*番外*イブラヒムの恋路【中編】
「うぅ……」
私の前に引き摺られて連れて来られたのは、確かにバルシャおねえさん……だと思う。
「……へ、陛下」
小さく呻くその女性。痩せ細り、体中から汚臭が漂う。唇は青白く、カサカサとしていて、肌という肌は汚れ、あちこちに齧られたような傷がついていた。髪は汗や汚物で汚れ固まっていて、たった数か月で人はこんなに変わってしまうのかと、私はショックを受ける。
これがかつて、噴水の脇に腰かけて淡く微笑んでいた美しい人だとは、とうてい思えない変わりようだ。
捕らえられたバルシャおねえさんが、どんな扱いを受けていたのかひと目でわかる姿。
「うん?どうした、シェラ姫」
「あの……ど、どうして……」
こんな扱いをしたのか、私は陛下に問いかけた。
バルシャさんは……聖女だ。
神聖ルドヴィカという、アグドニグルとは別の権力を持った組織に籍を置く人間で、その聖女様がこんな風に扱われるなど……私は思ってもいなかった。
「どうして?あぁ……そういえば、この糞袋も当初そのような言葉ばかり吐いていたらしいな??自分は聖女だから、こんなこと許されない、とか。神の裁きが下るぞ、とか、そんな風に叫んでいたらしいが……はっ、ははっ、はははは!」
豪華な椅子に腰かけて、杯を手に持ちながら皇帝陛下は愉快そうに音を立てて笑った。
「片腹痛いわ」
「……」
「シェラ姫、こちらへ」
おいでおいで、と陛下は私を膝の上に乗るよう手招きをされる。
ここで「なんか嫌」と言える雰囲気ではない。私は慎重になりつつ、陛下の膝の上に座った。
ゆっくりと陛下の手が私の長い白髪を撫でる。その手はどこまでもお優しい。
私を背中から抱きしめつつ、陛下は私の顔をバルシャさんの方へ向ける。
「あれをよく見ておくが良い。欲深く、他人が得をする事に己が損をすると、それを耐えられぬ女の末期である。欲深い事は悪ではないが……それに見合う努力も覇気も才覚も、補えるだけの運もなかった愚物。ふん、神が人を救うものか。民に救いを齎すのは王族、ゆえに、支配し統治されるのだ」
「……ちゃんと、バルシャおねえさんには怒っているんですね?」
「……ちょっとはこの私の皇帝モードに怯えてもいいんだぞ???」
「今更ですから……」
「あ、そう……?」
地雷女のお手本でバルシャさんが連れて来られたので、もう前提からちょっと……怯えるには前フリが失敗していると思う。
陛下のこのノリノリな皇帝モード、こわいか怖くないかと言われれば「チビりそうな程怖い」けれど、それはそれ。
ちゃんと陛下が「私のパーティー邪魔しやがって」とか「こいつの所為でシャンデリアが!」と、きちんとお怒りになられているのがわかり、私としては安心だ。
まぁ……知り合いの優しいおねえさんが酷い扱いをされているのに、ショックはショックだけれど……。
「私のレンツェ時代に比べれば……待遇良いと思いますし……バルシャさん、大人だし……」
何の罪もなかった可愛い幼女エレンディラが、陛下によってこんな目にあわせられているのなら、私は陛下に怒っただろうが……バルシャおねえさん……私に色んなもの押し付けた人だからな……
「まぁ、そなたがあの糞袋の姿を見てショックを受けなかったのなら良い」
「いや、驚きましたけど」
まぁ、それで陛下への感情が変わるということはまずない。
私はうーん、と唸りながらとりあえず陛下の御膝から飛び降りる。ひょいっと降りて、バルシャおねえさんの側に近付いた。
「……」
悪臭に鼻だけでなく目まで痛くなる。
本来、皇帝陛下の前に連れて来られるなら最低限身を清められていそうなものだが、それすらバルシャおねえさんには許されなかったのだろう。
「あの、バルシャおねえさん……」
私はそっと声をかけた。
お腹が空いているなら食事を作るし、お風呂だって、ここへ連れて来た以上、入れさせて欲しいとお願いすれば陛下も拒絶はしないはずだ。
ただ、勝手にやってはバルシャおねえさんの自尊心を傷つけるような気がして、私は声をかける。
「……ッ!!」
しかし、私の姿を認めたバルシャおねえさんは、うつろだった瞳に強い敵意、殺意を滴らせて鋭く睨んできた。両手両足は縛られていて、私を害することはなかったけれど、起き上がった反動で揺れる体をそのままに、私に噛み付こうと頭を振り上げ、私は黒子さんの一人に抱きかかえられ距離を取る。
「お前……ッ、お前!!お前さえ、いなければッ!!」
なぜだか私に強い憎しみを抱いているらしく、吠えてくるバルシャおねえさん。
「私!?え!?私ですか!?」
「なんで生きてるのよ!!!!!」
「死にたくないからですけど!?」
「確かに呪ったのに!!何もかも押し付けたのに!!なんで……!私の力を返しなさいよ!!」
私の力?
あ。
そういえば、どうしてバルシャさんはこんな姿のままなんだろう。
癒しの力を持つ聖女さまのバルシャおねえさん。
「あんたが盗ったのよ!この泥棒!盗人!!卑しい子!薄汚い異人のガキ……!」
「喧しいな。舌を抜いておくか?」
「そこまでするのはちょっと……それに、ボキャブラリーが乏しくて……もっと頑張って罵って欲しいです」
あれこれ喚いてくださるバルシャおねえさんの言葉なんぞ、レンツェ時代の罵倒に比べれば、所詮箱入り娘の精一杯の悪口である。
「私がバルシャおねえさんの聖女の力を奪ったんですか?」
「いや、ただ消失しただけだ。そなたに憎悪や悪意を押し付けたゆえ、神の祝福を失ったのだろう」
「……?」
「もがき苦しんでいる姿が見れなくなったら、見守る意味がないだろう?」
うーん?
陛下は当然のように仰るが、私にはちょっとよくわからない。
まぁ、つまり、バルシャさんは私に悪意と憎悪を押し付けて自分は黒化を回避したから、神様から見放された、ということか。
シビアだね!
「これの身元を、神聖ルドヴィカも受け取り拒否しておってな。まぁ、煮るなり焼くなり好きにしていいからこっちに責任おっかぶせるな、ということだろう。元々面倒ごとの種とわかって受け入れたゆえ、あちらのその姿勢を呑んでやるつもりでいる」
なので陛下はバルシャおねえさんを尋問後、生かさず、かといって殺すこともせず「不衛生な地下牢で放置。ご飯は二日に一食ネ!」という待遇で、放置し続けたらしい。
「まぁ、そういうわけで……とりあえずここに、この紙に……この素晴らしい地雷女の特徴を書いて勉強しようじゃないか」
「あ、そうでしたね、そういえば」
「地雷女!?何の話……!?」
叫ぶバルシャおねえさんは、黒子さんによって口に猿轡を噛まされモゴモゴとした音しか出せなくなる。
「えぇっとまず……外見は、すごく清楚で清純そうで……家庭的そうな感じですよね」
「表向きはこの糞袋は魅力的な女でそれなりに人気もあったんだがな……元婚約者の話によれば、付き合ってみると依存度が強く、あれこれ口出ししてくるようになったらしい」
「成程成程」
頷きながら、私と陛下は紙に日本語で「地雷女の特徴」を書きだしていく。
「元婚約者もな、自分の人生と私生活が全て振り回されてこの女が望む通りに振る舞わなければならなかったと話している。つまり……そなたはあのイブラヒムを振り回せばいいのでは?」
「成程……そうですね……!イブラヒムさんに……仕事と私どっちが大切なの?!的なことを聞けばいいんですね……!」
確かにそういう女性は面倒くさそうだ!
イブラヒムさんも仕事というか賢者なご自分にプライドを持っていらっしゃるだろうし……第一、ポッと出の女より、アグドニグル、皇帝陛下への忠誠心の方が強いに決まっている。
「つまり私が、陛下に嫉妬するっていうのも、良いかもしれませんね」
「おぉ、それは良い手だな!糞袋もそなたや私に、身の程知らずにも妬みや嫉みを抱いておるしな!」
「婚約者だったクルトさん、なんかもう疲れたとか言ってましたもんね。一緒にいて疲れる女を目指します」
「確かあれこれと貢ぎ物も要求していたようだな。まぁ、小貴族の子息に、糞袋を満足させられる財力は皆無だったわけだが……イブラヒムの貯金に手を付けろ!一年分の国家予算くらいはため込んでるぞきっと!」
「いいんですか!?」
「良い!あとで私が臨時ボーナスで補てんする!」
「さすが陛下!かっこいいー!」
「ふはははは!そうだろう、そうだろう!!これでイブラヒムも女へのトラウマまっしぐらだな!」
わーい、と私たちはあれこれ名案が浮かんできて二人でキャッキャと作戦会議を続ける。
別にバルシャさん……ここに呼ばなくてもよかったんじゃないかとそんな風に思うが、これも、陛下の皇帝ムーブの一つなんだろう……。
バルシャおねえさんは、呪った私が元気で健やかで、そして、皇帝陛下の「お気に入り」になって、親し気にしている様子を見せつけられとても悔しそうだった。
*
「……どこか、おかしなところはないか」
「うーん、何度も確認したけど、いつも以上に身なりは整って良し、眼鏡に指紋もゴミの汚れの一つもないし……今の君の姿なら、陰険眼鏡って陰口を叩く奴はいないと思うよ」
つまり、普段は誰か言ってるのか、それ。と、普段のイブラヒムであればジロリ、と自分の隣を歩くスィヤヴシュを睨み付けたころだろう。だが、今日この場に挑むイブラヒムにはそんな余裕はない。
……昨日は、いや、実は、この予定が組まれた一週間前から、ロクに眠れなかった。
それでも前日は「寝不足で思考が定まらない中、あの麗しい方にお会いするなど言語道断」と、スィヤヴシュに依存性の低い睡眠薬を処方して貰い、強制的に睡眠をとった。
前日の昼間には、本日分の全ての仕事を終了させ、王室も御用達の商人がこの日の為に特急料金を支払って仕上げた衣裳を受け取り、鏡の前で何度も自分の姿を確認し、着つけを手伝ってくれたスィヤヴシュを苦笑いさせた。
「……私の体や息は……大丈夫でしょうか」
「え?」
隣を歩くスィヤヴシュは、イブラヒムが口を開くたびに肩を震わせている。笑うのを必死で耐えているのだ。爆笑したいが、イブラヒムは真剣なので、友としてそれを笑うのはよくない。
「……普段の食生活が、体臭や口臭に影響していると……先日本で読みました。私は男ですから、その、女性は良い匂いが……あの方は、とても良い匂いでしたが……私は、不快な臭いはしないでしょうか」
相手が五感から取り入れる情報が重要であることをイブラヒムは気にしているのだ。見た目は良く取り繕えているとイブラヒムも何とか自分を安心させられる程度には保てていて、話し方も、賢者として皇帝陛下の話し相手になる身であるので、相手を不快にさせない会話に不安はない。
であれば、生き物としての臭いはどうだろうかと、イブラヒムは行きついたらしい。
「……その、女性に魅力を感じさせる男というのは、女性を本能的に刺激するにおいをさせるそうですし……」
性的な魅力の香り、要はフェロモンのことである。
イブラヒムはそういったものは自分には出ていないだろうかと、淡い期待を抱いているらしい。
「う、うーん、うーん……!!そういうの、ジャフ・ジャハン殿下とかはありそうだけど、君は、ど、どうかなー!清潔感あふれる君は女性に不快感を与えなくていいと思うよ!」
無理だろ、とは一蹴にしない。スィヤヴシュは友には優しい男である。
「少し体も鍛えてみたんだが」
「……へ、へぇ」
学問の塔に閉じこもって、学術書より重い物を持ったことがなく、長距離は馬車か籠か、転移の魔法を使う男が……体を鍛える。
「街に売っていた本によれば……女性はあまり筋肉質に見えなさそうな男が、実は鍛えている、という意外性を好まれるそうです」
「へ、へぇ……そ、それは知らなかったなぁー……」
嘘だろ。
あの賢者イブラヒムが……街で売ってる……おそらくは、大衆向けの……娯楽雑誌を……読んだのか……。
発見されてから千年、世界で八人しか解読できなかったと言われている「黒の書」を最年少で解読した、多くの知識を持つ賢者イブラヒムが……恋愛指南書とか、読んだんだ!?
スィヤヴシュは思い返す。
……あのイブラヒムが。
例の騒動後、妙に態度がおかしく、ボケボケしていた友が……恋患いになんてかかっていたと気付いた時は、「うわ、なにそれ面白そー!」と思っていたけれど……。
(……こんなに、真剣なんだな……あの、君が)
自分以外は皆屑。皇帝陛下にだけ興味と関心を抱き、誰にも心を開かず他人を見下し続けて来たイブラヒムが……。一般人の恋愛経験談を必死に調べ、外見を気にし、他人に好かれようとしている……!!
「うっ……」
「?どうしました」
思わず涙で前が滲み、口元を押さえたスィヤヴシュを、イブラヒムは怪訝そうに見上げる。
「君の幸せを……!!祈っているよ!」
「……大げさなやつですね。そ、それに今日はただの……顔合わせです。今すぐどうこうなるわけじゃないんですから……」
「それでもやっと、念願の再会だろ!?夜会で出会って少しの時間で別れちゃった君の大切な……えーっと、名前は、なんだっけ?」
「……お名前を聞くことはできませんでしたよ」
「あ、そうだった。でも内心、君のことだから何か名前を付けてこっそり呼んでるんでしょ?」
「……」
これほど焦がれる相手なのだから、何か名前を付けているはずだ。
名前を付ければ形がはっきりする。思いを固めるにも必要なことで、イブラヒムがしてないわけがない。
「……」
「なんて呼んでるんだい?異国の姫君とか?」
「……安直ですね」
フン、と、スィヤヴシュの出した名にイブラヒムは馬鹿にするように笑った。
普段であればこ憎たらしい態度だが、今のスィヤヴシュはニッコニコである。
「えー、じゃあ何だい?」
「……まぁ、貴方には色々と協力して頂きましたからね。特別に……教えてあげてもいいでしょう」
「うんうん」
「……彼女は、とても美しい黄金の瞳をしていました」
うっとりと、思い出すように目を伏せるイブラヒム。
うんうん、とスィヤヴシュは頷く。
「ただの黄金、触れれば脆く形が変わってしまう金属とはわけが違う。その輝きは、まるで流れ落ちた英知が固まって、何千年も時を刻み込んだかのようでした。……ゆえに、私はあの美しい方を、琥珀の君と……そう、呼んでお慕いしているのです」
あれこれとイブラヒムは「琥珀の君」と呼ぶ理由を続けるが、スィヤヴシュはその辺のうんちくはもう興味がない。
ただニヤニヤと、イブラヒムの話を聞いて、今日のお見合いが成功することを心から祈った。




