8、覚えがある
「私……クルトが好きだっただけなのよ……?神殿での生活も、お役目も、いつか、彼が迎えに来てくれるって信じて、頑張れたわ」
周囲の容赦ない視線にすっかり打ちのめされたバルシャさんは、私が駆けつけるとその場にへたり込んだ。ぎゅっと、私に縋りつく弱々しい姿。
「バルシャおねえさん……」
「エレちゃん……どうして?どうして、こんなことになったのかしら……」
綺麗な女の人が悲しむ姿。こちらの心臓をぎゅっと締め付ける程苦しくさせる。私はおねえさんとの婚約解消を望むクルトさん、その腕の中にいる愛らしい女性、そして眉間に皺を寄せているヤシュバルさまをそれぞれ眺めた。
……私の基準で考えたら、どう考えても婚約者がいるのに他の女にうつつを抜かしやがりました野郎の方が悪いに決まってる。
けれどバルシャおねえさんが感情的になって、浮気女を階段から突き飛ばしてしまって、その上、今は、皇帝陛下のための祝賀会。
それを台無しにしてしまったおねえさんの立場は、とても悪い。
見れば遠巻きに「なんだなんだ」と、皇帝陛下やイブラヒムさんたちまでぞろぞろとやってきてしまっている。直ぐに兵士たちがバルシャおねえさんや浮気野郎どもをどこかに連れて行かないのは、この騒動、この場でケリをつけろと望まれているからだろうか。
(うーん……うーん……うーん)
前世でお世話になっていた食堂の常連のOLさんが、確か『悪役令嬢モノ』とか、そういうのを好んでいたのを思い出す。
内容はうろ覚えだが、漫画になった作品もあるといくつか貸して頂いたことがあって、そういえば、こういう、婚約解消?婚約破棄?を相手からつきつけられる女性の話もあったような。
(確か、そういう場面だと……元の婚約者より、良い感じに素敵な人、身分が高かったり顔が良かったり、そういう男の人が、婚約破棄された人を助けてくれるんでしたっけ……)
「エレちゃん……」
「おねえさん?」
「お願い、助けて?」
思考に沈んでいる私をバルシャおねえさんの縋るような声が引き戻す。
目の前には大粒の涙をハラハラと流し、悲観に暮れている美しい女性。バルシャさんの瞳の中には戸惑う私の顔が映っていて、必死に縋りついた手は微かに震えている。
神殿の中庭でいつも優しく微笑んで私やわたあめに親切にしてくれたおねえさんのことが、私は大好きだ。
周囲の人たちは、おねえさんに「聖女なのに感情的になって他人を害するなんて」「あれが聖女とは嘆かわしい」などと、冷たい視線を向けている。
(……ここでバルシャおねえさんを助けられるのは私だけ)
「バルシャおねえさん…………」
「助けてほしいの。エレちゃん。お願い。私……このままじゃ、どうなるか……それともエレちゃんも……もう、私のことは嫌い?」
「……おねえさんの事は好きです。でも、私に何が出来るか……」
ヤシュバルさまにお願いして、おねえさんを庇ってもらう?
皇帝陛下にお願いして、この騒動を起こしたおねえさんを許して貰う?
私が出来るのは、それくらいしか思いつかない。でも、それならおねえさんは私ではなくてこの場でヤシュバルさまに直接お願いした方がいいはずだ。
「優しいのね、エレちゃん」
思い悩む私に、ふわりとバルシャさんが微笑んだ。ご自分の方が今辛い状況だろうに、私のことを気遣ってくれる優しい微笑みに、この人の為なら何でもしたいと、そういう意思が湧き上がる。
湧き上がるのは幼いエレンディラの心。
バルシャさんがしきりに、私をエレンディラを意味する名で呼ぶからだろうか。
そう言えば、誰かに、他人にここまで頼られたことなど幼いレンツェの姫の身にはないことだった。優しく、自分が好意を抱いている人が同じように自分を好いていてくれて、そして頼ってくれている。その問題を解決できるのが自分だけという、その満足感はエレンディラの心に浸み込んで責任感という思いに変えた。
「私、きっともうレグラディカの聖女じゃいられなくなるわ」
ぽつり、と話すバルシャさん。
「……皆には申し訳ないわ。今まで親切にしてくれたのに、私、裏切ることになったのね……」
「バルシャおねえさん、こんな時にも、皆のことを考えてくれるなんて……」
「だから、お願い。エレちゃん。代わって?」
「え?」
何を?
私は一瞬、言われた言葉の意味がわからずぱちり、と瞬きをした。
察しの悪い私を、バルシャおねえさんは出来の悪い教え子に辛抱強くレクチャーする家庭教師のような顔で、微笑みながら続ける。
「代わって欲しいの。レグラディカの聖女に、エレちゃんになってほしいの。レグラディカ様もエレちゃんを気に入ってるし……あぁ、それが良いわ」
「え、えーっと……?でも、あの、私はですね……これでも、一応……王族で……三年後には即位しないといけなくて……」
突然言われた提案に混乱するが、私は千夜千食の後に、レンツェの女王になることが既に皇帝陛下より発表されている。もしかしたらおねえさんはそれを聞いていなくて知らないのかな、と思って言うと、バルシャおねえさんは頷く。
「えぇ、エレちゃん……あなたはあのレンツェの子だったのね……でも、よく考えてほしいの」
「え……」
「陛下にあんなことをしたレンツェの王族、あなたが……陛下のご家族になっていいと思う?」
「……」
「皇帝陛下はお身内にはとてもお優しい方。エレちゃん、あなた……自分が陛下に何をお願いしているのか、本当にわかっているの?」
「私は、レンツェの……王族の愚かな振る舞いに巻き込まれただけの国の人たちを、助けてくださいって、そう、お願いしただけです」
国民が全員奴隷になってしまうから。
それは駄目だと思った。
全ての人に、自分の人生を自由に生きる、未来を描く権利があると思っていて、それを、王族の勝手で奪ってはいけないと思った。
「陛下は、許さないといけなくなるのよ?」
答える私を、バルシャさんは気の毒なものをみるような目をして、ため息をついた。
「陛下の御心を、エレちゃん。考えたことはある?あんなことをされたのに……陛下は、エレちゃんを受け入れて、エレちゃんのお願いを聞いて、料理を食べたら、「許さないといけなく」なるの。理由もなく自分を殴りつけて踏み付けて罵って、ぐちゃぐちゃにした人たちを、許さないと「いけない」のよ」
憎悪を。燃え盛る憎しみの炎を、消してくれと、望んだのだとバルシャさんは指摘する。
その炎が周囲を焼くから。燃えている当人に、自分で炎を消して、何もなかったように微笑んで、周囲に配慮をしろと、そう望んだのだと、バルシャさんは私に指摘した。
「……」
「エレちゃん。あなたは聖女になるべきだわ。レグラディカの大神殿はあなたを受け入れる。陛下だって、あなたが罪を償うために神に身を奉げたいと言ったら、お心が少しは軽くなるはずよ」
そうだろうか。
……そう、なのかな。
ぐるぐると、私は頭が混乱してきた。
囁くバルシャさんの声は甘く、優しく、陛下に酷いことをしているという私がどうすべきか、どうあるべきかと、手を引いて辿り着く場所まで誘導してくれるようだった。
「聖女を代わってくれたら、レンツェのことは私が引き受けるわ。エレちゃんのためだし……それに、一応私も聖女だから、レンツェの王家にルドヴィカとの縁が出来るのは良い事だと思うのよ」
私の代わりに、バルシャさんがヤシュバルさまと結婚してくれて、そしてレンツェの王妃になってくれる。
元聖女で優しいバルシャさんなら、大人で聡明なバルシャさんなら、人の気持ちを考えられるバルシャさんなら、レンツェの人たちにとって、良いだろう。
そもそもレンツェはアグドニグルに制圧されているのだし、アグドニグルの王族が即位するのも……不思議じゃない。
私に流れるレンツェの王家の血は、陛下の為にも、絶えるべきなんだ。
私じゃなければ、陛下も千夜千食という長くお手間を取らせることをさせずに済む。
私じゃなければ、千日もかからずレンツェの人たちも早く、助けられる。
「……」
そうか。
そうだよね。
私が勝手に、あれこれ騒いでやろうとしていただけで、別にやらなくてもいいことなんだ。
落ち込む心。
沈む、沈む、エレンディラの心。
「だから、この場でヤシュバル殿下にお願いして?エレちゃんの口から、私を、」
「バルシャさん」
ぐいっと、私の手を握るバルシャさんの言葉を遮り、顔を見つめ、私は微笑んだ。
「私を利用しようとするの、やめてもらえませんか?」
バルシャさんの大きな瞳に映るのは、白い髪に金の瞳の女の子。
雪の中凍えて、痩せ細ったエレンディラではなくて。
私の名前はシュヘラ。シュヘラザード。
前世の記憶を持つ、ハイブリットプリンセスにしてダイヤモンドメンタルガール!
あっ、長いなっ!




