12、黒点
「あの手この手で、あれこれと……熱心ですね?」
泥に沈められてどんどん、私の意識はしっかりしていた。痛みやら何やらが酷かったのは少し前に終わっていて「痛みじゃ無理だな」という判断がされてから、とりあえず有効的なものが見つかるまで只管世の中の理不尽さや悲劇が頭の中に強制的に浮かべられる。
たとえば戦争で罪もない人間が殺されたり。生まれが貧しいばかりに死んでしまったり。他人と自分が違うことがどういう「差」を生むのかと、ありとあらゆる、そんな、世の不幸のオンパレード。
「ただ、これもその……あんまり効果はないと思いますよ。なんと言いますか……テレビ、映画とか観てる感覚になるので……」
平和ボケした日本の令和世代の意識がしっかり、私の精神をガードしてしまう。
「私を絶望させたり、憎ませたい熱意はよく……わかるんですけどねぇ。なんだか、申し訳ない」
泥の無駄。いや、時間の無駄?
「よいっしょっと」
いつまでもお付き合いしていては、どんどん時間が経ってしまう。今どの程度経っているのかわからないが、さて、と私は泥の中で体を動かしてペシペシ、と、体についた泥を払い落とす。
え、なんでうごけるの。
などと、困惑した声が聞こえるような気もするが、気のせいだろう。
「この空間が何なのかわかりませんが、まぁ、何とかなるでしょう」
「何とかなると思う根拠はなんでしょうねぇ」
「うわっ、びっくりした」
突然私の隣に、白髪のおじいさんが立っていた。
皺のある顔に、杖をついている。腰は曲がっていないし、どちらかといえばがっちりとした体付きのおじいさん。
「ごきげんよう。レンツェのお嬢さん」
「ご、ごきげん、よう」
私のことを知っているのだろうか。
「いえ、なに。失礼かと思いましたが、少し先ほどの泥の記録を観ました。お若いのに随分とご苦労をなさっているのですね」
「いえいえ、それほどでも」
このおじいさん、どなたなのだろうか。
「この泥の先住民、とでも言いましょうか。五十年程ここでこうしております」
「ごじゅっ」
「さて、ここで立ち話もなんでしょう」
ひょいっと、おじいさんが杖を振るとキラキラと杖の先が光った。
すると場所が変わって、小さな部屋。
アグドニグルのお城の、茶室に似ている。
「お茶でも如何です?」
「あ、はい。ありがとうございます。頂きます」
言われるままに、勧められるままに私はおじいさんの向かいに腰かけて、お茶をご馳走になる。
お茶っ葉とかどうしているのだろうかと疑問。
「想像。記憶から取り出しているのですよ。実物ではありません。まぁ、今の私たちも実体というわけではありませんから、宜しいでしょう」
「は、はぁ」
のんびりとしたおじいさん。
出されたお茶は、紫陽花宮でも良くシーランが出してくれたお茶と同じ味だった。
「あの、おじいさん。ここは何なんでしょうか?」
「レンツェのお嬢さん。おわかりになられていることを聞くのであれば、そのように聞きなさい」
「……私の最後の記憶は、聖女のバルシャさんが私に何か言ったところまで。何かを押し付けられた感覚がありました。荷物を急に、手渡された感じ。体が一気に重くなって、頭が真っ白になるような」
あの感覚は覚えがある。
エレンディラとしても、前世の日本人の頃でも。
自分がやってもいない罪を着せられて被せられて「お前がやったんだ」と決めつけられどうしようもなくなった時に感じた、体の重さと、何も考えられなくなるほどの、ショック。
「……でも、そんなことが?」
「可能であったので、貴方は今ここにいるのでしょうね。お嬢さん」
「……イブラヒムさんは、聖女は黒化しやすいと言っていました。あの会場で、あの場所で、バルシャさんが最も深く傷付いて苦しんでいて、絶望していた。それを私に押し付けた、ということですか?」
「私はその場におりません。が、あなたの記憶と今の言葉振りから察するに「はい」と肯定するのは容易い」
「あのバルシャさんがどうしてそんなことを……」
「自分以外の者の心の内など、理解しきれぬものですよ」
のほほん、とおじいさんはお茶を飲みながらのんびり言う。
この不思議な場所に五十年いるという言葉が本当なら、このおじいさん、老紳士も私のように何も憎まず恨まず妬まずに、この空間に耐えているということだろうか。
私が言うのもなんだけど、それ人として大丈夫かと思う。
「耐えることは容易いのですよ」
ぽつり、とおじいさんが呟いた。
「あの、おじいさん。ここから出る方法は……」
「あればとうに出ていますよ」
「で、ですよねぇ~」
困ります~と、私は頭を抱える。
「この部屋もそれほど長くは持ちません。つい見知った気配がしたもので、貴方の閉じ込められた空間まで無理に出てきてしまいましたが、本来私が淀んでいる場所と、貴方が閉じ込められているこの空間は別にあるのですよ」
ただ似通っているので繋ぐことは出来たとおじさん。伊達に五十年もこんな感じの空間にいらっしゃらない。
「うーん……うーん、でも、まぁ。私が自力で出られなかったら……ヤシュバルさまが助けに来てくれると思います」
「ほう?」
「私のお婿さんになる人なんです」
五十年ここにいるおじいさんはアグドニグルの王族のことは当然知らないだろう。
私は自分がレンツェの王族であること、色々あってヤシュバルさまと婚約したことなど話した。おじいさんは面白そうに目を細めて聞いてくれる。
「お嬢さんはその方が好きなのですか?」
「好きになって良い方だと思っています」
「成程」
ゆっくりとおじいさんが頷いた。
「それはとても、素敵なことですね」
そう言えばおじいさんはアグドニグルの人なんだろうか。名前も聞いていない。聞こうとするが、私が考えていることをあれこれと先に答えてくれるおじいさんが何も言わずにこにことしているので、きっと答えてくれないのだろうと思った。
「皇女殿下はお元気ですか」
「皇女」
アグドニグルの王族に皇女はいただろうか。
六人の皇子殿下がいらっしゃることは知ってる。カイ・ラシュのように皇子殿下のご息女を皇女ともさすだろうけれど、五十年ここにいるというおじいさんが知っているものか……?
……陛下だったりして。
即位される前はクシャナ陛下も「皇女」という御身分のはず……なんだか「皇帝陛下」という御身分が似合い過ぎて皇女時代が想像もつかないけど。でもさすがに陛下も五十年前は生まれてないだろう。とすると、陛下の前の世代の王族だ。
「私はあんまり、王族の方と知り合いじゃなくて……すいません」
謝るとおじいさんは微笑んだ。にこにこと穏やかな方だ。
こういう人がどうして、憎悪やら憎しみに塗れた泥の中にいるんだろう。私と同じように押し付けられたのかな。
「……助けてくださったお礼を、何かしたいのですが」
ふと、私は思いつく。
このおじいさんは恩人だ。あの空間にずっといたら、さすがに私もおかしくなったかもしれない。こうして明るい部屋に連れて来てくれて、暖かいお茶をご馳走になって私の心はかなり落ち着いた。
落ち着いてみると、自分が少なからず動揺していたと自覚できるものだ。
「お礼?」
「具体的にはレッツクッキングを少々」
この茶室、厨房に出来ます?と私はお伺いを立てた。
暑いですね。熱中症にお気を付けください。こまめな水分補給が貴方の命を救う……!
……真面目な話を書きたくなくて始めた千夜千食物語なのにシリアスパートに入っていてストレスフルです。早くイブラヒム様のデート回とかぶっこみたいです。




