*番外*イブラヒムの恋路【前編】
「どうも、イブラヒムのやつが恋をしているようでなぁ」
皇帝陛下のご厚意により、私の為の宮が建てられる事になったのは二か月。まだ工事は終わらず、相変わらず私は紫陽花宮でお世話になっていた。
千夜千食も開始され、翌朝には新聞がイラスト付きの皇帝陛下のご様子の記事を発表し、私名義で開かれた料理屋でそのお料理が食べられるようになる、というシステムがいい具合に回り始めた頃である。
今夜の献上品は「なんか甘い、腹にたまるものが食べたい」というご希望を昨日に頂いたのでマチルダさんにブリオッシュを焼いて頂いた。
フランスパンと異なり、水ではなく牛乳とそれにたっぷりのバターを用いて作るパン。パンの一種だと思うけれど、材料がケーキなどのお菓子と類似点が多く、パンとケーキの中間にいるような存在だ。
私から作り方のレクチャーを受けたマチルダさんは「なんて贅沢なパンなんだ!」と仰天されていたが、震える手で大量の砂糖を混ぜる様子はとても面白かった。
まぁ、それはさておき。
ただブリオッシュを献上するのでは能がない。
ので、私はブリオッシュを使った「ボストック」というおやつを作った。
作り方はいたってシンプル。1、砂糖と水をひと煮立ちさせてシロップを作る。2、バター、砂糖、卵黄、薄力粉、ナッツを粉砕したもの(アーモンドパウダー)を混ぜ合わせる。3、スライスしたブリオッシュの表面に粉砂糖をふって、焦げ目がつくまで高温の窯で焼く。
焼いたブリオッシュに1のシロップをたっぷりしみこませて、表面に2のバターを塗る。さらにアーモンドのスライスしたものをたくさん散らして、また高温の窯で焼く。大体15分くらい。
仕上げにラム酒を底に塗って、表面に粉砂糖を振りかければ中はしっとりふわふわ、表面はコーティングされてカリカリ甘々な、大変美味しいお菓子の完成である。
「……へ、へぇー……」
陛下がサクサクと三つ目のボストックを召し上がられる頃、ふと呟かれた言葉に私は顔を引き攣らせた。
例の騒動から半年……。
私は色々忙しくしていたので……イブラヒムさんに会うことがなかった。
「うん?信じておらぬな?まぁ、私も人から聞けば一笑に付しただろうが……どうも、あれの様子がなぁ」
「……と、おっしゃいますと」
「うむ。どうも上の空なのだ。基本的な執務は行うのだが……時折ぼーっとしており、そうかと思えば、何かを見て顔を赤くする。我が国の賢者は三人、普段競い合ってお互いを意識し合う関係なのだが、他二人から「あんな腑抜けじゃ張り合いがない」とクレームが入ってな……」
「は、はぁ……」
「メンタルケアというわけではないが、スィヤヴシュがそれとなく聞きだしたところによると……夜会で出会った娘に懸想したようでな」
んんんっ、と、私は飲んでいたハーブティーを吹き出しそうになる。
だが耐えた。
「へ、へぇー、それは、それは……」
「一目ぼれだそうで、どこの娘かとスィヤヴシュが聞くと、どうも、それがイブラヒムを悩ませている原因のようでな」
私は内心ドキドキとした。
……十中八九。まぁ、うん、間違いなく、イブラヒムさんの恋のお相手は、例の銀の髪に褐色の肌の異国の御令嬢だろう。
「イ、イブラヒムさんのお眼鏡にかなうなんて……いったいどこの方なんでしょうね!」
「うむ、それが春桃のところの侍女のようでな。イブラヒムはジャフ・ジャハンに近付くわけにはいかないのだ」
アグドニグルの宮中での権力のバランスがあると陛下は暗におっしゃる。
賢者三人に、太師や宰相、色んな人が宮中にはいらっしゃり、その誰が誰と親しくするのか、絶妙なバランスで成り立っているそうだ。
「……春桃妃様の……侍女?」
しかし私はそれより気になるのは、なぜ例の銀髪のご令嬢が春桃妃様のところの、なんて話になっているのかだ。
さらに聞いてみると、どうも、かなり……話は拗れているようだった。
まず、イブラヒムさん。
あの夜から例の銀髪の御令嬢がどこのどの方なのか、必死に探ったらしい。しかし探しても探しても見つからない。誰と来たのか、誰が招待状を出したのか、イブラヒムさんの持つ権力を全て使っても全く一切合切、何も判明しない。
(そりゃそうだ)
そこで手がかりは、あの宴にてカイ・ラシュ殿下が御令嬢と顔見知りらしかったこと、そして頭には春桃妃様の庭でしか育てられない珍しい花が飾られていたこと。
その花はカイ・ラシュ殿下の同伴者だったシュヘラザード姫、つまり私もその晩にカイ・ラシュ殿下から頂いていて、シュヘラザードの頭にあったことは私を認識している大勢が証言している。
「例の娘はどうも異国の、それもそなたと同じく砂の民の血を引いている者のようでな。イブラヒムの推測によれば、おそらく、春桃がそなたへの詫びにと同郷の娘を召し抱えてそなたの侍女にしようと、あの晩カイ・ラシュの手引きで引き合わせようとしていたのだろう。が、そこにあの騒動だ。そなたが知らぬのも無理はない」
「んんんんんんっーーーーーーー!!」
私は奥歯でガリガリとスライスアーモンドを噛み砕いた。甘くて美味しいー!
イブラヒムさんは、まぁ、そういうわけで例の御令嬢が春桃妃様の侍女、蒲公英宮で密かに匿われているとお考えになられたらしい。公式に春桃妃様から私に侍女を送っては問題だからだ。
私は春桃妃様に申し訳なくなった。
……ご迷惑を……おかけしている……ようで……本当に……。
権力バランス的な所で、イブラヒムさんが直接、第一皇子のお妃様に「あなたのところの侍女に会いたいのですが」などと申し込むことはないだろうが……それとなく、打診はされているだろうし、こんな感じで陛下のお耳に入っている以上……それとなく、春桃妃様の御耳にも、存在しない筈の侍女の存在が……問われている筈である。
ご懐妊され安静にしないといけないときに……!本当に申し訳ない!!
カイ・ラシュがうまくやってくれていればいいが……どちらにせよ、本当に申し訳ない。
「しかし……惹かれ合う男女が、宮中のしがらみの所為で会えぬのは不憫でな」
「惹かれ合うだんじょぉおお!?」
「はは、シェラ姫。そなたには少々早い話題だったか?」
私の反応が先ほどからアレなもので、陛下が微笑まれる。げふげふと咳したり、狼狽えているのは何も色恋沙汰が恥ずかしく不慣れなお年頃だから、というわけじゃないんですよ。
「いえ、あの、そういうわけじゃ……いえ、でも、あの……え?惹かれ合う男女????」
このまま春桃妃様や蒲公英宮には無言を貫いて頂いて事態が風化してくれるのが一番良い結末だと思うが、そうはならない気配を察して私は顔を引き攣らせる。
「うむ、どうもな。イブラヒムの話を聞くと……その娘の方もイブラヒムの事を好いてくれているようでな」
「え……それ、イブラヒムさんの勘違いじゃ……」
「はは、幼いそなたには男女の機微はわからぬだろうが、聞いた感じ、良い雰囲気だったそうだ。多少なりとも好意を持っていることは間違いなさそうだぞ」
ダンスを踊りながらした会話や、その時の御令嬢の表情、微笑みや自分に向けられる眼差しを……イブラヒムさんは何度も何度も思い返して、ぼうっとされているそうだ。
……ここで、はい。
どうしてそうなったのか、致命的な、認識の違いがあります。
イブラヒムさんは賢者。
賢者の優れた記憶力と洞察力を、賢者としてイブラヒムさんを認識している陛下やスィヤヴシュさんたちは疑わない。それどころかその証言は100%、事実であり真実であると、そう肯定的に判じられる。
恋に盲目になった賢者だという判断は「イブラヒムに限ってそれはないだろう」と、そういうフィルターがかかる!!!!!!
大惨事じゃねぇか!!!!!!
「まぁ、確かに、春桃の侍女を賢者イブラヒムの妻にするのは、少々都合も悪いものだ。立場を弁えている春桃が頑なに「そんな侍女はおりません」と存在を否定するのも無理からぬこと。だが、あのイブラヒムが研究を忘れる程熱を上げる娘など、そうそう現れるものでもあるまい。あの子にはこれまで苦労をさせてきた、幸せになれる道があるのなら、叶えてやりたくてなぁ……」
ぼそり、とおっしゃる陛下の瞳は慈愛に満ちていらっしゃる。
「それで、そなたに一つ頼みがあるのだが」
「は、はいぃいい!?」
「思い悩むイブラヒムの食が細くなっておる。プリンはあれの気に入りであるし、どうだろうか。私の名で春桃の元から例の侍女を呼び寄せるゆえ、設けた一席にて二人に特別なプリンを振る舞ってくれないか?」
宮中のしがらみや権力闘争のあれこれは、全て皇帝陛下が引き受けるという、格別のご配慮。そこまでなさる。異例中の異例の扱いを、イブラヒムさんのためになさるという皇帝陛下……は、大変、素晴らしいご判断でいらっしゃいますね……ッ!!
その相手が、銀色の髪の褐色の肌の御令嬢、つまり、私じゃなければなッ!!!!
「ぐぬぅっ!」
「イブラヒムは常日頃から、そなたにあまり好意的な態度ではないが……これを機にそなたへの態度も良くなろう。そなたにとっても悪い話ではないと思う」
ぐぅっ、陛下……!さりげなく、私へのご配慮もされたご決断なんですねッ!
善意が痛いッ!!
くっ……ッ!
貫き通せるかこの嘘を!!?
私は一瞬考えてしまった。
もうここまで来たら、カイ・ラシュとメリッサだけを共犯者として、貫き通せるか……!!
どこまで!?
ウェディングまでになるだろ!!!!!!!
「無理ですぅううぅっ!!嫌ですっ!!!!」
なんとか婚約破棄されるよう持っていければいいが、こんなに皇帝陛下が乗り気でバックアップされると宣言されているのだ。
あれよあれよと結婚式まで待ったなしルートに突入する未来しか見えない!!
わぁああああ、と私は泣きだして陛下の御膝に縋りついた。
「無理です!嫌です!!陛下ぁあああ!!」
「そ、そんなにイブラヒムが嫌いなのか!?そこまで確執が深かったのか!?私が鞭を打たせた所為か!?」
そういえばそんなこともありましたね。
けれど問題はそこじゃない。
「……シェラ姫がここまで嫌がるとは……」
いえ、陰険眼鏡だとは思っていますが、イブラヒムさんのことは基本的には嫌いじゃないです。もし本当に、イブラヒムさんと相思相愛になれる良い感じのお嬢さんがいらっしゃるのなら、私だって全力で応援したい。
だけれどその花嫁は誰ー?!!イッツミー!!
無理に決まってんだろ!!
「うーむ、まぁ、シェラを巻き込まずとも良いか……」
「その例の御令嬢私なんです」
「まぁ、顔合わせの見合い形式の場ならどうとでもなる。別にプリンがなくとも……………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………は?」
一人で抱え込むとロクなことがない。
ここはもう、自白してしまうのが一番だ。
今より悪い展開になる、なんてことはないだろう。
私が神妙に頭を下げて告げた言葉に、皇帝陛下は停止した。
「…………なんて?」
「私がメリッサの奇跡で大人になった姿でイブラヒムさんとダンス踊りました」
「……」
「……」
「……××××」
片手で顔を覆い天井を見上げた陛下の口からは、アグドニグルのスラングが漏れた。
いや、もう本当に……申し訳ない。
「……どうしよう」
「……どうしましょうね……」
長い沈黙の後に、皇帝陛下がぽつりと呟かれる。私は気まずげに顔を逸らした。
「……イブラヒムに……例の娘と絶対に会わせてやるよ!と……大見栄切ってしまったんだが」
「誠にもって申し訳ないです」
「……クシャナ・アニス・ジャニスの名で……誓ってしまったんだが」
「誠にもって申し訳ないです」
皇帝の御名の重さは、私にだって想像はできる。
もう只管謝るしかない。陛下も私を責めるわけではなく、ただ茫然とされている。
「……普通、推測できないだろ……あの駄女神……余計なことを……」
「誠にもって申し訳ないです……」
「私の名で誓ってしまった以上……反故にはできぬ」
陛下はやおら、ぐいっと、決意されるように顔を上げた。
「……はい?」
「見合いは決行だ!あの駄女神を引きずり込んでそなたを着飾らせれば、私は約束を破ったことにはならないね!!」
「陛下!?ご自身の保身のためにそんなことしますぅうぅう!!?」
黒子さんたちがすかさず、立ち上がった陛下の背後に紙吹雪を散らせる。ヤッタネ陛下!ナイスアイディア!とでもいうような背景効果だが、全く持ってナイスアイディアではない!!
叫ぶ私の両肩を、陛下がぐっと、掴んだ。
「イブラヒムの恋路のためだ。シュヘラザード、そなた、地雷女になってくれ」
(要約:見合いは決行するが、イブラヒムが愛想をつかすように振られて来い)
突然投げられるミッションインポッシブル。
「この件で理解した。あいつ……女運が壊滅的なのだろう……金輪際、女にうつつを抜かせぬよう……徹底的に地雷女になって来い。あいつの一生はこの国でみてやるゆえ……研究に励めるよう、とことん、あいつに女のトラウマを植え付けて来い!」
「そこまでしないと駄目なんですか!?」
「賢者の執着心舐めるなよ!!これまでどれほどの女があいつにアプローチしたか!奇跡的に芽生えた恋心なんだぞ!?土壌に塩を撒いて永遠に何も実らない不毛の地にしない限りイブラヒムは諦めないぞ!?」
万が一、私の正体がバレた場合、イブラヒムさんが他国に行ってしまう可能性が「マシ」な未来で、最悪「現実を受け入れられず自死する」かもしれないと、陛下は真面目なお顔でおっしゃる。
お、大事になった……。
「で、でも……地雷女になるなんて……ど、どうすれば……」
前世でも今生でもまともに男女のお付き合いなどしたことがない。
狼狽える私に、陛下は深く頷いた。
「案ずるな。良い手本をすぐに連れて来させよう」
「お手本」
「丁度いいのがいるだろう」
私も知っているような口ぶり。首を傾げる私に、陛下はその人の名を口にした。
「誰ぞバルシャをここへ」
現在牢に監禁中、元聖女のバルシャおねえさん。
いや、怒るぞ、地雷女って言われたら。
別作品ですが、8月10日に「出ていけ、と言われたので出ていきます」の2巻が発売されます。
この作品との関係はないですが、作中に出てくる小物小悪党苦労人サフィールさんはイブラヒムさんのモデルなので、良かったら見て見てください。




