9、黒化
少しだけ、自分の前世のことを思い出しながら、私は縋りつくバルシャさんから一歩離れた。
優しいお顔、お声、振る舞いの素敵な女性。エレンディラのような小さな子が、恵まれなかった子が望んで仕方ない素敵な大人の女性の姿。憧れて「こんな風になりたい」と思って、少しでも気に入られたいと焦がれてなんでも差し出してしまって、頭を撫でて抱きしめてくれやしないかとはにかんでしまうような、女性。
それが一変して、私の拒絶の言葉を受けた「やさしいおねえさん」は、ぴくりと目元を揺らし、私を睨み付けた。
自分の好意・善意・申し出が受け入れられなかった時に「恥をかかされた」と人が起こす反応。
「どうして?私、優しくしてあげたじゃない?あなたのような子に、優しくしてあげたのに、どうして私のお願いを聞いてくれないの?」
「他人のお願いを聞くのが嫌なわけじゃありませんが、他人のお願いのために自分が不幸になるのはちょっと」
「不幸?エレちゃん、どうしてそんな風に思うのかしら……ひどいわ。私はあなたのために提案してあげているのに」
聖女を代わって、私が神殿に入ることの何が不幸なのか。いっそその発言はレグラディカ様や神官様たちに失礼ではないかと、バルシャさんは詰る。
言い方がうまい~。
心の中で拍手をしてしまう。優しくてふわふわしていた砂糖菓子のようなおねえさん。どちらかといえば、こちらの自分の言葉で相手を雁字搦めにして動けなくして、手ずからゆっくり給餌をするような魔性じみた感じの方が、人間らしいと思える。
でもそれは、私がその毒の対象になっていない場合ですね!
というかこの人、実はヤシュバルさまのこと好きだったりしないか??
あれこれと色々あったけれど、最終的な目的は「クルトに浮気されて婚約破棄された可哀想な私でしたが、強国の皇子様のお妃様になりました♡」なオチを目指しているような、そんなザラついた欲望を感じましたね!
それの踏み台にされた感。イッツミー。
覚えがあります。覚えがあります。前世のこと。
18歳のまだ世間的には未成年だった前世の私が、なんだって親元を離れて親戚の家にお世話になって、進学も就職もせず「食堂のお手伝い」をしていたのか。思い出します。覚えがありますねー。
サンドバッグ。
ドアマット。
もぎもぎフルーツの樹。
まぁ、今はそれはどうでもいいとして。
私はきょろきょろと辺りを見渡した。
見れば、婚約者だったクルトさんとその浮気女性は兵士さんたちに手当や事情聴取をされていて、私とバルシャさんが今のところ遠巻きにされているのは「興奮状態の聖女様を、子供の純粋な心で落ち着かせて貰おう」と、そういう打算らしかった。
聖女様はアグドニグルの法的にどういう位置にいるのかはわからないが、神聖ルドヴィカという外の勢力の代表者である以上、簡単にお裁きを、というのは難しいのかもしれない。(そういえば、それで面倒で、ヤシュバルさまはもう三人とも処刑で、と思われたのか)
私は私を睨み付けるバルシャさんの手を握り、微笑んだ。
「バルシャおねえさんのことは大好きですよ!力になりたいと思っています」
「なら、」
「でも、レンツェはわたしが貰うものですし、ヤシュバルさまが心配してくれるのはわたしなので、おねえさんにはあげられないですね!」
相手が自分の持っているものを欲しいと言ってきても、NOと言えるジャパニーズ、だったらよかったんですけどね。前世。
そんなことを思いながら、私はバルシャさんの反応を待つ。
怒るから。怒られても大丈夫。
けれど、バルシャさんの反応は予想とは大きく違った。
「……はぁ、そう。そうなの。はぁ…………もういいわ」
あれ?
案外あっけなく、諦めますね?
おや、と私はてっきり怒り狂われたり殴られたりするくらいは覚悟していたけれど、バルシャさんは冷静だった。ため息をつき、やれやれと首を揺らして、そして。
げほっ、と、私は黒い泥を吐いた。
*
「きゃぁあああ!」
バルシャの悲鳴が響く。
ヤシュバルは素早く、シュヘラザード、自身の養い子の元へ駆け、バルシャが叫びながら突き飛ばした存在を抱き留めた。
「シュヘラ……!」
「皇子殿下っ、危険です!その子……黒化しています!!」
聖女の叫び声は、ヤシュバルの耳に届くだけでは済まなかった。
前代未聞の聖女とその婚約者の醜聞。選りに選って皇帝陛下の戦勝会にて引き起こすなど。誰の首を面前に差し出せば許されるのかと誰もが嵐を恐れる夜のように沈黙していた中、聖女の言葉はよく響いた。
「……シュヘラ?」
「げほっ……っ」
ごほごほと、幼い少女は顔色を土色にして、泥を吐き続ける。手足は石のように硬く、黒く変色していった。
黒化、と呼ばれる。祝福者の末期症状だ。
素早く会場の参加者たちが、警備兵たちの誘導を受けてその場から離れる。
シュヘラの吐いた毒は当人以外の触れたものを溶かし、ずぶずぶとそこからまた、泥が増えていく。
「……何故」
「今はそれどころではありません!殿下、お下がりください!その子はもう……」
ぐいっと、バルシャがヤシュバルの腕を掴んだ。
「私に気安く触れるな」
「ひっ!?」
ピシリ、と、バルシャの手が凍り付いた。表面を凍らせただけで、すぐに溶かせば軽度の凍傷程度で済むものだ。騒ぐようなものでもないが、バルシャは喚く。聖女であるこの自分を、アグドニグルの皇子が害していいのかと、どう責任を取るのだと、そんなことを叫んでいるが、ヤシュバルは気にしなかった。
魔力を込めた手でシュヘラの顔に触れる。泥の影響は同じ祝福者であればそれほど脅威にはならない。
「……」
「どうする?殺すか」
「陛下」
「皇帝陛下!」
ひょいっと、顔をのぞかせたのはこの場で最も早く避難されるべき存在。しかし、こういう方だから皇帝で、アグドニグルの頂点でい続けるのだとヤシュバルは今更驚かない。
赤い髪を優雅に靡かせながら、皇帝クシャナは胡乱な目を喚くバルシャに向けて、ぐいっと、顎で兵に指示を出す。
「ちょ、何、何をするのよ……!離しなさい、無礼者……!」
「無礼は貴様だ小娘。利用価値があるから多少のお転婆は許してやっていたが……人の地雷の上でタップダンスを踊りおって……」
「タップ……?」
「うん、何でもない。連れて行け」
皇帝が命じると、聖女だろうがなんだろうが容赦なく、バルシャはずるずると兵たちに連れていかれた。
「苦しいか、シェラ姫」
残った皇帝はヤシュバルの腕の中で泥を吐き続けている少女に触れ、目を細める。
「この場で黒化するのは、あの聖女の予定であったのだがなぁ。賞味期限間近の女の末路。神殿を貰うのに丁度いい頃だったんだが……あの小娘、こんなことも出来るのか。うーん、ルドヴィカ舐めてたわー」
祝福者の黒化。
能力の暴走、最終的には爆発して周囲に甚大な被害を齎す……と、いうのが一般的な「祝福者の末路」であるが、実際にはもう少し違う。
周囲に、魔毒の泥を吐き散らして、そこから魔族の領地と浸食していく。
黒化した祝福者が門で、芽で、核となり、北の地に封じられた魔神をその場に召喚出来てしまう、言うなれば依代となる。
なので、国としては黒化した祝福者は同じ祝福者により須らく消滅させ「全魔力を爆発させての消滅した」と、そのように。
「どうしたものかな。いや、私の答えは決まり切っているが、さて、ヤシュバル。どうしたものか」
「……」
皇帝の視線を受けて、ヤシュバルは硬く冷たくなっていくシュヘラの顔を見た。既にこちらの声は届かず、意識もあるようには見えない。
いつもヤシュバルを見ると眩しい程の笑顔を向けてくる顔が、今は苦悶に歪んだまま固まっている。
黒化した者をどうするべきか、祝福者であるヤシュバルもよく心得ている。
この場で直ぐに殺す。
「キャンキャン!!キャワワワン!キャン!!!!」
冷たいシュヘラの首に触れたヤシュバルの足を、何かががぶりと噛んだ。
「わたあめくん」
「キャン!キャン!キャン!!ガルルルゥ!!!!」
ぐいぐいと、吠えて、噛んで、威嚇して、雪の魔獣の子がヤシュバルからシュヘラを奪おうと、助け出そうとヤシュバルを攻撃する。
「スコルハティ」
『身の程を弁えよ』
ヤシュバルが自身の使役する魔獣を呼び出せば、雪の魔獣の何倍もある氷の魔獣がピシャリ、と雪の魔獣を威嚇した。
「キャッ……ウーウゥゥウウ!キャン!」
一瞬怯み、しかし雪の魔獣は再び、今度はスコルハティにも噛み付こうと牙を剥く。
どれほど吠えても、小さな魔獣。スコルハティが前脚で少しでも叩こうものなら消えてしまう矮小な存在。それがわからないでもないのに、吠える。
『……愚か者めが』
スコルハティが苛立ったような唸り声を上げた。そして容赦なく、貫き殺そうとして出現させた巨大な氷の杭が、雪の魔獣を貫く。
と、思われた。
「叔父上……ッ!」
「キャワ……ワ、ワン!?」
しかし、その氷の杭は雪の魔獣に届く前に霧散した。
矮小な魔獣の前に飛び出して両手を広げ庇うように現れたのは、白い耳を持つ獣人。第一皇子の長子、カイ・ラシュだ。
「……カイ・ラシュ」
「邪魔をして申し訳ありません、お婆様……!叔父上……!しかし、ですが……ですが!」
契約している魔獣はアグドニグルの王族に危害を加えられない。スコルハティの意思に関係なく、カイ・ラシュに届きそうになれば、スコルハティの攻撃は無効化される。
雪の魔獣を庇ったまま、カイ・ラシュはヤシュバルと、そして皇帝クシャナに向かい、額を床に擦りつけた。
「シェラを、どうか、シェラを殺さないでください!!」




