13、星辰
茶室を調理場に出来ないかと、私の提案を不思議なおじいさんは面白そうに受け入れてくれて、私の両手を取った。
「この泥の中で呑み込まれない精神力があれば、貴方にも自分でこうした場所を作り出すことができるはずですが、今回はお手伝いしましょう」
皺があるのに、妙にがっちりとした手のおじいさん。指の一本一本が太くて、アグドニグルの武人さんだったのかもしれない。握られた手の力は痛くはないけれど強い。
「それではお嬢さん、目を閉じて。今この茶室にあるものを、どうすれば貴方にとって都合の良い空間に出来るか考えなさい。広さはこのままで、まだ空間を広げるのは難しいでしょう」
「えぇっと、そうですね。まずは水回りが。私の腰の高さにあった流し台に……ちゃんとお湯と水が出る水道……あ、調理台は広めで、コンロは三口ないと困ります。火力は強めの設定で、出来ればプロパンガス……」
「……そういうことではないのですが、まぁ、いいでしょう」
ぐるぐると私は考える。
マチルダさんや他の人に調理を代わって貰えるのではないのなら、私が使える調理場。あれこれと想像するのは前世の記憶。働いていた食堂、ではなくて、その前の……いや、まぁ、それは今はいいとして。
大きな冷蔵庫。
コンベクションオーブン。
食洗器……は、今はいいか。
あれこれと考えて、ぐるぐるぐるぐると、世界が回る。
便利。便利。素敵な調理場。
「おやおや、これはこれは……私の雅な茶室が、銀の……これは鉄ですか?それにしては、美しい」
「ステンレスです。いやぁー、実際見積もりリフォームとったらいくらになるんだろー!わぁー!わぁー!」
ぱちりと目を開けると、そこに出来ていたのは私の想像通りのシステムキッチン。広さはそこそこだがちょこまか歩き回るのが幼女の私なので無問題。
カウンターキッチンになっており、カウンターにはきちんと椅子が二脚ついている。
「さて、おじいさん。何か食べたいものはありますか?!」
私は真っ白いコックコートに袖を通し、キャップに髪を押し込んだ。その様子をにこにこと眺めていたおじいさんは、ここが自分の定位置だろうとカウンター前の椅子に腰かけて、テーブルに両肘をつく。
「中々に面白い形の部屋ですね。目の前で調理をされるのですか。これはこれは、実に興味深い。昨今のお店はこうしたものが主流なのでしょうか」
「ローアンのことはわかりませんが、ある国ではこういう形の、オープンキッチンはそれほど珍しくはありませんよ!」
「なるほど、時代の変化ですかねぇ」
五十年も停滞していると眩しいものだと、おじいさんはのんびり言う。
お品書きなどあればいいのだが、そこは再現できなかったし、できたとしても日本語だろうからおじいさんは読めない。
私はおじいさんの食べたいものは何かないかと聞いてみて、おじいさんは少し考えるように首を傾げた。
「……そうですね。私はあまり、食に拘りはなく、物心ついてから戦場で剣を振るっておりましたが……とある方に「美味い物だ」と教えて頂いた品があります」
「へぇ。どんな料理なんです?」
「……今のアグドニグルはきっと豊かなのでしょうが、五十年前はそれは小さな国で、国中が貧しく飢えておりました」
今の栄えたローアンからは想像もできない。
「……当時のアグドニグルでは、その方のおっしゃる料理はあまりに贅沢で、私などが気軽に口に出来るものではありませんでした。その方はいつか、一緒に食べようと言ってくださっていましたが……」
結局ついぞ、食べる機会はなかったが、何か食べたいと、五十年ぶりに思うのならその品だとおじいさんはぽつり、と話してくれた。
成程……きっと、さぞかしなんかこう、オシャレだったり、高価だったり、手の込んだお料理なんだろうなぁ……。
戦場で生きていたおじいさんがついぞ食べられなかった料理だ。私はうんうん、と頷いた。
「その方も詳しい作り方は存じ上げないようでした。けれど、野菜や獣の肉や骨を何時間も煮込み、それらは全て使わずに捨ててしまうそうです。そしてそれに更に、豆で作った調味料を入れて味を濃くして、麺や野菜、茹でた卵や肉を載せて食べるそうですよ」
……。
……なるほど?
「うん、ラーメンですね、それ」
この世界にラーメンがあったのかと驚きだが、餃子のあったアグドニグルなのだからラーメンもあるだろう。多分。それにしてはローアンでは見かけなかったが、まぁ、あるんだろう。
「辛い仕事を終えた後や、お酒を沢山飲んだ後に食べるものだと、その方は仰っていましたねぇ」
「ラーメンですよ、それ絶対」
「作れますか?」
「えぇ、まぁ。時間はかかりますけど」
「構いませんよ、時間ならたくさんある」
「ですよねぇ」
よっこらせ、と私はごそごそと素敵な厨房を漁り始める。
おじいさんの精神がメインとなっていた茶室はおじいさんの精神力の限界がくると崩壊してしまうらしいが、ここはまた別、私の精神がメインになった空間だそうだ。
そしてここには、私が必要だと想像した物は都合の良い事に用意される。段ボールの中には玉ねぎやニンジン、葱、ニンニクなどといったお野菜。業務用冷蔵庫を開ければ鶏肉や豚肉、新鮮な卵やなんと味噌・醤油などといった調味料まで入っている。
頭の中にあれこれと浮かんでくるのはラーメンスープの作り方のノウハウだ。
……前世の日本人で、食堂の手伝いをしていた私にラーメンを作った経験はない。
ないのに浮かんでくる。読んだ覚えがあるのかどうか、と思い出せば、まぁ、ある。
……けれどそれは寝る前の暇つぶしにと少し、ネットサーフィンをして記事を読んだり、お料理ユーチュー○ーさんの「自宅で簡単本格ラーメン」的な動画を観たりした程度のもの。
それがありありと、はっきりと、それこそ分量までしっかりと、思い出すことが出来る不思議。
(多分、これが私の祝福なんだろうなぁ)
小説や漫画だとこういう能力にはすぐに名前がついてくれてわかりやすいのだが、実際例えば熱を出した時だって、風邪なのか肺炎なのかそれとも他の病気からの熱発なのか、理由と病名を罹患者が即座に把握するのはほぼ不可能。
自分の体や状態の変化はわかるが、それが何かはわからない。わからないけど、対処できる範囲でしないとならないものだ。
「ラーメンとはどんな食べ物なのです?」
「うーん、麺料理ですよ。スープも麺も、トッピング……具材も色んな種類があるんです。この料理が盛んな場所だと、そのお店ごとに特徴があって……」
チャーシューメガ盛りを売りにしたものとか、いわゆる家系ラーメンとか……。
「派閥や流派がある、武道のようなものですか」
「そうですね。なんでもそうだと思いますけど」
「成程成程」
「ただ、これは個人的な考えなんですけど……ラーメン以外にも世の中には美味しい料理が沢山あって、例えば厳しい戦場で、あぁ食べたいなぁって思い出すのには、ちょっとこってりし過ぎっていうか、ラーメンじゃなくてもいいと思うんですけど」
よいっしょっと、私は野菜を切って鍋に放り込み、仕込みを続ける。
「おじいさんに「美味しい物だ」って言ったのなら、多分、ラーメンが美味しい物ってだけの意味じゃないと思うんですよね」
ラーメンがあるのなら、北京ダックやその他中華の美味しいお料理の数々がこの世界にもあるのだろう。その中であえてラーメンであった理由を、私は作業の片手間に考える。
「ラーメンって、まぁ、私のイメージなんですけど、基本的に一人で食べて一人で完結していい料理なんですよ。ただ、何でしょうね。仲間。友達。そういう、気心が知れて、何か分かち合いたくて、笑って、並んで一緒に食べたい時?に?「ラーメン食いに行こうぜ」って誘うような」
独断と偏見で申し訳ないが、そんなイメージがある。
おじいさんが戦場で話したというその人。ラーメンがお好きだったのなら、おじいさんを誘ったのは、戦友とラーメンをと、良い意味で、ただ美味しいものを語っただけではない以上の意味があるのではないだろうか。
まぁ、わからないけど。
「……」
私の話をおじいさんは黙って聞いていた。時々目を細めるけれど、もともとニコニコ糸目なので笑っているのかそうじゃないのか微妙なところだ。
「お嬢さんは、」
「はい?」
「ここから出たいですか」
「出たいですね」
とても便利で素敵な調理空間が思いのままだけれど、別にここにずっといたいとは思わない。
率直に答えると、おじいさんが微笑んだ。
「では出して差し上げましょう」
……。
うん?
「出れないって言ってませんでした?」
「貴方一人では出られないし、私が自分自身を出すことは出来ません」
しれっとおっしゃるおじいさん。
何がどうして、急に協力的になってくださったのかわからないが、私は沸騰する大鍋に視線をやった。
「まだ仕込みが終わってないんで、今はちょっと……」
「貴方がそのラーメンというものを作れるのであれば、それは現実で、殿下のために作って差し上げてください」
ぐいぐいと、おじいさんは言うが早く、私の腕を掴んで歩き出した。
安全な空間から扉を使って出てしまい、また暗く重い嫌な空間になる。
その中をしっかりとした足取りでおじいさんは歩き続ける。不安になる私を振り返らない。
「私はこの中から出ることは叶いません。自分で望んだ事で、ここに私が淀み続ける事に意味もある。ですが、忘れられてしまったのだろうと思うと、どうにも切なくなる事もありました」
「?」
「これは貴方の為ではなく、私の為ですよ、お嬢さん。作り方を心得ていらっしゃるご様子、では、間違いなく、無事に、問題なく、恙無く、どうか殿下にラーメンとやらを作って差し上げてくださいね」
その瞬間、ずどん、と、私の中にぐるぐると蠢いていた……バルシャさんから押し付けられた「憎悪」やら何やらの、重く苦しい感情が一気になくなった。
「お、じい、さん……!」
身代わりにされた私の、更に身代わりになろうとしている……!
私に擦り付けられた負の感情を、おじいさんが代わりに受け取った。体が軽くなり、この空間にいることが「相応しくない」と、そう拒絶され私の体が徐々に、薄く消えていく。
「何、普段していることの、少し負荷が増えるだけのこと。お気になさらず」
「気にしますがー!?とっても、だって、え、なんで!?」
「貴方からは懐かしい気配がする。きっと、私の殿下と同じものでしょう。異境のお嬢さん」
ごきげんよう、と、おじいさんが杖を振った。
私の視界は明るくなって、眩しくて、目があけていられないほどになって……。
「お、落ちるーーーーー!!いやーーー!!」
気が付いたら、何か、空!
夜空!
輝くお月様に、スター!!
落下していく私!幼女!
下にはローアンが誇る朱金城!!
なんで!?
屋根に叩きつけられるか屋根の飾りに串刺しになるかどっちかかなー!!
「いやぁああーーー!!助けてー!助けてー!」
落下しながら叫ぶ余裕はある。
「わたあめ!わたあめ!!助けてわたあめ!!」
「キャワワン!」
ぽんっ、と、私の叫びに答えて雪の魔獣ことわたあめが虚空から出現してくれた。
「きゃわん!キャ……クーン!!」
しかし落下する私を虚空に浮かんだまま、茫然と眺めることしかできないわたあめ!小さいもんね!慌てて服の端を咥えてくれるが、びりっと破けるだけである!わたあめー!!
「スコルハティ様呼んで!スコルハティ様!!」
大きさ的にわたあめじゃ無理だよね!
私が必死にお願いすると、わたあめも凛々しい顔で頷いてくれるが、そうしている間にもお城の屋根との距離が短くなっていく。
ぐしゃりと潰れるのだろうか。
それとも部分的にバラバラになるのだろうか。落下死したことはエレンディラの時もないからわからないけれど、ぎゅっと目を閉じて衝撃を覚悟する私と、せめてクッションになろうと下に潜り込んでくれたわたあめは、けれど、潰れることはなかった。
「君は……こういう場合、私に助けを求めるべきではないだろうか」
一気に下がる気温。
肌を刺すような冷気と、それとは反対に柔らかく穏やかな声が私を包み込む。
「ヤ、ヤシュバルさまー!!」
「キャワワワーン!」
ぶわっ、と、私とわたあめは落下の恐怖を今更ながらに実感し大泣きしながらヤシュバルさまに抱き着いた。
怖かったー!
滅茶苦茶怖かったー!!
泥の拷問とか痛みのあれこれよりこっちの方がずっと怖かったー!
「……一先ず、無事で何よりだ」
「ありがとうございますーーーー!!!!うわー!!うわー!!死ぬかと思いましたー!!!!!!!!うわー!!!」
「キャワワーンワンワンワン!!!!ワンーーー!!」
眉間に皺を寄せながら、私とわたあめをしっかりと抱き留めてくださるヤシュバルさまにわたしとわたあめは必死にお礼を言った。




