7、聖女の烙印(2)
「ねぇ、あの方をご覧になりました?」
「神殿に来る他の方々とは全く違いますのね」
「礼儀正しいし、とてもお強いんですって」
ギン族の子、ヤシュバルの噂はすぐに聖女の少女たちの間でもちきりになった。
従属の意思を伝える為に、アグドニグルへの人質となった不遇の子。まだ十代前半らしいあどけなさを残す少年は既に戦場に出てギン族の名を強くするために戦っていると言う。
幼いのに既に目鼻立ちが整っていて、美しい神官の多い神殿内の目の肥えた聖女の少女たちでさえ、柱の陰からひと目見れないものかと、負傷者の手当に寄った一軍の手伝いを自発的に申し出る者が後を絶たなかった。
「氷の祝福を受けていらして、戦場では負け知らずとか」
「山のように大きな魔物をたった一人で倒されたとか」
手当した兵士から聞く話はすぐに聖女の少女たちの間で共有された。仲間意識が強い少女たちは、自分たちが「素敵」と思ったものはなんでも共有して楽しむ。ヤシュバル・レ=ギンという少年は、言うなれば一時の彼女達の「はやり」であった。
幸いなことに誰もまだ口を利いた者がいないのが、聖女の少女たちの和気あいあいとした「ヤシュバル様談義」を平和なものにさせていた。
(ふーん……そう)
その中で、にこにこと皆の話を聞きながらバルシャの考えた事は単純だ。
「あたしの婚約者に指名してあげましょうか?」
バルシャは、最初にヤシュバルの手当てをした。しかしそれは秘密にされていて、聖女の少女たちは知らない事だった。
手当をしてくれたのが自分と同じ年頃の少女であったので、ヤシュバルはバルシャを覚えていて、バルシャがこそりとヤシュバルを呼ぶと、少年は素直について来た。
物陰でバルシャが提案してやったことは、この少年にとってとても名誉なことだろうとバルシャが微笑んでいると、ヤシュバルは僅かに首を傾げる。
「あら、やだ、わからない?あぁ、そっか。あたしが聖女だってちゃんと言ってなかったものね。あたしは聖女。癒しの祝福を受けた者なの」
「そうか」
ヤシュバルの反応は、バルシャが期待したものよりずっとつまらなかった。知らなくてバルシャを軽く扱っていたのなら尚更、バルシャが聖女だと知れば平伏すものではないのだろうか。アグドニグルに囚われた人質とはいえ、聖女がどれほど尊い存在であるのか知らないわけがない。今も聖女たちの奇跡で兵士の傷は癒されているのだ。軍事国家であるアグドニグルは聖女の力を有効利用したいはず。
「はぁ……あなた。見かけは頭がよさそうなのに、もしかして何も考えてないの?あのね、あたしは聖女で、夫を指名できるの。聖女の夫になれた、なんて名誉なことよ?あなたのアグドニグルでの立場はずっと良くなるし、皆があなたを見直すわ」
可哀想な人質の子。
まだ子供なのに戦場に放り込まれて血塗れになっている気の毒な子。
そんな子に救いの手を差し伸べてあげるなんて、自分はなんて「偉い」のだろうとバルシャはうっとりした。
聖女の少女たちの憧れであるこの子を、自分の婚約者にしたら皆への自慢になる。
貴族ではないけれど、部族の代表として人質に出されるくらいなのだからそれなりの生まれなのだろうし、何より顔が良い。
聖女の名のおかげで出世できるだろうし、そうしたら一生この子は自分を崇拝し大切にするだろうと、そんな考え。
バルシャはこの端正な顔立ちの少年が自分の崇拝者になるのを想像した。今でさえ人の目を引くこの少年が成長して立派な青年になって、大きな体で立派な鎧を着て、神殿内にいる自分を迎えに来るの。
その光景を見た周りの聖女たちがどんなに自分を羨ましがるか。称賛と嫉妬の眼差しをたっぷりと向けられながら、自分は慈悲深くヤシュバルの手を取ってあげるのだ。
「皆、というのは誰のことだ?」
「は?」
しかし、現実のヤシュバルは涙を流してバルシャの申し出を受け入れるどころか、無表情に、無感情に問いかけて来た。
「皆って、皆よ。わかるでしょ?貴方の大切な人達とか、貴方を今、軽く扱ってる人たちとか」
「ギン族の者たちは俺がどうなろうと何も思わないだろう」
頭が悪いとは思っていたが、想像以上だ。バルシャは呆れた。
「わからないの?貴方は今とっても可哀想じゃない。それを、あたしが助けてあげるって言ってるの。あたしが貴方を婚約者に指名したら、そうね、アグドニグルの皇帝だってあなたを見直すわ」
どんな愚か者でもアグドニグルの皇帝を出せば理解できるだろう。
バルシャはまだ会った事はない。だが大聖女様や神官たちの話によく聞く。赤い髪の悪魔のような恐ろしい女。十二の時に父親を謀殺して王位を奪った恐ろしい女。何もかも自分の思い通りになると信じて行動している化け物だっていう噂。
それでも神聖ルドヴィカは脅威と感じているのか、丁寧に接し必要があれば神聖ルドヴィカの為に兵を出してくれるそうだ。その見返りにこうして兵士の手当てをしているわけだが。
「陛下が」
「そうよ。皇帝陛下は有能な男の子を養子に迎えられる事があるんでしょう?聖女の夫になる者だったら、陛下も養子にと考えられるかもしれないわね。神聖ルドヴィカとの繋がりは誰だって喉から手が出る程に欲しいものだもの」
あの皇帝の役にも立てると言えば、人質で部族のために戦っているこの少年は飛びつくだろう。バルシャは自分の話の上手さに我がことながら感心した。聖女は人を上手く使える必要もあるし、この子を説得することはいい練習になるかもしれない。
「ねぇ、わかったでしょう?あたしがどんなに良い提案をしてあげてるか。これでわかったでしょう?」
「俺は既に皇帝陛下のものだ。俺が誰と婚姻を結ぶか、俺の一存で決められるものではなく、そして、君の言うように本当に君が皇帝陛下にとって有益であれば、既に陛下は君を手に入れられているだろう」
ヤシュバルの答えは、バルシャの望んだものではなかった。
氷のような一瞥。
バルシャがどんなに自分が宝石のような存在であり、身に付ける者を輝かせる事が出来る至高の存在であると説明しても、この冷たい男の瞳には僅かでも野心の炎が芽生えない。
「なっ、」
「君は、俺になにをさせたいのか知らないが」
それどころか、押し売り、迷惑極まりない。無価値な石ころを押し付けられているというような、面倒くさそうな感情が僅かに見え隠れしてさえいた。
「俺のすべきことは全て既に何もかも決まっていて、そこに俺自身の価値の変化は含まれていない。俺は君に興味がないし、君に有益を齎すこともない。以上だ」
*
(そう言って、振り返らずに去って行ったのよね。あなた、本当、昔から冷たい嫌なクソ男)
逆上し、喚き散らして取り押さえられたバルシャは、それでもまだわけのわからない言葉を獣のように叫びながら、頭の隅の冷静な自分は、こちらを面倒くさそうに眺めるヤシュバルのことを考えていた。
アグドニグルの首都ローアン。皇帝陛下のおわす御殿にて行われる戦勝の宴。そこに招かれた神殿の聖女。
神殿内では最近、パフェなるものを作ることが流行っていた。今は老いた神官たちも、しわくちゃになるまでには歩んだ人生、得た知識があり、それらをどうパフェに封じることができるかと、そんな遊び。
画家を目指していた者は色使いや、組み合わせ方を模索して。薬学に秀でた者は食べ合わせに規則性を見出す。硝子の器にものを詰めるだけの作業を、老人たちが喜々として行って、そしてそれをレグラディカの名物に出来ないかと模索していた。
今宵の宴に神殿勢がぞろぞろと参加したのは、面白いことをこよなく愛する皇帝陛下にパフェを献上して資金援助を募るため。神官たちが気合を入れて挑むのを、バルシャはさめざめと眺めていた。
赴任して三年。信者も少ない、ただ大きなだけの大神殿ではただ怪我人や病人の傷をいやすくらいしかやることがない。派手な式典はアグドニグルに睨まれて、またルドヴィカからの援助が乏しく行えず、バルシャは自分が最も美しい時間を老人たちに囲まれるだけで終わるのだとうんざりしていた。
鏡に映る自分は誰よりも美しくて、聖女という肩書きは本来毎日、貴族や王族の元に呼ばれて敬愛の眼差しを向けられるべき特別な存在のはずだった。
アグドニグルという、誰からも恐れられ、そして憧れる国の立派な神殿の聖女になれば、他の聖女たちよりずっと豪華で贅沢で恵まれた暮らしが出来ると思っていたのに。
バルシャの望みはいつからか、さっさと神殿から出て行くことだった。
その為には結婚するしかない。聖女はそうしなければ聖女を辞められない。
選んだ相手はクルト・ボジェット。
顔立ちは整っているが、これと言って秀でた物があるわけでもない平凡な男。
「よくも、よくも……!!このあたしに恥をかかせてくれたわね……!!」
つまらない男。
だけれど聖女に選ばれて、故郷からアグドニグルにやってきた。貴族の次男。跡を継げるわけでもないから、バルシャの夫になることを喜んで、バルシャを崇拝してくれた。
最初から、こんな男のものになる気なんてバルシャにはなかった。
なのに、この男は聖女の婚約者になって周囲にチヤホヤされて、女遊びをするようになった。バルシャにはそれが腹立たしい。
自分という女がいるのに、他の女に目移りするなど、自分の魅力を下げられているようで、それが、こんなに取るに足らない、どこにでもいるような平凡な男に侮られたことが、「は?」と思った。
クルトが選んだのは、平民の小娘。若さと可愛さしか持っていないような、医学生というがドジばかりで薬草の名前もまともに覚えられず、応急処置くらいしかできないような馬鹿な女。
皇帝陛下の戦勝パーティーにノコノコ連れてきて、ついて来て、きょろきょろと辺りを見渡すみっともない男女を、バルシャは見つけて、声を上げた。
嫉妬に狂った愚かな女。
聖女でありながら、男の愛情を求めた愚かな女。
そう周囲に思われながら、バルシャの意識は階段の上にいるヤシュバルに集中している。
正確には、その隣にいる白い髪の少女にも。
(ねぇ、ほら。エレちゃん。エレンディラちゃん。お姉さんを見て。ほら、可哀想でしょう?)
女神メリッサ様さえ篭絡した。
気難しい第一皇子の長子さえ、虜にした。
(心優しくて、何もかも許してしまえる貴方からして、優しくて親切なバルシャお姉さんが、婚約破棄なんてされて、可哀想でしょう?)




