向に頭を下げ、ため息をつく。
さて、そういうわけで、メリッサの奇行から始まった今回の騒動は一応の決着を見せた。
その後、自死をなんとか思いとどまったイブラヒムさんが「旅に出ます。探さないでください」という書置きを残して飛び出して、一週間で連れ戻されたり、記憶をなくすために真鍮の壺に閉じ込められた魔神と契約しそうになったりと、色々あったが、それはまた別のお話である。
お疲れ様でした!
ここまでお付き合い頂きありがとうございます!
面白かったらイイネ、とか評価押して頂けると喜びます!




